六月。
日本の四季において、最も湿度が支配的となる季節が訪れていた。
連日の雨。鉛色の空。
雄英高校の職員室もまた、外気と同様に重苦しい湿気に包まれている。
「最悪だ。パリッといかない煎餅なんて、炭酸の抜けたコーラ以下だ」
楔はデスクに突っ伏し、湿気た煎餅を義務感だけで咀嚼していた。
その隣では、
「文句を言う暇があるなら、地理の試験問題を作ってください天土先生。締め切りは明日ですよ」
「分かってるよ。どうせあいつら、地形図の読み方なんて興味ないだろうからな。等高線の本数を数えさせるだけの地獄のような問題にしてやる」
「性格が悪いですね。まあ、実技試験のペアリングも考えなきゃならない。今年は誰をぶつけますか」
相澤が手元のリストを見る。
期末テスト。それは一学期の総決算であり、夏休みの林間合宿への切符をかけた重要な関門だ。
筆記試験はもちろんだが、生徒たちが最も警戒しているのは演習試験だろう。
例年通りならば、ロボット相手の模擬戦。だが、今年は少し趣向を変えることが職員会議で決定されていた。
対人戦闘の強化。つまり、教師が生徒の壁となって立ちはだかるのだ。
「俺の相手は誰でもいいが。手加減が面倒な相手は避けてくれよ」
「善処します。ですが、あなたの実力を生徒たちに再認識させておく必要はあるでしょうね。ステイン戦での増長をへし折る意味でも、個性の『応用力』を見せてやってください」
相澤の言葉に、楔は面倒そうに鼻を鳴らした。
増長。
確かに、
火力や速度だけが強さではないことを、教える潮時か。
ホームルーム。
相澤から期末テストの告知が行われると、1年A組の教室は阿鼻叫喚の坩堝と化した。
そんな中、楔は特売茶を飲み干し、黒板を指の関節で叩いた。乾いた音が、浮かれた空気を強制的に遮断する。
「おい、騒ぐな。勉強会も結構だが、頭の体操はできているんだろうな」
楔の声に、生徒たちが静まり返る。
「今日のヒーロー基礎学は、俺が担当する。グラウンドベータへ移動しろ。プロの『仕事』ってやつを見せてやる」
グラウンドベータ。
市街地を模した演習場の一角には、先日の大雨を想定したのか、大量の土砂や瓦礫が積み上げられ、道路を寸断していた。
土砂崩れによる通行止め。あるいは、倒壊した建物の残骸。
生徒たちはコスチュームに着替え、その光景を前に立ち尽くしていた。
「今回の想定は、土砂災害による道路の啓開、および被災地の整地だ」
楔は瓦礫の山を指差した。
「この大量の土砂を撤去し、救急車両が通れるように道を確保する。……さて、お前らならどうする」
「あァ? そんなもん、吹き飛ばせば一発だろ」
「却下だ。周囲には民家がある想定だ。爆風で窓ガラスを割る気か? それに、吹き飛ばした土砂が別の場所に降り注げば、二次災害になる」
楔は冷静に指摘する。
「あの、私の無重力で浮かして運ぶのはどうですか?」
「悪くない。だが、この量だ。お前のキャパシティじゃ日が暮れるぞ」
生徒たちが悩み始める。
パワーで解決するには繊細すぎ、手作業でやるには量が多すぎる。
楔はため息をつき、前に出た。
「……いいか。個性ってのは使いようだ。俺の『
楔が地面に手を触れた。
次の瞬間、目の前に積み上げられた数トンもの土砂の山が、一斉に形を変えた。
鋭利な刃の切っ先。無骨な鉄の塊。
土砂の山そのものが、巨大な「戦車」と、無数の「ミサイル」へと変貌したのだ。
「ええっ!? せ、戦車!?」
「土砂を……武器に変えた!?」
驚く生徒たちを他所に、楔は指を振るった。
彼が生成した戦車とミサイルが、ふわりと浮き上がる。
いや、浮いたのではない。楔の意思によって、それらが自律的に移動を始めたのだ。
巨大な戦車(元・土砂)が、キャタピラを回転させて道路の脇にある集積場へと自走していく。
空中に浮かぶミサイル群(元・瓦礫)もまた、整然とした編隊を組んで移動する。
「俺は生成した武器を自在に操れる。……つまり、土砂を『戦車』という名のパッケージに梱包してしまえば、俺の意思一つでどこへでも運べるわけだ」
楔が集積場を指差す。
移動を終えた戦車とミサイルが、そこで動きを止めた。
そして、楔が指を鳴らす。
解除。
その瞬間、鋼鉄の光沢を放っていた兵器たちが、砂のように崩れ去り、ただの土砂の山へと戻った。
結果として、道路を塞いでいた障害物は綺麗さっぱりなくなり、集積場に移動していた。
重機も使わず、騒音も立てず、ただ「武器を作って、動かして、戻した」だけだ。
「す、すげぇ……! そんな使い方が……!」
「発想の転換ね! 武器を運搬用のコンテナ代わりにするなんて!」
武器しか作れないという不自由な個性を、解釈の拡大によって復興支援に転用する。
それが、プロの知恵だ。
「まだあるぞ。……次はあそこを見ろ」
楔が指差したのは、ぬかるんだ泥地だった。
雨を含んでスープ状になった地面は、人が歩けば腰まで沈みそうな底なし沼と化している。
「地盤が緩んで危険なエリアだ。これじゃあ救助隊も入れない。……だが」
楔が泥地に向けて手をかざす。
泥の中から、無数の「剣」や「槍」が切っ先を上にして隆起した。
おびただしい数の刃が地面を埋め尽くす。一見すれば、誰も近づけない処刑場だ。
だが、楔はその切っ先の上に、さらに平らな「装甲板」を生成し、敷き詰めた。
剣の柱が杭となり、その上に装甲板の床が乗る。
即席の、鋼鉄の足場が完成した。
「泥が固まるのを待つ必要はない。……泥を素材に柱を立て、その上に道を作ればいい。……救助が終われば、こうだ」
楔が解除の合図を送る。
足場と柱が一瞬で砂に戻り、再び泥沼へと帰る。
設置から撤去まで、数秒の早業。
「逆に、敵を捕縛したい時はこう使う」
楔は、硬いアスファルトの地面に立っている緑谷を指差した。
緑谷の足元から、突然無数の「スパイク」が飛び出す。
緑谷が驚いて飛び退こうとするが、そのスパイクは伸びきった瞬間に「解除」された。
硬質化していた物質が、瞬時に分子結合を解かれ、サラサラの砂へと戻る。
結果、緑谷の足元のアスファルトは、一瞬にして流動性の高い「蟻地獄」へと変化した。
「うわぁっ!?」
足場を失った緑谷が、腰まで砂に埋まる。
固い地面を武器化し、即座に解除することで地盤を崩壊させ、相手を拘束するトラップ。
これもまた、武器生成のプロセスを利用した地形干渉だ。
「……武器ってのは、殺すためだけの道具じゃない。……要は使い手の頭次第だ。……戦車を土砂運搬車として使い、剣を建築資材として使い、生成と解除のサイクルを罠として使う」
楔は緑谷を引き上げながら、生徒たちを見渡した。
彼らの目には、単なる強さへの憧れではなく、知恵への渇望が宿り始めている。
「力に溺れるなよ。……お前らの個性も、視点を変えればもっと面白い使い方ができるはずだ。……特に八百万。お前の創造は、俺なんかよりよほど自由度が高い。……カタログスペックに縛られるな」
八百万がハッとして、強く頷いた。
彼女は物質の組成を知り尽くしている。ならば、楔以上の応用ができるはずだ。
「……さて。今日の授業は、この演習場の整地だ。……俺は手本を見せた。あとはお前らが、それぞれの個性を使ってこの荒れ地を更地に戻してみろ。……頭を使えよ、予備軍ども」
楔は瓦礫に腰を下ろし、湿気た煎餅の袋を開けた。
生徒たちが散らばり、試行錯誤を始める。
爆豪が小さな爆発で土を崩し、瀬呂がテープで瓦礫をまとめ、麗日がそれを運ぶ。
連携と応用。
それが彼らの次なる課題だ。
(……やれやれ。少しはマシな顔つきになったか)
楔は空を見上げた。
厚い雲の隙間から、薄日が差し込んでいる。
期末テスト。
そこで彼らがどんな「答え」を見せてくれるのか。
教師としての楽しみと、試験監督という残業への憂鬱を天秤にかけながら、