天土楔の憂鬱な教職日誌   作:金属粘性生命体

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ランチの喧騒、あるいは補習地獄の等高線

 

 

 期末テストまで残り三日。

 雄英高校の空気は、梅雨の湿気と、生徒たちが発する焦燥の熱気で飽和状態にあった。

 ヒーロー科の生徒にとって、実技試験は命がけの試練だが、その前に立ちはだかる「筆記試験」という壁もまた、決して侮れない巨大な要塞である。

 特に、実技の成績は良いが座学を苦手とする者たちにとって、この時期はヴィラン襲撃以上の恐怖が支配する期間でもあった。

 

 昼休み。

 ヒーロー科、普通科、サポート科、経営科が一堂に会する巨大食堂「ランチラッシュ」は、今日も食欲と会話のノイズで満たされている。

 その一角、比較的静かな窓際の席で、天土(あまつち)(クサビ)は一人、箸を動かしていた。

 彼のトレーに乗っているのは、定食ではない。

 白飯単品。そして、スーパーで買い溜めしていた「海苔の佃煮」の瓶。

 以上だ。

 周囲の生徒たちが栄養バランスの整った豪華なランチを食べている中で、彼の食事風景だけが昭和の貧乏学生のような哀愁を漂わせている。

 

「……塩分があれば人は動ける。贅沢は敵だ」

 

 楔は白飯に黒いペーストを塗りたくりながら、独り言ちた。

 給料日前ではない。単に、今朝方スーパーで特売の煎餅を大量購入し、財布の中身が寂しくなっただけである。

 そんな彼の向かいの席に、影が落ちた。

 

「天土先生、ここいいですか?」

 

 緑谷(みどりや)出久(いずく)だ。

 彼の手には、カツ丼の大盛りが乗ったトレーがある。

 その後ろには、飯田(いいだ)天哉(てんや)(とどろき)焦凍(しょうと)も続いていた。

 

「……構わんが、俺の佃煮はやらんぞ」

「い、いえ、大丈夫です! いただきます!」

 

 三人が席に着く。

 飯田はビーフシチュー、轟は冷たい蕎麦を選んでいるようだ。

 食べ盛りの高校生らしく、彼らは黙々と箸を進めるが、その表情には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。

 

「……筆記の勉強、進んでるか」

 

 楔が問いかけると、緑谷が箸を止めて苦笑した。

 

「そ、それが……英語と数学はなんとかなるんですけど、天土先生の地理と、エクトプラズム先生の数学Ⅱが難しくて……」

「僕もです。特に地理の『超常社会における都市構造の変化』という論述問題、あれは範囲が広すぎます」

 

 飯田が真面目な顔で嘆く。

 楔は佃煮ご飯を頬張りながら、鼻を鳴らした。

 

「……都市構造? 難しく考えるな。要は『ヴィランが暴れたら街がどう壊れて、どう再建されたか』の歴史だ。……オールマイトが登場する前の混沌とした時代、都市は要塞化する傾向にあった。壁が高く、窓が小さい建築様式が流行ったのはなぜか。……答えは簡単、ガラス代をケチるためじゃない。流れ弾避けだ」

 

 楔の即席講義に、三人が思わず箸を止めて聞き入る。

 

「その後、平和の象徴が現れて治安が安定すると、都市は開放的になり、ガラス張りのビルが増えた。……つまり、街の形ってのは、その時代の『恐怖の総量』と反比例する。……地図を見れば、その街がどれだけ怯えているか、あるいは平和ボケしているかが分かる」

 

 緑谷がハッとして、ポケットからメモ帳を取り出し、猛烈な勢いで書き込み始めた。

 

「恐怖の総量と都市構造……! すごい、教科書には載っていない視点だ……!」

「……確かに。保須市の路地裏が入り組んでいたのも、古い時代の名残ということか」

 

 轟が蕎麦を啜りながら呟く。

 彼はステイン戦での経験を、知識として定着させようとしているようだ。

 楔は茶を一口飲み、彼らに釘を刺した。

 

「……丸暗記じゃ現場で役に立たん。……『なぜそこに道があるのか』『なぜここは行き止まりなのか』を常に考えろ。……それができれば、逃走ルートの確保も、敵の追い込みもスムーズになる。……実技試験でも使うぞ」

「はい!」

 

 三人が力強く返事をする。

 素直な生徒たちだ。

 楔は空になった佃煮の瓶を見つめ、少しだけ彼らが眩しく見えた。

 

 その時、食堂の入り口付近で騒がしい声が上がった。

 物間(ものま)寧人(ねいと)率いるB組の面々だ。

 A組に対抗心を燃やす彼は、今日も今日とてA組のテーブルに向かって何かを叫んでいる。

 

「聞いたよA組! 君たち、ステインとも遭遇したんだって!? またまたトラブルメーカーぶりを発揮しちゃってさあ! いつかその疫病神体質で学校全体を巻き込むんじゃないかい!?」

「物間、やめなよ……」

 

 拳藤(けんどう)一佳(いつか)が手刀で物間の首を打ち、気絶させて回収していく。いつもの光景だ。

 だが、その言葉は図星でもあった。

 A組は入学以来、常にトラブルの中心にいる。

 

「……疫病神、か。あながち間違いでもないな」

 

 楔が呟くと、緑谷たちが申し訳なさそうに俯く。

 だが、楔は続けた。

 

「……トラブルが向こうからやってくるなら、迎撃準備を整えておくしかない。……期末テストは、そのための装甲強化だと思え。……赤点を取って補習になれば、夏休みは学校の地下牢で缶詰だからな」

 

 地下牢(補習室)。

 その単語の響きに、三人の背筋が凍りついた。

 

       *

 

 放課後。

 1年A組の教室に残っているのは、成績下位の「赤点危険水域」にいるメンバーだった。

 上鳴(かみなり)電気(でんき)芦戸(あしど)三奈(みな)瀬呂(せろ)範太(はんた)、そして切島(きりしま)鋭児郎(えいじろう)

 彼らは机を寄せ合い、地理の教科書と睨めっこをしている。

 その中心には、教える役を買って出た八百万(やおよろず)(もも)の姿があった。

 

「ええと、ですからここの等高線が密になっている部分は、急斜面を表していますの。逆に間隔が広いここは緩やかな斜面。……分かります?」

「うーん……線がいっぱいで目が回るぜ……」

 

 上鳴が机に突っ伏す。

 そこへ、職員室から戻ってきた楔が入ってきた。

 手には、明日の試験問題の原案が入った封筒が握られている。

 生徒たちの視線が、その封筒に釘付けになった。

 

「……見ても無駄だぞ。中身は透視対策の特殊加工済みだ」

 

 楔は封筒を教卓に叩き置き、黒板の前に立った。

 放課後の補習授業。

 これもまた、残業嫌いな彼が渋々引き受けた業務の一つだ。赤点を出されて林間合宿のスケジュールが狂うと、引率教師としての負担が増えるからである。

 

「いいか、馬鹿者ども。等高線が読めないとどうなるか教えてやる」

 

 楔はチョークを手に取り、黒板に山岳地帯の図を描いた。

 そして、谷底に棒人間(生徒)を、尾根に棒人間(敵)を描き足す。

 

「お前らが地図も読めずに谷底のルートを選んだとする。敵は等高線を読んで尾根に陣取る。……結果、お前らは上からの集中砲火を浴びて全滅だ。……地形的有利というのは、火力や数よりも戦局を左右する」

 

 切島がごくりと喉を鳴らす。

 

「……マジかよ。地図読めねえと死ぬのか」

「極論を言えばそうだ。逆に言えば、地図さえ読めれば、少ない戦力で大軍を足止めすることもできる。……テルモピュライの戦いを知ってるか? 狭い地形を利用して、三百人が数万の軍勢を食い止めた話だ」

 

 楔の話に、上鳴たちが身を乗り出す。

 単なる記号の羅列だった地図が、生存のための攻略本に見えてきたのだろう。

 教育とは、興味のフックをどこに掛けるかだ。

 ヒーロー志望の彼らにとって、「生存率」という言葉はどんな甘言よりも響く。

 

「先生。この『扇状地』ってのは、戦うのに向いてますか?」

 

 芦戸が質問する。

 楔は口元を緩めた。

 

「いい質問だ。扇状地は水はけが良いが、川の氾濫リスクもある。……敵を誘い込んで水攻めにするなら悪くない選択肢だ。……ただし、自分たちが流されないように退路は確保しておけよ」

 

 教室の空気が変わる。

 勉強をさせられているという受け身の姿勢から、戦術を学んでいるという能動的な姿勢へ。

 八百万も、楔の説明を聞きながら熱心にメモを取っている。

 彼女の「創造」もまた、地形や状況に応じた物品を作成する必要があるため、地理的知識は大きな武器になるはずだ。

 

 一時間の補習が終わり、生徒たちが帰路につく。

 教室には、夕焼けのオレンジ色が差し込んでいた。

 楔は黒板を消しながら、ふと教室の入り口に気配を感じて振り返った。

 爆豪(ばくごう)勝己(かつき)が立っていた。

 彼は帰ったはずだが、何か言いたげにポケットに手を突っ込み、不機嫌そうな顔で楔を睨んでいる。

 

「……なんだ。補習希望か? お前の成績なら必要ないはずだが」

 

 爆豪は成績優秀だ。実技の粗暴さに隠れがちだが、座学においても学年トップクラスの頭脳を持っている。

 爆豪は教卓まで歩み寄ると、低い声で言った。

 

「……おい。実技試験、テメェが俺の相手なのか」

「……さあな。まだ発表前だ」

 

 楔はしらばっくれた。

 だが、爆豪の勘は鋭い。彼は楔の目を見据え、宣言するように言い放った。

 

「……誰が相手だろうが関係ねェ。全員ぶっ潰して、俺が一番になる。……テメェが作ったあの戦車みてェな小細工も、全部爆破してやるから首洗って待ってろ」

「……威勢がいいな。だが、爆破するだけが勝利じゃないぞ」

「うるせェ! 勝つってのは、敵が二度と立ち上がれねェようにすることだ!」

 

 爆豪はそれだけ言うと、乱暴に教室のドアを閉めて出て行った。

 廊下に響く足音。

 楔は黒板消しを置き、深いため息をついた。

 

「……勝つことへの執着。それは才能だが、同時に諸刃の剣だ。……折れなきゃいいがな」

 

 楔は知っている。

 爆豪が抱える焦り。緑谷の急成長に対する苛立ち。そして緑谷を虐めていたが故に報復を恐れる彼の中で燻る罪悪感にも似た責任感。

 それらが彼を突き動かし、同時に追い詰めている。

 今回の期末テスト。

 もし楔が彼の担当になるなら、その鼻っ柱をへし折るだけでなく、折れた先にある「別の強さ」を教えなければならないだろう。

 だが、相澤の作成したリストによれば、爆豪の相手は楔ではない。

 もっと最悪で、もっと相性の悪い、あの「最強の男」だ。

 

「……オールマイト対爆豪・緑谷、か。……八木も大人げないことをする」

 

 楔は窓の外を見下ろした。

 校門を出て行く生徒たちの背中。

 その中には、爆豪と緑谷が距離を置いて歩いている姿も見える。

 交わらない二本の線。

 それを無理やり結びつけようとする荒療治が、吉と出るか凶と出るか。

 

「……俺の相手は轟と八百万。……こっちもこっちで、面倒な組み合わせだ」

 

 創造主同士の対決。そして、氷と炎の迷走。

 楔は自身の個性を確認するように、掌を握りしめた。

 武器を作る手。

 その手が、生徒を育てるための手として機能するかどうか。

 期末テストの幕開けは、もう目の前に迫っていた。

 

 楔は鞄を手に取り、職員室へ戻る足を速めた。

 まだ終わっていない仕事がある。

 明日の試験問題の最終チェックではない。

 湿気てしまった煎餅を、電子レンジで加熱して復活させるという、極めて重要なミッションが彼を待っていたからだ。

 

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