三日間にわたる筆記試験という名の精神的拷問が終了した。
最後の科目である地理の答案用紙が回収されると同時に、1年A組の教室からは魂が抜けるような溜息が一斉に漏れ出した。
「終わった。狙撃ポイントなど知るか」
「私、計算ミスしましたわ。復興予算の桁が一つ足りません」
だが、感傷に浸る時間はない。
筆記の次は、本丸である演習試験が待っている。
演習試験会場、セントラルプラザ。
A組の生徒たちがジャージ姿で整列する前には、
その威圧感は、並大抵のヴィラン集団よりも遥かに重く、生徒たちの肌を粟立たせる。
校長の
「諸君! 筆記試験お疲れ様! 次は演習試験だね! 事前の情報ではロボットとの模擬戦だと思っていたかな? 残念! 今回は趣向を変えて、対人戦闘を行ってもらうよ!」
「対人?」
「そう! 君たちには二人一組のペアを組んでもらい、ここにいる教師一人と戦ってもらう!」
教室がどよめく。
ロボット相手なら火力で押し切れるかもしれない。だが、相手は百戦錬磨のプロヒーローだ。
相澤が淡々と説明を引き継ぐ。
「評価基準は二つ。制限時間内にハンドカフスを教師にかけるか、あるいはステージからの脱出。要は『捕縛』か『逃走』だ。そして、ハンデとして我々はこれを装着する」
教師たちが一斉に、手足に重りのようなバンドを装着した。
総重量、約プロヒーロー一人分の体重に相当する枷だ。
楔もまた、面倒そうに手首と足首に黒いバンドを巻き付けた。
重厚な金属音が鳴る。
だが、彼の表情には少しの翳りもない。むしろ、ハンデなど意味がないと言わんばかりの冷ややかな目が、生徒たちを射抜いていた。
「それでは対戦カードを発表する。第一試合、切島・佐藤ペア対セメントス。第二試合、常闇・蛙吹ペア対エクトプラズム」
次々と名前が呼ばれていく。
そして。
「第五試合。轟・八百万ペア対……天土」
名前を呼ばれた瞬間、
楔はポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと二人の前まで歩み寄った。
身長差。
そして、圧倒的な経験値の差。
彼は特売の煎餅をバリと齧りながら、見下ろすように告げた。
「運が悪かったな。他の先生なら、生徒の成長を促すようなプロレスをしてくれるかもしれんが、俺はそういう器用な真似はできん。手加減はしない。死ぬ気で来い」
その言葉は脅しではない。
事実の通告だ。
轟が拳を握りしめ、八百万が息を呑む。
二人の顔には、明確な緊張と、微かな恐怖が張り付いていた。
さらに発表は続く。
最後に残ったのは、
最悪と最強の組み合わせに会場がざわつく中、楔は踵を返し、指定された演習エリアへと向かった。
演習場の一角。
住宅街を模したエリアは、しとしとと降る小雨に濡れていた。
スタート地点のゲート前に立つ轟と八百万。
二人の間には、重苦しい沈黙が流れている。
轟はステイン戦を経て迷いを振り切ったとはいえ、相手が天土楔となると話は別だ。あの教師は、轟の戦い方の癖も、思考の甘さも全て見透かしている。
一方、八百万の表情はさらに暗い。
体育祭での
そんな迷いが、彼女の立ち姿から滲み出ている。
「八百万。策はあるか」
轟が問いかける。
八百万はハッとして顔を上げたが、視線は泳いでいた。
「え、ええ。天土先生の個性は強力ですが、生成された武器は物理的なものです。遮蔽物を利用して接近し、一瞬の隙を突いて」
「具体性がないな。まあいい、俺が先行して氷と炎で陽動する。お前はその隙に何か有効な武器を作ってくれ」
轟の言葉は、提案というよりは指示に近かった。
八百万が唇を噛む。彼女は自分が頼りにされていないことを敏感に感じ取っていた。
開始のブザーが鳴り響く。
試験開始。
轟が飛び出す。
彼は右足を強く踏み込み、巨大な氷壁を生成して前方の視界を塞ぎながら、一気に距離を詰めようとした。
速攻。
楔に準備の時間を与えないための最善手。
だが、その判断こそが、楔の掌の上だった。
轟音が鼓膜を叩き割る。
轟が生成した氷壁が、中央から粉々に砕け散った。
氷の破片が散弾のように降り注ぐ中、轟は咄嗟に左手の炎で熱風を作り、破片を融解させて防御する。
「なっ!?」
視界が開けた先。
そこにあったのは、ゴールゲートを守る教師の姿ではなかった。
要塞だった。
ゴールゲートを中心に、扇状に展開された無数の砲台。
アスファルトから生えたそれらは、対空機関砲、榴弾砲、そして対戦車ミサイル発射機。
およそ三十門におよぶ火器群が、電子制御された目のように、正確に轟たちを捕捉していた。
その中央、弾薬箱(生成物)の上に座り、退屈そうに特売茶を飲んでいる男。
「遅い」
楔が指を弾く。
一斉射撃。
銃声が重なり合い、一つの巨大な咆哮となって空間を震わせる。
弾丸の雨。
轟は舌打ちをし、全力で氷のドームを作って防御体勢に入った。
氷が削られる乾いた音が絶え間なく響く。
楔の作り出す弾丸は、ただの鉛ではない。土中の鉱物を圧縮し、硬度を高めた徹甲弾だ。轟の氷など、数秒で貫通する。
「くそっ! 近づけねぇ!」
轟は氷壁を維持するだけで精一杯だ。
八百万は轟の後ろに隠れ、盾を作るのがやっとだった。
これでは陽動にもならない。完全な制圧射撃。
楔は弾薬箱の上で足を組み直し、拡声器を通して通告した。
「どうした、ヒーロー志望。ヴィランが待ってくれると思ったか? ここは既に俺の陣地だ。一歩でも踏み込めば、蜂の巣じゃ済まんぞ」
楔の戦術はシンプルだ。
動かない。
『
ならば、ゴール地点に陣取り、そこを絶対防御圏とすることで、移動のリスクを排除し、火力を最大化する。
ハンデである重りなど関係ない。動かなければ重さなどゼロに等しい。
「八百万! 何か作れないか! このままじゃジリ貧だ!」
氷の壁が削られ、薄くなっていく。
轟が叫ぶ。
八百万は脂質から大砲を作ろうとするが、思考がまとまらない。
相手の火力が強すぎて、何を作れば対抗できるのか計算できないのだ。
「わ、私、どうすれば」
「ちっ!」
轟は八百万の返答を待たず、左手の炎を最大出力で放出した。
氷壁が溶け、爆発的な水蒸気が発生する。
視界を奪う煙幕。
その隙に、轟はサイドの路地裏へと駆け込んだ。
「逃げるぞ八百万!」
二人は路地裏へと退避し、楔の射線から逃れた。
だが、それは楔にとって想定内の行動だ。
彼は砲撃を止め、煙の向こうを見つめた。
「路地裏に逃げ込んだか。定石だな。だが、俺が地理教師だということを忘れていないか」
楔は懐から端末を取り出し、この演習場の見取り図を表示させた。
彼らが逃げ込んだエリアは、袋小路が多い住宅密集地。
楔は地面に手を触れた。
遠隔操作。
彼らが走っているであろう路地の地面から、音もなく有刺鉄線が生成される。
さらに、壁面からは感知式クレイモア地雷が顔を出す。
路地裏を走る轟と八百万。
「ここなら射線は通らない。回り込んで背後を突く」
「で、ですが轟さん、天土先生のことです。このルートも予測しているのでは」
八百万の懸念は的中した。
轟が曲がり角を抜けようとした瞬間、足元に違和感を覚えた。
「しまっ」
微かな金属音。
壁面のクレイモアが起爆する。
非殺傷性のゴム弾と衝撃波が、狭い路地裏で炸裂した。
轟が吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「ぐっ!」
「轟さん!」
八百万が駆け寄ろうとするが、彼女の周囲の地面からも、鋭利なスパイクが隆起し、進行を阻む。
逃げ場がない。
正面は砲台による弾幕。裏道は罠の迷宮。
これが、地形を掌握した天土楔という男の戦い方だ。
「聞こえるか、劣等生ども」
街頭スピーカーから楔の声が響く。
ハッキングではない。彼は配線を通じてマイクを接続し、放送設備をジャックしたのだ。
「轟。お前は力押しが過ぎる。氷と炎、強力な個性だが、それに頼りすぎて足元がお留守だ。地雷一つでお前の機動力は死ぬ」
轟が歯を食いしばる。
図星だ。彼はステイン戦でも、個性の出力に頼るきらいがあった。
「そして八百万。お前は何をしている? 轟の後ろをついて回るだけの荷物持ちか」
八百万の肩が跳ねる。
最も痛いところを突かれた。
「お前の個性『創造』は、全部とは言えんが俺の『土細工』の上位互換だ。俺は武器しか作れんし、素材がなきゃ何もできん。だがお前は、知識と脂質さえあれば、絶縁シートも、ガスマスクも、あるいは戦局を覆す何かだって作れるはずだ。なぜ作らない。なぜ思考を止める、お前の個性は思考を止めた瞬間に負けが決まる代物だ」
楔の声は冷たく、しかし核心を抉る。
「私の創造が、上位互換?」
八百万は震える手を見つめた。
楔の圧倒的な生成速度と物量。それに比べて、自分は遅いし、脆い。そう思い込んでいた。
だが、楔は言った。彼女の方が上だと。
「今の俺は、ただの固定砲台だ。動けないし、動く気もない。攻略法などいくらでもあるぞ。考えるのをやめた時点で、お前たちの敗北だ」
スピーカーからのノイズが切れ、再び静寂が戻る。
轟が痛みを堪えて立ち上がり、八百万を見た。
彼女は俯いていた。だが、その瞳からは、先ほどまでの迷いが消え、代わりに必死に思考を回転させる光が宿り始めていた。
「轟さん。私に、時間をください」
八百万が顔を上げる。
「天土先生の言う通りです。私たちが勝つには、先生の予測を超える『何か』を作るしかありません。先生の武器が土から生まれるなら、その土台を覆すものを」
「勝算はあるのか」
「やってみせます。私だって、A組の生徒ですから」
八百万がコスチュームのジッパーを下ろし、肌を露出させる。
最大出力の創造。
彼女の脳内で、化学式と構造図が高速で組み立てられていく。
楔の砲撃が再開されるまで、あと数十秒。
そのわずかな時間が、勝敗を分かつ分岐点となる。
一方、ゴール地点の楔は、再びお茶を一口飲んだ。
モニターには、路地裏で何やら作戦会議をする二人の熱源反応が映っている。
「さあ、見せてみろ。俺の作った箱庭を、どうやって壊す」
彼は生成した対物ライフルのスコープを覗き込んだ。
引き金にかけた指は、まだ動かない。
教育者としての彼は、生徒が殻を破る瞬間を、照準の向こう側で静かに待ち続けていた。