合宿三日目。
折り返し地点となるこの日は、疲労とストレスがピークに達する鬼門だ。
生徒たちの肉体は鉛のように重く、思考は鈍り、個性は枯渇寸前まで追い込まれている。
だが、プロヒーローたちは容赦しない。
むしろ、ここからが本当の地獄だと笑うかのように、プッシーキャッツの四人が生徒たちの輪に入り込んでいた。
「さあさあ! もっと激しく! もっとワイルドに!」
「猫の手も借りたいくらい忙しくさせてあげる!」
広場の中央では、虎が
個性『軟体』。
ありえない角度で曲がる腕や胴体が、緑谷のガードをすり抜けて打撃を叩き込む。
緑谷は泥まみれになりながらも、必死に食らいつこうとしていた。
「打撃の基本は腰だ! 君はまだ力の使い方が硬い! もっと筋肉を流動させろ!」
「はいっ!」
その横では、ラグドールがハイテンションで走り回り、個性を使いすぎて倒れ込む生徒たちを叩き起こしている。
彼女の個性『サーチ』は、相手の弱点や状態を丸裸にする。
サボろうとしている者、限界に近いふりをしている者、本当に限界の者。すべてお見通しだ。
「そこ! 上鳴くん! まだ脳みそショートしてないよ! あと十発はいける!」
「うぇーい……鬼かよ……」
彼の手には、特売の双眼鏡(私物)。
隣には、全体指揮を執るマンダレイが立っている。
「良い顔になってきたわね。初日のひよっこ感は消えたわ」
「追い詰められれば、誰だって牙を剥く。教育とは、その牙をどう研ぐかだ」
楔は淡々と答えた。
マンダレイが興味深そうに楔を見る。
「天土先生って、本当に独特ね。相澤先生とはまた違った厳しさがあるというか。生徒を『兵士』として見ているような」
「兵士じゃない。サバイバーだ。俺が教えているのは、敵を倒す方法よりも、生き残るための泥臭い知恵だ」
楔は双眼鏡を下ろし、広場の一角を指差した。
そこでは、ピクシーボブが個性『土流』を使って地形を激しく変動させていた。
盛り上がる地面。崩れる足場。
その不安定な大地の上で、
「ピクシーボブの土流は、俺の『
「あら、口説いてるの? 彼女、婚期に敏感だから本気にするわよ」
「……勘弁してくれ。俺の恋人は今の所は特売の煎餅だけだ」
「今の所、ねぇ」
楔が肩をすくめると、マンダレイがクスクスと笑った。
プロ同士の軽口。
だが、その目は常に生徒たちの状態を監視し、危険な兆候がないかを探り続けている。
昼休憩。
生徒たちは死体のように地面に転がっていたが、ラグドールが配る栄養ドリンクとプロテインバーを貪るように摂取していた。
「虎さん! さっきの関節技、どうやったらあんな風に曲がるんですか?」
「おやおや、ウラビティ。私の軟体に興味があるのかい? これは日々のストレッチと、猫のような柔軟な精神があれば誰でもできる!」
「精神論!」
厳しい訓練の中にも、プロヒーローとの交流を通じて、生徒たちは技術だけでなくメンタル面でも何かを吸収しようとしていた。
現役のトップチームが持つ明るさとタフさ。
それは、重苦しい空気を切り裂く光のようなものだ。
楔は木陰で、独り離れて座る
轟は氷で冷やしたお茶を飲んでいる。
「調子はどうだ、轟」
「悪くない。……ピクシーボブさんの土流を見て、氷結の形を変えるヒントを得た。地面の隆起に合わせて氷を這わせれば、より広範囲を制圧できる」
「吸収が早いな。だがあの人は猫だ。気まぐれに付き合いすぎると怪我をするぞ」
楔が冗談めかして言うと、轟は真面目な顔で頷いた。
「気をつけます。あと、ラグドールさんに見つめられると、全部見透かされているようで落ち着かない」
「あの目はレントゲンより質が悪い。隠し事はなしだ」
楔は立ち上がり、森の奥を見据えた。
午後からは、さらに負荷を上げる。
限界のその先へ。
生徒たちをそこへ連れて行くのが、教師の役目だ。
夕刻。
三日目の訓練が終了した。
生徒たちは昨日よりもスムーズに夕食作りに取り掛かっていた。
慣れとは恐ろしいもので、極限状態でも身体は動くようになっている。
今夜のメニューもカレーだが、生徒たちが山菜やキノコを現地調達してきたことで、昨日より豪華な具材が鍋に入っていた。
「見ろよ! この巨大キノコ! 絶対美味いぜ!」
「切島くん、それ毒キノコじゃないよね? ヤオモモ、鑑定して!」
その賑やかな様子を、プッシーキャッツの面々も微笑ましそうに見守っていた。
楔は、出来上がったカレーを皿に盛り、やはり輪から外れている
彼は今日も一人、誰とも交わらずに森の方へ歩いていく。
それを追うように、緑谷がカレーを持って走り出した。
「懲りない奴だ」
楔は呟き、自分のカレーに激辛スパイスを振りかけた。
緑谷の「お節介」は、ヒーローの本質だ。
他人の領域に土足で踏み込み、無理やり手を引く。
それが洸汰にとって救いになるか、ただの迷惑になるかは分からない。
だが、踏み込まなければ始まらないこともある。
食後。
あたりは完全な闇に包まれた。
山奥の夜は深い。
虫の声と、風が木々を揺らす音だけが支配する世界。
これから「肝試し」が行われる。
B組が驚かす側、A組が驚かされる側。
マンダレイたちが説明を始め、生徒たちが盛り上がる中、楔はそっとその場を離れた。
彼が向かったのは、広場から少し離れた監視ポイントだ。
手には、最新鋭の暗視ゴーグルと、振動感知センサーの受信機。
「天土先生。こんなところで何をしているんですか」
楔はゴーグルを外さずに答えた。
「相澤か。……肝試しには参加しない。俺の心臓はノミだからな」
「嘘をつけ。……何か感じているんですね」
相澤の声が低くなる。
楔はゴーグルを外し、相澤の目を見た。
その瞳は、教師のものではなく、戦場に立つ兵士のものだった。
「静かすぎる。……鳥も、虫も、何かに怯えているように鳴き止んだ」
「……」
「それに、風の匂いが変わった。……雨の匂いじゃない。もっと生臭い、鉄と火薬の匂いだ」
楔は地面に手を触れた。
『土細工』による広域振動感知。
普段なら森の動物たちの足音がノイズのように拾えるはずだ。
だが、今は違う。
ノイズが消え、代わりに奇妙な「重い」振動が複数、森の外縁部から接近してきている。
それも、人間にしては足音が少なすぎる。
訓練された隠密行動。あるいは、空を飛ぶもの、木々を跳ぶもの。
「相澤。……肝試しは中止だ。生徒を宿舎に戻せ」
「……本気ですか」
「本気だ。……俺の勘が外れていれば、あとで俺が全裸で土下座でも何でもしてやる。……だが、もし当たっていたら」
楔の言葉を遮るように。
森の奥から、青白い煙が立ち上った。
焚き火の煙ではない。
毒々しい、紫がかったガス。
そして、それと呼応するように、反対側の森で蒼い炎が爆ぜた。
「……!」
相澤が息を呑む。
楔は舌打ちをし、即座に無線機を掴んだ。
「総員、戦闘配置! 敵襲だ! 繰り返す、敵襲だ! 生徒を守れ!」
怒号が静寂を引き裂く。
楔は地面を蹴った。
土煙を上げ、アスファルトから「軍用バイク」を生成する。
エンジンが咆哮を上げる。
目標は、緑谷と洸汰がいるはずの秘密基地の方角。
最も孤立し、最も危険な場所。
「遅かったか。……いや、まだ間に合う」
楔はアクセルを回した。
嵐は、予兆もなく唐突に訪れた。
猫たちの爪痕が残る訓練場は、瞬く間に本物の戦場へと塗り替えられようとしていた。