その瞬間、世界の色が変わった。
夜の闇に沈んでいた森が、突如として鮮烈な蒼に染め上げられたのだ。
蒼き炎。
高温の証であるその炎は、瑞々しい木々を一瞬で炭化させ、赤黒い煙を夜空へと吐き出した。
同時に、鼻腔を刺す刺激臭が風に乗って運ばれてくる。
森の深部より湧き出る紫色の霧。それは生物の呼吸を拒絶する猛毒のガスだった。
「なんだ、火事か」
「煙が変な匂いがする」
肝試しのスタート地点である広場は、瞬く間にパニックの坩堝と化した。
生徒たちが動揺し、悲鳴を上げる。
その混乱を切り裂くように、マンダレイが叫んだ。
「みんな落ち着いて。離れないで。敵襲よ」
彼女の指示が飛ぶのと同時に、頭上の樹上から影が落下してきた。
巨大な石柱のような武器を携えた、筋骨隆起の女装の男。
そして、蜥蜴のような風貌の男。
ヴィラン連合開闢行動隊、マグネとスピナーだ。
「子猫ちゃんたち、遊びの時間はおしまいよぉ」
マグネが巨大な磁石を振りかぶり、ピクシーボブの頭部を狙って急降下する。
不意打ち。
反応が遅れたピクシーボブの顔面に、死の影が落ちる。
だが、その一撃は届かなかった。
空気を切り裂く鋭利な風切り音と共に、地面から隆起した鋼鉄の杭が、マグネの進路を物理的に遮断したからだ。
「ッ」
マグネが空中で身を捻り、杭を蹴って距離を取る。
着地と同時に、広場の入り口からバイクのエンジン音が轟いた。
土煙を割り、
彼はハンドルを握ったまま、視線だけで杭を操作していたのだ。
「野良猫にしては図体がデカいな。保健所行きだ」
楔はバイクを停止させ、冷徹な視線をヴィランに向けた。
彼が軽く指を振ると、足元のアスファルトが粒子状に分解され、彼の手元で瞬時に結合する。
生成されたのはショートバレル・ショットガン。
ピクシーボブが腰を抜かしたように座り込む。
「アーセナル」
「ボサッとするな。猫なら爪を研いでおけ」
楔の言葉に、ピクシーボブの隣にいた大男――虎が即座に反応した。
茶色のコスチュームに身を包んだ武闘派ヒーロー、虎。
彼は軟体化した腕を鞭のようにしならせ、威嚇の構えを取る。
「よくも仲間を。貴様ら、生きて帰れると思うな」
「虎さん、マンダレイさん。ここの防衛は任せます。生徒を守りながら、毒ガスの範囲外へ誘導してください」
楔はバイクのエンジンを空吹かしさせた。
彼の視線は、ヴィランたちではなく、その背後に広がる炎上した森の方角へ向けられている。
「あなたはどこへ行く気ですか。ここに敵がいるのに」
「俺の生徒が一人、森の奥で孤立している。それに、本命はここじゃない」
楔の直感が告げていた。
この襲撃の目的は、単なる殺戮ではない。
生徒の拉致、あるいは特定の個人の抹殺。
そして今、最も危険な場所にいるのは、一人で秘密基地にいる
「行くぞ」
楔はクラッチを繋いだ。
バイクが弾丸のように加速し、マグネとスピナーの横をすり抜ける。
スピナーが巨大な剣を抜き、楔に斬りかかろうとする。
「待ちやがれ。ステインの意志を継ぐ者として、偽物のヒーローは見過ごせん」
「どけ、爬虫類。轢き殺すぞ」
楔は視線すら向けず、左手を軽く振った。
スピナーの足元のアスファルトが勝手に盛り上がり、指向性散弾地雷へと変形する。
起爆。
ゴム弾の暴風。
スピナーが吹き飛び、マグネが舌打ちをする隙に、楔は広場を突破して森の中へと消えた。
森の中は地獄だった。
蒼い炎が木々を舐め尽くし、熱波が肌を焦がす。
視界は煙で遮られ、呼吸するたびに喉が焼けるようだ。
だが、楔は速度を緩めない。
走行しながら片手をかざし、大気中の塵と土壌成分を集めてガスマスクを生成、装着する。
さらにバイクの前輪に排土板を追加生成し、燃える倒木を跳ね飛ばしながら突き進む。
「緑谷、洸汰。無事でいろ」
楔の脳裏に、ショッピングモールでの死柄木の言葉が蘇る。
『次はオールマイトだ』
オールマイトのいない場所で、オールマイトの心を折る最悪の方法。
それは、彼が守ろうとした未来の芽を摘むことだ。
断崖の上。洸汰の秘密基地。
そこには、絶望的な光景が広がっていた。
筋繊維が皮膚を突き破り、肉の鎧を纏ったような巨漢のヴィラン、マスキュラー。
彼の一撃を受け、緑谷出久が岩壁に叩きつけられていた。
左腕は赤黒く腫れ上がり、骨が砕けているのは明白だ。
背後には、恐怖で動けなくなっている洸汰がいる。
「いいぜ。もっと見せてみろよ。血を、悲鳴を、俺を楽しませろ」
マスキュラーが狂喜の笑みを浮かべ、さらに筋肉を増強させる。
その質量は、人の形をした戦車そのものだ。
対する緑谷は、ワン・フォー・オールの出力を限界まで引き上げようとしていた。
100%。
それを使えば、身体が壊れる。だが、使わなければ洸汰が死ぬ。
「逃げて、洸汰くん」
「逃げられるわけねェだろ。次はそこのガキをミンチにしてやる」
マスキュラーが地面を蹴る。
岩盤が砕け、巨体が砲弾のように緑谷へ迫る。
緑谷が覚悟を決めて拳を振りかぶった、その時。
夜空を切り裂く轟音と共に、上空から鉄塊が降ってきた。
マスキュラーと緑谷の間に、ドズンという重い音を立てて着弾する。
それは、空中で生成され、落下運動エネルギーを乗せた対戦車用バリケードだ。
楔が遠隔操作で上空の土埃を凝固させ、落としたのだ。
鋼鉄の十字架が、マスキュラーの突進を受け止める。
金属が軋み、火花が散る。
「あァ? なんだこりゃ」
マスキュラーがバリケードを強引に殴り飛ばす。
だが、その一瞬の隙に、バイクに乗った影が滑り込んできた。
彼はバイクを横滑りさせて停止すると、緑谷と洸汰を背に庇って立った。
「授業中だぞ、緑谷。許可なく課外活動をするな」
楔の声は静かだが、その背中からは、今まで緑谷が見たこともないほど濃密な殺気が立ち上っていた。
ガスマスクの下で、楔の目が細められる。
「天土、先生」
「下がっていろ。洸汰を連れてな」
楔は手に持っていたショットガンを捨てた。
相手は筋肉増強型のパワータイプ。生半可な弾丸など、筋肉の鎧で弾かれるだけだ。
必要なのは、それを貫通する圧倒的な貫通力か、あるいは質量による圧殺。
「ヒーローか? また虫が増えやがって。俺は今、遊びに忙しいんだよ」
マスキュラーが吼える。
全身の筋肉繊維がうねり、さらに肥大化していく。
その威圧感は、USJの脳無に匹敵する。
「遊びだと? ここは教育現場だ」
楔は右手を軽く持ち上げた。
それだけで、周囲のアスファルトや岩石が意思を持ったように渦を巻き、彼の右腕へと集束する。
形成されるのは、巨大な油圧式パイルバンカー。
土木工事用の杭打ち機を、戦闘用に再設計した楔オリジナルの近接兵器。
全長二メートルを超える鋼鉄の槍が、蒸気を噴き出しながらセットされる。
地面に触れる必要などない。
そこに「土」がある限り、世界そのものが彼の武器庫だ。
「その自慢の筋肉ごと、風穴を開けてやる」
楔が踏み込む。
マスキュラーが笑いながら拳を繰り出す。
肉と鉄の激突。
衝撃波が断崖を揺らし、周囲の木々をなぎ倒した。
「らぁぁぁっ」
「墜ちろ」
楔のパイルバンカーが火を噴く。
炸薬の爆発力で射出された巨大な杭が、マスキュラーの筋肉の鎧を抉り、深々と突き刺さろうとする。
だが、マスキュラーは笑っていた。
彼の筋肉は層を成し、杭の進行を締め付けるように止めていたのだ。
「硬えだろ。俺の筋肉は最強なんだよ」
「だろうな。だが、構造材としての強度は計算済みだ」
楔は表情を変えない。
彼は左指を弾いた。
マスキュラーの足元の岩盤が液体のように流動し、足首を掴む拘束具へと変化する。
そして、パイルバンカーの先端から、第二の杭――成形炸薬弾が起動した。
「ゼロ距離射撃だ。耐えられるか」
ドォォォォォン。
指向性の爆発が、マスキュラーの胸元で炸裂した。
金属ジェットが筋肉の隙間を焼き切り、巨体を後方へと吹き飛ばす。
マスキュラーが悲鳴を上げて崖の壁面に激突する。
楔はパイルバンカーを解除し、砂に戻すと、緑谷の方を振り返った。
「立てるか、緑谷」
「は、はい」
「洸汰を連れて施設へ走れ。マンダレイと虎がいる。あそこが一番安全だ」
「で、でも先生は」
「俺はこの筋肉馬鹿を片付ける。それに、まだ他にも客がいるようだ」
楔は森の闇を睨んだ。
マスキュラーだけではない。
この襲撃、規模が大きすぎる。
あちこちで爆発音と悲鳴が聞こえる。
生徒たちが戦っている。
「急げ。振り返るな」
楔の一喝に、緑谷は洸汰を背負い、全速力で走り出した。
その背中を見送り、楔は再びマスキュラーに向き直った。
煙の中から、焦げた皮膚を再生させながら立ち上がる巨体。
「痛えなぁ。本気にさせたな、オッサン」
「光栄だ。だが、俺は残業が大嫌いなんだよ」
楔は両手を広げた。
彼の意思に応じ、周囲一帯の岩石が浮き上がり、鋭利な刃物へと変貌する。
無数の槍、剣、斧。
それらが空中に静止し、切っ先をマスキュラーに向ける。
「さっさと終わらせて、特売の煎餅を食う」
月明かりの下、二つの怪物が激突する。
林間合宿の夜は、まだ始まったばかりだった。