その日の天気予報は、穏やかな晴天を告げていたはずだった。
だが、気象庁の予測は無惨にも裏切られた。
朝方から降り始めた霧雨は、正午を過ぎる頃には視界を白く塗り潰すほどの豪雨へと変わり、アスファルトを叩きつける激しい雨音が街の喧騒を飲み込んでいた。
呼吸は荒く、心臓が早鐘を打っている。
ジャージの裾は泥水で汚れ、雨水が前髪を伝って視界を遮るが、それを拭う余裕すらない。
数分前、無線から飛び込んできた緊急要請コード。
担当区画外ではあるが、その座標は彼の教え子たちがインターン活動を行っているエリアと合致していた。
二人は同じ事務所で経験を積んでいる。本来なら三人一組のチームだが、
つまり、現場にいるのは相澤と白雲の二人だけ。
連携の要であり、広範囲の制圧力を誇る山田が欠けた状態での、大規模ヴィラン災害の発生。
(……嫌な予感がする)
楔は唇を噛み締め、濡れた地面を強く蹴った。
ただの杞憂であってくれ。
現場に着いたら、いつものように白雲が能天気に笑っていて、相澤が呆れていて、自分は「雨の中走らせるな」と文句を言って、コンビニで肉まんを奢らされる。そんな日常の延長であってくれ。
だが、角を曲がり、大通りへと飛び出した楔の目に映ったのは、そんな淡い願望を嘲笑うかのような地獄絵図だった。
崩落したビル。
ひしゃげた鉄骨が墓標のように突き出し、粉塵と雨が混ざり合った灰色の泥が道路を覆っている。
そして、その瓦礫の山の前で、一人の少年が立ち尽くしていた。
「――先生!!」
楔の姿を認めた瞬間、悲鳴のような声が上がった。
相澤だった。
普段の冷静さは見る影もない。全身泥だらけで、トレードマークのゴーグルは外れ、その瞳は恐怖と絶望で見開かれている。
たった一人。
彼の隣にあるはずの、白い雲に乗った少年の姿がない。
「相澤!! 白雲はどこだ!!」
楔の怒号に、相澤が震える指で目の前の瓦礫の山を指さした。
「あいつ、逃げ遅れた幼稚園児を庇って……そのまま……!」
「―――」
思考が冷えていく。
視線を瓦礫の上へと移す。
そこには、全身を岩盤のように硬化させた巨体のヴィランが、勝ち誇ったように仁王立ちしていた。
重量級のヴィランだ。
奴が動くたびに、足元の瓦礫が嫌な音を立てて軋み、さらに下へと沈んでいく。
その下には、白雲がいる。
一刻を争う状況だ。一秒でも遅れれば、その重圧が生徒の命を押し潰す。
「……オラァ! ヒーローが何匹来ようが変わらねえぞ!!」
ヴィランが足を踏み鳴らす。
ゴリッ、と何かが潰れるような音が、雨音の合間に響いた。
相澤の顔色が蒼白になる。
「やめ、ろ……」
楔は、深く息を吐いた。
怒りよりも先に、どうしようもない徒労感がこみ上げる。
一生懸命訓練して、夢を語って、誰かを助けようとして。
その結果が、これか。
くだらない。本当に、くだらない。
「どけ」
低く、地を這うような声と共に、楔は地面に両手を突き刺した。
脳内の設計図が展開される。
躊躇いはない。手加減もしない。
今、この瞬間に必要なのは、救助のための繊細な土木作業ではない。
邪魔なゴミを一瞬で掃除する、圧倒的な破壊力だ。
「
世界が軋んだ。
楔を中心に、周囲のアスファルトが沸騰したように波打つ。
無機質な地面が瞬時に構成を変え、黒鉄の殺意となって具現化する。
一本や二本ではない。
地面から次々と生え出したのは、現代兵器の粋を集めた鉄の森。
戦車の主砲にも匹敵する大口径の「155mm榴弾砲」。
毎分四千発の連射速度を誇る「対空用多銃身機関砲《ガトリング》」。
一個人を制圧するにはあまりにも過剰すぎる、戦争レベルの火力が展開される。
「消えろ」
楔の宣告と同時に、全ての砲門が火を噴いた。
ドォォォォォォォォォォォン!!!!
天地を揺るがす轟音。
激しい雨音すら書き消す爆圧が、周囲の窓ガラスを震わせる。
弾丸の嵐がヴィランを襲った。
悲鳴を上げる暇すらない。硬化した皮膚ごと肉が弾け、巨体が紙屑のように吹き飛ぶ。
物理法則を無視したかのような質量攻撃。
だが、楔は攻撃の手を緩めない。
ヴィランが吹き飛んだことを確認した次の瞬間には、展開していた重火器を即座に分解し、砂へと戻す。
そして、間髪入れずに別の形状へと再構築する。
「持ち上げろ!!」
金属のこすれる鋭い音が響く。
出現したのは、巨大な油圧ジャッキと、複数のアームを持つ建設重機だ。
繊細かつ大胆な操作で、楔は数トンあるコンクリート塊を下から支え、持ち上げる。
わずかに開いた隙間。
「白雲!!」
相澤が叫びながら飛び込む。
楔もまた、泥に塗れながら瓦礫の下へと潜り込んだ。
暗い。冷たい。
雨水が容赦なく流れ込んでくる狭い空間。
土と、鉄錆と、そして濃厚な血の匂いが充満している。
瓦礫の隙間、わずかに空いた空間。
そこに、彼はいた。
「白、雲……?」
相澤の声が震える。
返事はない。
いつも彼が大切にしていたサングラスは割れ、破片が散らばっていた。
太陽のように明るかった屈託のない笑顔は、大量の血と泥に汚れている。
腹部には鉄骨が突き刺さり、その体は冷たくなっていた。
心臓の音は、もうしない。
「う、あ……あぁ……」
相澤が崩れ落ちる。
泥水の中に膝をつき、動かなくなった友の手を握りしめ、言葉にならない嗚咽を漏らす。
楔は、動けなかった。
現場の喧騒も、サイレンの音も、全てが遠い。
ただ、冷たい雨音だけが、相澤の泣き声を塗りつぶしていく。
楔は、自分の手を見た。
泥と油にまみれたその手。
つい先ほど、ヴィランを一撃で粉砕したその手。
国を落とす兵器を作り出せる。戦車も、戦闘機も、ミサイルだって作れる。
人類の叡智とも呼べる破壊の技術を、この手は持っている。
だというのに。
たった一人。
たった一人の生徒を守るための、「頑丈な屋根」一つ、間に合わせることができなかった。
最強の矛を持ちながら、最強の盾にはなれなかった。
(……馬鹿馬鹿しい)
楔は拳を握りしめた。
無力感というよりは、呆れに近い感情だった。
どれだけ努力しても、どれだけ強い力を持っていても、運が悪けりゃ死ぬ。瓦礫の下で潰れて死ぬ。
ヒーローなんて、そんなもんだ。
◇
葬儀の日も、やはり雨だった。
黒い傘の列。湿った空気。
相澤の隣には、ようやく駆けつけることのできた山田の姿があった。
現場にいられなかった後悔か、それとも親友を失った喪失感か。山田は傘も差さず、ただボロボロと涙を流していた。
棺の中の白雲は、まるで眠っているかのように穏やかな顔をしていたが、もう二度と目を覚ますことはない。
三人で事務所を建てるという夢。
未来への青写真は、あまりにも呆気なく破り捨てられた。
楔は、濡れるのも構わずに二人の背中に歩み寄った。
かける言葉など、本当は持っていない。
教師として、大人の責任として、「乗り越えろ」と言うべきなのかもしれない。
「彼の分まで生きろ」と、「良いヒーローになれ」と、美しい言葉で飾るべきなのかもしれない。
だが、そんな熱い言葉は、もう楔の中には残っていなかった。
だから、彼は短く、投げやりな言葉を吐いた。
「……生きろ」
相澤の肩がビクリと震える。
山田が、顔をくしゃくしゃにして楔を見上げる。
「泥を啜ってでも、無様でもいい。生きて、それなりに働いて、飯を食え。……死んだら、何もかもお終いだ」
「……先生」
「俺は、もう二度と御免だ。こんな面倒な葬式に出るのはな」
楔は空を見上げた。
鉛色の空から、冷たい雨が降り注ぐ。
その日、天土楔の中で「教育者としての情熱」が燃え尽きた。
後に残ったのは、気怠さと、諦めと、少しばかりの意地だけ。
頑張る? 熱くなる? 馬鹿らしい。
どうせ死ぬ時は死ぬんだ。
なら、適当にやればいい。無理せず、期待せず、淡々と。
ただ、自分の目が届く範囲で生徒が死ぬのは、寝覚めが悪い。
だから、まあ、最低限守ってはやろう。
それくらいのスタンスが、今の自分には丁度いい。
◇
「……っ、う……」
肺の空気を全て吐き出すような、重い呼気と共に目が覚めた。
視界に入ってきたのは、見慣れた天井の染みだ。
雨の音はしない。
代わりに聞こえてくるのは、遠くのグラウンドから響く生徒たちの元気な掛け声と、小鳥のさえずり。
体を起こすと、ずり落ちたジャージの上着が床に落ちた。
どうやら、地理準備室のソファで仮眠を取っていたらしい。
「……最悪な夢見だ」
楔は顔を覆い、深い溜息をついた。
もう十年以上も前の出来事だというのに、昨日のことのように鮮明だ。
あの時の雨の冷たさが、泥の感触が、まだ指先にへばりついている気がする。
「……コーヒー、飲むか」
独り言ちて、のっそりと立ち上がる。
古びた電気ケトルのスイッチを入れ、缶コーヒーではなく、インスタントの粉をマグカップに適当に放り込む。
窓の外を見れば、春の陽気が満ちていた。
桜はもう散ってしまったが、新緑が眩しい。
雄英高校、ヒーロー科。
今年もまた、命知らずな雛鳥たちが、この門を叩いた。
「今年の一年は豊作だそうですね、天土先生」
先日、職員室で根津校長が嬉々として語っていた言葉を思い出す。
オールマイトの出身校からの受験者。有名プロヒーローの息子。推薦入試をトップ通過した逸材。
確かに、書類を見る限り、粒ぞろいだ。
だが、楔にとっては、それは「面倒ごとの種」が増えたという事実に他ならない。
「……優秀であればあるほど、ポッキリ折れるんだよ。昔っからな」
沸いた湯を注ぎ、黒い液体を啜る。
苦い。だが、この苦味が、甘ったるい感傷に浸りそうになる意識を覚醒させてくれる。
時計を見る。
予鈴はとっくに鳴り終わっている。
完全に遅刻だ。
「……あーあ。また相澤に小言を言われるな」
今年の一年A組の担任は、あの相澤消太だという。
あの雨の日を生き残った教え子が、今度は教師として教壇に立つ。
合理的で、冷徹で、誰よりも生徒の命に厳しい教師として。
そして、その副担任的なポジションとして、なぜか自分が地理を担当することになった。
「……因果なもんだ」
楔は自嘲気味に笑い、飲みかけのコーヒーを置いた。
鏡に映った自分の顔は、相変わらず冴えない。無精髭に、ボサボサの髪。どこからどう見ても、くたびれた中年教師だ。
目に光はない。覇気もない。
かつて怒りに任せて全力を出した男の面影など、どこにもない。
これでいい。
誰も、この男に期待などしない。
期待されなければ、失望されることもない。
ガララ……と準備室のドアを開け、廊下に出る。
新入生たちの初々しい気配が校舎に満ちていた。
また、今年も始まるのだ。
守るべき者たちと、それを脅かす理不尽との戦いが。
「……さて、行きますか」
雄英高校地理教師、天土楔。
またの名を、プロヒーロー・アーセナル。
彼がその重い腰を上げ、真の実力を振るうのは、もう少し先の話。
今はただ、憂鬱な教職日誌の新しいページを、気怠げにめくるだけだ。