森の闇を切り裂く銃声と、鋼鉄が肉を断つ音が響く。
右手のマグナムが
踏み込み。
刃が銀色の軌跡を描き、拘束衣ごとその身体を切り裂いた。
「肉、あ」
ムーンフィッシュが音もなく崩れ落ちる。
楔は残心もそこそこに、視線をもう一人の敵、Mr.コンプレスへと向けた。
だが、仮面の男は既にその場にいなかった。
彼は木々の梢を飛び移り、軽業師のような身のこなしで
直接戦闘を避ける、徹底した逃げの姿勢。
「逃げるか」
楔は静かに呟き、地面を蹴った。
バイクを生成する時間すら惜しい。
彼は自身の脚力を土細工で強化――足元のアスファルトをバネのように隆起させ、爆発的な加速を得て森を疾走した。
前方では、轟の氷結と爆豪の爆破が断続的に輝いている。
だが、コンプレスの個性は厄介だ。
触れたものを小さな球体に圧縮する『圧縮』。
彼の手中には、既に一つの「戦利品」があった。
青いビー玉のような球体。
その中には、行方不明になっていたプロヒーロー、ラグドールが閉じ込められていた。
「いやはや、最近の若者は元気がいいねえ。おじさん、腰が痛くなっちゃうよ」
コンプレスが木の上から、ふざけた調子で声をかける。
彼は爆豪たちの攻撃をのらりくらりと躱し、決して正面からは打ち合わない。
逃げ足と欺くことだけが取り柄。その言葉通り、彼は幻惑的な動きで翻弄し続けていた。
まるで舞台の上で観客を煙に巻くマジシャンのように。
「待てコラ。仮面野郎」
「おっとっと、焦りは芸を殺すよ、爆豪くん。君は最高の素材だ。我々のショーにお招きしたい」
コンプレスが指を鳴らす。
瞬間、爆豪と
地面に転がる二つのビー玉。
コンプレスはそれを拾い上げ、優雅に一礼した。
「鮮やかなもんでしょう。これぞ圧縮のイリュージョン」
「返せ」
轟が氷塊を放つが、コンプレスはそれをひらりと避ける。
そこへ、上空から質量爆弾のごとく
彼らは森を抜け、開けた場所――回収地点へと雪崩れ込む。
そこには、ヴィラン連合のメンバー、
「遅ぇぞコンプレス。回収は済んだか」
「ああ、大漁だよ荼毘くん。予定通り、爆豪くんと常闇くん、そしてオマケのプロヒーロー一名だ」
コンプレスが仮面の下で得意げに笑い、ポケットから三つのビー玉を取り出して見せる。
緑谷たちが血相を変えて飛びかかる。
「返せ!!」
「おっと、慌てないでくれよ。これは大事な商品なんでね」
コンプレスがひらりと身をかわし、ビー玉を懐にしまう素振りを見せる。
だが、それはフェイクだ。
遅れて到着した楔の動体視力は、コンプレスの一瞬の掌の動きを見逃さなかった。
彼がポケットに入れたのはダミー。
本物のビー玉は、まだ彼の手の中にあり、そしてあろうことか口の中へと隠された。
「舌の裏か。古典的な手品だ」
楔は走りながら、右手の人差し指を突き出した。
生成したのは、銃ではない。
指先に圧縮した空気の弾丸。
いや、それは「鉄球」だ。
土中の金属成分を凝縮し、指先で弾き飛ばす即席のレールガン。
「種明かしだ、詐欺師」
指が弾かれる。
音速を超えた鉄球が、コンプレスの仮面の縁を正確に削り飛ばした。
衝撃が顎に伝わり、コンプレスが反射的に口を開く。
「がっ」
口の中から、隠していた三つのビー玉が吐き出される。
スローモーションのような時間の中で、青い玉が空を舞う。
「しまっ、芸がバレたか」
コンプレスが慌てる。
障子が手を伸ばし、一つの玉を掴み取る。常闇だ。
轟が氷壁を展開し、荼毘の蒼い炎を遮断する。
そして、残る二つの玉――爆豪とラグドール。
緑谷が必死に手を伸ばす。
だが、それより速く、荼毘の手が爆豪の玉へと迫っていた。
その時だ。
爆豪の玉とラグドールの玉が、コンプレスの術が解けて元の姿に戻り始めた。
圧縮解除。
爆豪勝己と、意識のないラグドールが空中で実体化する。
爆豪は瞬時に状況を理解した。
目の前には、自分を捕らえようとする荼毘の手。
隣には、無防備に落下するラグドール。
そして遠くには、駆けつけようとする緑谷と楔。
自分が逃げるために爆破を使えば、その反動でラグドールは荼毘の方へ吹き飛ぶか、あるいは炎に巻かれる。
彼女を助けるには、自分が踏み台になるしかない。
爆豪の脳裏に、オールマイトの背中が過ぎる。
勝つこと。助けること。
「借りなんか作らねェよ」
爆豪は吼えた。
彼は自分の退路を作るためではなく、ラグドールを救うために掌を向けた。
爆破。
その衝撃波が、ラグドールの身体をヴィランの射程圏外――楔の足元へと正確に弾き飛ばした。
「爆豪」
楔がラグドールをキャッチする。
だが、その代償は大きすぎた。
爆破の隙を突き、コンプレスが再び爆豪の背後に回り込んでいたのだ。
「悪いね、主役は降板させないよ」
再圧縮。
爆豪の姿が再びビー玉へと変わり、コンプレスの手の中に収まる。
「くそっ、返せ!」
緑谷が叫び、走り出す。
だが、背後の
ワープゲート。
ヴィランたちが次々と闇の中へ消えていく。
コンプレスが帽子を取り、大袈裟にお辞儀をした。
「では諸君、これにて閉幕だ。最高のショーだったよ」
コンプレスもまた、ゲートへ飲み込まれていく。
楔は地面を隆起させてゲートを物理的に塞ごうとするが、黒霧の空間干渉の前には物理攻撃が無力だった。
ゲートの向こう側、コンプレスの手の中にあるビー玉が、一瞬だけ解除されかけた。
爆豪の顔が半分だけ覗く。
彼は、助けに来ようとする緑谷と楔を見つめ、ニヤリと不敵に笑った。
それは、助けを求める顔ではない。
プロヒーローを救った自分の選択に後悔はないという、意地の笑みだった。
「来んな」
その言葉を残し、爆豪勝己の姿は闇に消えた。
ゲートが閉じる。
残されたのは、燃え盛る森と、呆然と立ち尽くす生徒たち。
そして、楔の腕の中に残された、意識のないラグドールだけだった。
「………………」
楔は無言で、腕の中の同僚を見つめた。
戦闘の余波によるのか破損が激しいヒーロースーツを着たラグドール。
爆豪は、彼女を救った。
自分の自由と引き換えに、プロヒーローの命を敵の手から奪い返したのだ。
生徒に守られた教師。
その事実は、楔のプライドを粉々に砕くのに十分だった。
「馬鹿なガキだ」
楔の声には、怒号よりも重い響きがあった。
彼はラグドールに自分の防刃コートをかけ、抱き起こした。
周囲では、緑谷が絶叫し、轟が悔しさに地面を叩いている。
敗北。
完全なる敗北だ。
敵の目的――爆豪勝己の拉致は完遂された。
ラグドールと常闇を取り返したことは、何の慰めにもならない。
雄英は、未来の象徴を奪われたのだ。
数十分後。
消防と警察が到着し、消火活動と現場検証が始まった。
楔は救急隊員にラグドールを引き渡すと、一人離れた場所で特売茶のボトルを握りしめていた。
中身は空だ。
プラスチックの容器が、彼の手の中でミシミシと悲鳴を上げている。
「天土先生」
声をかけてきたのは、
彼もまた、満身創痍だ。
二人の教師は、燃え残った森を見つめ、重い沈黙を共有した。
「俺の責任だ。俺がもっと早く、もっと強引にでも合宿を中止にしていれば」
「やめてくれ、天土先生。今は責任を論じている場合じゃない」
相澤が楔の肩に手を置く。
だが、楔はその手を振り払うように立ち上がった。
その瞳には、激情の炎は見えない。
あるのは、絶対零度の殺意だけだった。
それは教育者の目ではない。
標的を見定めた暗殺者の目だ。
「さらったな。俺の生徒を」
楔は懐から端末を取り出した。
画面には、赤い点が一つ、地図の上で点滅している。
爆豪に渡した発信機。
奴らはまだ、それに気づいていない。
コンプレスが持っている爆豪のビー玉、その服の隙間か何かに、タグが紛れ込んでいるはずだ。
「戦争だ、ヴィラン連合。教育的指導の時間はおしまいだ」
林間合宿は最悪の結末で幕を閉じた。
だが、それは次なる戦い――「神野の悪夢」への序章に過ぎなかった。
教師たちはもう、ただ守るだけの盾ではいられない。
奪われたものを取り返すための、矛となる刻が来たのだ。