雄英の七不思議、あるいは地理準備室の主
四月。出会いと別れの季節。
桜吹雪が舞う雄英高校の正門を、今年も多くの若者たちが潜り抜けた。
超人社会における最高峰の学び舎。プロヒーローへの登竜門。
倍率数百倍の難関を突破した彼らの瞳は、一様に希望と野心に満ち溢れている。
だが、そんな希望に満ちた空気を、まるで親の仇のように嫌う男が一人。
場所は、本校舎の片隅にある地理準備室。
薄暗い部屋の中で、男――
「……あー、ダルい」
それが、新年度を迎えた彼の第一声だった。
ヨレヨレのジャージに、無精髭。ボサボサの黒髪は、最後に櫛を通したのがいつだったか思い出せないレベルだ。
手には湯呑み。中身は特売の緑茶。
どこからどう見ても、窓際族の係長か、休日の冴えないおっさんである。
「なんで今年も一年生の担当なんだ……。三年生の担当なら、適当に自習させて受験勉強させとけばいいのに」
楔はボヤきながら、手元の時間割表を睨みつける。
『地理』という科目は、ヒーロー科においては主要五教科に比べて軽視されがちだ。
英語や数学、そして何よりヒーロー基礎学の影に隠れ、生徒たちのモチベーションも低い。
だが、楔にとってはそれが好都合だった。
目立たず、期待されず、給料泥棒と罵られながら定時で帰る。それが彼の理想とする教師像だ。
「……ま、適当にやるか」
楔は重い腰を上げ、教科書(去年から一度も開いていない)を小脇に抱えると、準備室を出た。
向かう先は、1-Aの教室。
噂の「オールマイトの母校出身者」や「推薦入学者」が集まる、エリートクラスだ。
◇
1-Aの教室は、異様な緊張感に包まれていた。
入学式の翌日。
昨日の「個性把握テスト」という名の洗礼――担任である相澤による除籍処分の脅し――を受けたばかりの彼らは、神経をすり減らしていたのだ。
チャイムが鳴ってから既に五分が経過している。
だが、教師が現れる気配はない。
「先生が来ない……」
静寂を破ったのは、眼鏡をかけた真面目そうな少年、
彼はガタリと席を立ち、教卓の前を行ったり来たりし始めた。その顔には、怒りではなく焦燥の色が浮かんでいる。
「予鈴から五分も経過しているぞ! 雄英高校の教師が、理由もなく遅刻をするはずがない!」
「まあまあ飯田ちゃん、トイレとかかもしんないし」
「
真面目すぎるが故の暴走。
教師への信頼が厚すぎるため、「サボり」という可能性が彼の頭には微塵もないらしい。
その様子を、緑色の髪をした少年――
(飯田くん、心配性だなあ……。でも、昨日の相澤先生みたいに、これも何かのテストなのかな……?)
緑谷の胃がキリキリと痛み始めた、その時だった。
ガララ……ッ。
教室のドアが、油切れのような音を立てて開いた。
全員の視線が一斉に突き刺さる。
現れたのは、猫背で、死んだ魚のような目をしたジャージの男。
「…………」
男は教室に入ると、無言で教卓まで歩き、教科書をドサリと置いた。
その動作の全てが遅い。ナマケモノの動画を倍速で見ている方がマシなレベルだ。
生徒たちがゴクリと息を呑む。
この男もまた、相澤のように「合理的な虚偽」を使う食えない教師なのか。それとも、只者ではない実力者なのか。
「先生! ご無事でしたか!」
飯田が駆け寄らんばかりの勢いで声をかける。
「連絡もなく遅れられるとは、何か事件でも……!?」
「あー……」
楔は飯田を鬱陶しそうに見やり、ボリボリと頭をかいた。
「いや、ちょっと迷子になってな。校舎が広すぎて遭難しかけた」
「なっ……!?」
嘘である。
この男は雄英に勤めて十年以上になる古株だ。
あまりにも堂々とした嘘と、緊張感の欠片もない態度に、飯田は言葉を失って固まった。
「えー……地理担当の、天土だ」
楔は飯田を放置し、気怠げに自己紹介を始めた。
声が小さい。
後ろの席の
「教科書、四ページ開いて」
楔は教卓の椅子にドカリと座り込むと、自分も教科書を開いた。
立つ気はないらしい。
チョークを持つ気配もない。
「今日はオリエンテーションも兼ねて、日本の地形と災害リスクについて話す。……そこ、読んで」
指名されたわけでもないのに、最前列の生徒が慌てて読み上げる。
楔はそれをBGMに、頬杖をついてあくびを噛み殺している。
「先生! 黒板は使わないのですか!?」
再び飯田が挙手する。
楔は面倒そうに片目を開けた。
「教科書に書いてあることをわざわざ板書する必要があるか? 時間の無駄だ。効率的にいけ、効率的に」
「し、しかし……!」
「大事なとこは口で言う。聞き逃すなよ」
そう言って、楔はボソボソと講義を続けた。
だが、その内容は、態度の割に極めて実践的だった。
都市部におけるビル風の影響、路地裏の死角になりやすい地形、地下街における崩落リスク。
単なる地理の授業ではない。
「ヒーロー活動における地形利用」に特化した内容だ。
「……いいか。ヒーローってのは派手な個性に頼りがちだが、最後に生死を分けるのは足場だ。自分が立ってる場所がコンクリなのかアスファルトなのか、それとも土なのか。それだけで生存率は変わる」
淡々とした口調。
抑揚のない声。
まるで、取扱説明書の注意事項を読み上げているかのような事務的な響き。
だが、そこには確かな経験則が含まれていた。
「へー、意外とまともなこと言うじゃん」
だが、次の瞬間。
「ま、俺は面倒だから全部ぶっ壊すけどな。……はい、次のページ」
「えぇ……」
台無しである。
楔は教科書をめくりながら、再び気怠げなモードに戻る。
生徒たちは困惑しながらも、必死にノートを取り始めた。
この先生、やる気はないが、授業自体は聞き逃せない何かがある気がする。そう直感したからだ。
カリカリとペンを走らせる音。
楔は頬杖をついたまま、半眼で教室全体を見渡していた。
一見すると眠っているように見えるが、その濁った瞳は、生徒一人一人の挙動を逃さず捉えている。
長年、戦場と教壇に立ち続けてきた男の観察眼だ。
(……緑谷出久)
視線の先、緑色の髪の少年。
ノートを取る手が震えている。筆圧が強すぎて、紙が破れそうだ。
時折、ブツブツと何かを呟いている口元。
常に何かに怯え、しかし何かを渇望しているような必死さ。
その指先には、尋常ではない回数の怪我と、それを乗り越えてきたマメがある。
(……自己犠牲の塊みたいな危うさを感じるな)
昨日のテスト結果と照らし合わせる。
指を折ってまでボールを投げたイカれたガキ。
その精神性は、かつて楔が失った教え子――
(……爆豪勝己)
貧乏ゆすりが止まらない金髪の少年。
教科書を睨みつける目は、知識を吸収しようとしているのではなく、敵を屈服させようとしているかのようだ。
苛立ちと、肥大化した自尊心。
(……才能はある。だが、視野が狭い。周りが全部敵に見えている目だ。……早めにへし折らないと、敵に利用されるか、孤立して潰れるタイプだな)
そして、教室の後方。
(……
一際静かな少年。
姿勢は良いが、そこには生気がない。ただ淡々と、機械的に義務をこなしているだけ。
エンデヴァーの最高傑作。
楔は、彼の母親の実家である氷叢家と、過去に少しばかり仕事で関わりがあった。
その家庭環境の複雑さは、嫌というほど知っている。
(……冷たい目だ。親父への反発だけで動いているうちは、本物にはなれんぞ)
他にも、真面目すぎて空回りしている委員長に、朗らかな重力操作の女子、透明人間に、カエルの子。
今年も豊作だ。動物園と言ってもいい。
楔は心の中で溜息をつく。
優秀であればあるほど、彼らは危険な現場へと投入される。
そして、傷つき、汚れ、時には命を落とす。
その理不尽なサイクルを、楔は嫌というほど見てきた。
(……ま、俺の知ったことじゃないがな)
教師として熱くなるつもりはない。
彼らの人生を背負うつもりもない。
ただ、知識だけは与えてやる。
それを使うか使わないか、生き残るか死ぬかは、彼ら次第だ。
「……はい、そこまで」
キーンコーンカーンコーン……。
チャイムと同時に、楔は教科書を閉じた。
一秒たりとも残業はしないという鋼の意志を感じさせる速さだ。
「次回の授業までに、雄英周辺のハザードマップを見ておけ。自分が逃げ込むならどこか、敵を追い込むならどこか、三つ考えてくること。……以上、解散」
日直の号令すら待たず、彼は椅子から立ち上がり、風のように教室を出て行った。
後に残されたのは、ポカンとする生徒たちと、チョークの粉一つ落ちていない綺麗な黒板だけだった。
「……何だったんだ、あの先生」
「天土先生……だっけ? やる気なさそうだけど、言ってることはガチっぽかったよな」
「でもさ、あの人、歩くとき全然音がしなかったよな」
生徒たちの間に、微かな違和感が残る。
ただのダメ教師か。それとも。
◇
1-Aの教室を出て、職員室へと続く廊下。
楔はあくびをしながら歩いていた。
すると、前方から気怠げに歩いてくる男と鉢合わせた。
全身黒ずくめ。首には捕縛布。
1-A担任、相澤消太だ。
「……天土先生。授業、もう終わったんですか」
相澤がジト目で楔を見る。
その目は「ちゃんと授業したんですか」と疑っていた。
「終わったも何も、完璧な講義だったよ。地形と生存率の相関関係について、熱く語ってやった」
「……座ってボソボソ喋ってただけでしょう」
「省エネだ。無駄なカロリー消費は地球環境によくない」
楔が悪びれもせずに答えると、相澤は呆れたように溜息をついた。
「相変わらずですね、貴方は。……で、どうでしたか。今年のA組は」
不意に、相澤の声色が真面目なものに変わる。
教師としての問いかけ。
楔は少しだけ視線を鋭くし、しかしすぐに元の死んだ魚の目に戻した。
「……粒ぞろいだよ。個性も、性格もな」
「除籍しなくて正解でしたか?」
「さあな。才能があるのと、生き残れるのは別問題だ。……特に、あの緑谷って奴。ありゃ危なっかしい」
楔の言葉に、相澤がピクリと眉を動かす。
「……同感です。あれは自滅するタイプだ」
「へし折ってでも矯正するか? それとも、折れる前に追い出すか?」
「見込みがなければ除籍しますよ。いつでもね」
相澤は冷たく言い放つ。
その言葉に嘘はないだろう。だが、楔は知っている。
この男が誰よりも「生徒の死」を恐れ、それを未然に防ぐためにあえて非情に振る舞っていることを。
かつての親友――白雲朧の死が、今の「イレイザーヘッド」という教師を作ったのだ。
「……ま、程々にな。あまり張り詰めすぎると、お前が参るぞ」
楔がポンと相澤の肩を叩く。
それは先輩教師としての、そしてかつて彼らを守れなかった元担任としての、不器用な労いだった。
「……余計なお世話です。それより先生、来週の書類、まだ出てませんよ」
「あー、聞こえん。耳が遠くなった」
「都合のいい耳だ……」
楔は相澤の追及から逃げるように、早足でその場を去った。
背中で相澤の溜息を聞きながら、地理準備室へと逃げ込む。
ドアを閉め、ソファに身を投げ出す。
静寂。
天井を見上げながら、楔はふと、先ほどの教室の空気を思い出した。
未熟で、青くて、脆い命たち。
「……面倒くさい」
口癖を吐き出す。
だが、その手は無意識のうちに、ポケットの中の「あるもの」を握りしめていた。
それはチョークではない。
万が一の事態に備えて常備している、カプセルに入った圧縮土。
彼の個性『
「……最近、妙な噂を聞く」
平和の象徴オールマイトが教鞭を執る雄英高校。
その光に惹かれてか、あるいはその光を消そうとしてか。
不穏な影が、路地裏で蠢き始めているという。
「俺の庭で好き勝手はさせんぞ」
誰もいない部屋で、男は低く呟いた。
その瞳に、一瞬だけ鋭い光が宿り――すぐにまた、気怠げな濁った色へと戻っていった。
雄英の七不思議。給料泥棒の地理教師。
天土楔の憂鬱な一年が、こうして幕を開けた。