その日の午後、雄英高校のモニタールームは、異様な熱気に包まれていた。
無数のモニターが並ぶ薄暗い部屋。
その中央で、マッシブな肉体を持つ男が、マイクを片手に震えていた。
No.1ヒーロー、オールマイトである。
「あ、あ~……えーっと、次は……そう! 屋内対人戦闘訓練だ!」
手元にはカンニングペーパー。視線は泳ぎ、額には大量の脂汗。
平和の象徴たる彼も、教壇に立つという「初めての敵」には苦戦を強いられているらしい。
「……何やってんだ、あの人は」
部屋の隅、機材の陰にあるパイプ椅子で、
本来なら、この授業はオールマイトの単独担当だ。楔がいる必要はない。
だが、根津校長から「オールマイトくんが張り切りすぎて空回りしないか、君がストッパーになってくれ」という、実に面倒な頼み事を押し付けられてしまったのだ。
(……無理しやがって。
楔は、オールマイトの背中から立ち昇る、彼にしか見えない「焦り」のような蒸気を見て取っていた。
楔は知っている。
この筋骨隆々の肉体が、虚勢で膨らませた風船のようなものであることを。
五年前に負った重傷。呼吸器系の半壊と、胃袋の全摘出。
今の彼が、一日数時間しか活動できない「瀕死の病人」であることを知る、数少ない人間の一人が楔だった。
「……授業参観かよ。俺は暇じゃないんだが」
文句を言いながらも、楔は手元の缶コーヒー(微糖)を開ける。
万が一、授業中に変身が解けそうになったら、即座に
まったく、とんだお守り役だ。
モニターには、コスチュームに着替えた1-Aの生徒たちが映し出されていた。
第一試合。
ヒーロー組、
ヴィラン組、
「……いきなり因縁の対決か。脳筋教師が、組み合わせを考えろよ」
楔はため息をついた。
昨日の観察通りなら、緑谷と爆豪の間には、単なるライバル関係を超えた歪な感情がある。
それを初回の実戦訓練でぶつけるのは、劇薬が過ぎる。
そして何より、緑谷出久という少年。
彼の個性は、オールマイトのそれに酷似している。
(……無個性の少年が、急に力をつけた。そしてオールマイトが雄英に赴任してきた。……点と点が繋がりすぎて笑えんぞ)
楔は疑念を抱きつつ、モニターを睨んだ。
訓練が開始される。
予想通り、それは「訓練」の域を超えた私闘へと発展した。
◇
ドガァァァン!!
爆音が響く。
爆豪勝己の奇襲。緑谷への殺意剥き出しの攻撃。
建物の角から飛び出し、爆破を叩き込むその動きは、高校生離れした戦闘センスを感じさせる。
(……反応速度、空間把握能力、個性の出力。どれをとっても一級品だ)
楔は冷静に分析する。
爆豪の戦闘センスは、既にプロのサイドキックレベルにある。
だが、それ以上に目につくのは「危うさ」だ。
(視野が狭い。緑谷しか見ていない。……飯田との連携を無視し、核兵器の防衛という目的すら放棄している。ありゃヒーローじゃない。ただの喧嘩屋だ)
一方の緑谷。
彼は怯えながらも、爆豪の動きを読み、最小限の動きで対応している。
だが、決定的に火力が足りない。
彼の個性を使えば、身体が壊れることを理解しているからだ。
「……見てられんな」
楔が顔をしかめたのは、爆豪が籠手のピンに指をかけた瞬間だった。
貯め込んだニトロを解放する、広範囲爆撃。
屋内戦で、しかも相手は生身の人間だ。
「少年! やめろ! 殺す気か!?」
オールマイトがマイク越しに制止する。
だが、爆豪は止まらない。
「当たらなきゃ死なねェよ!!」
轟音。閃光。
ビルの一角が消し飛び、廊下が崩落する。
緑谷は辛うじて直撃を避けたものの、その衝撃波だけで吹き飛ばされている。
「……馬鹿が」
楔は缶コーヒーを握り潰した。
殺す気か、ではない。あれは「当たれば死ぬ」攻撃だ。
もし緑谷の回避がコンマ一秒遅れていたら? もし建物の強度が足りずに崩落に巻き込まれていたら?
想像力の欠如。
自分の力が相手を壊すかもしれないという恐怖心の欠落。
そして、決着の時。
緑谷と爆豪が激突する。
爆豪の爆破に対し、緑谷が放ったのは、相手ではなく「天井」へのスマッシュだった。
ドォォォォォォン!!
強烈な風圧がビルを貫き、天井を破壊する。
その隙に麗日が核兵器を回収し、ヒーロー組の勝利。
だが、その代償として、緑谷の右腕はどす黒く変色し、見るも無惨に折れ曲がっていた。
「……ヒーロー組……ウィ、ウィナー!!」
オールマイトの震える声が響く。
その顔色は、メイクの影に隠れてはいるが、明らかに青ざめていた。
自分の力を受け継いだ(と思われる)少年が、その力で傷つく姿を見て、動揺しているのだ。
「……くだらん」
楔は深く息を吐き、潰れた空き缶をゴミ箱に放り投げた。
勝利? これが?
腕一本を犠牲にして、ビルを半壊させて、ようやく掴んだ勝利に何の意味がある。
実戦なら、この後の連戦で死ぬだけだ。
どいつもこいつも、命をチップにした博打《ギャンブル》をしすぎている。
◇
放課後。
生徒たちが下校し、静まり返った更衣室の奥にある休憩スペース。
そこに、ガリガリに痩せ細った金髪の男が座り込んでいた。
眼窩が窪み、口から血を吐くその姿は、およそNo.1ヒーローとは思えない。
トゥルーフォームに戻った、
「……ゲホッ、ゲホッ……」
「……お疲れさん、No.1。寿命は縮んでないか?」
楔がカーテンを開けて入ってくると、八木はバツが悪そうに血を拭った。
「あ、天土くん……。いやはや、面目ない。つい熱が入ってしまってね」
「熱が入るのは結構だが、自分の活動時間を削るなよ。……さっき、最後の方ヤバかっただろ。蒸気が出てたぞ」
楔は冷蔵庫から冷えたスポーツドリンクを取り出し、八木に投げて寄越した。
八木はそれを受け取り、感謝の苦笑いを浮かべる。
彼がこの姿を見せられる同僚は、リカバリーガールや根津校長、そしてこの天土楔くらいのものだ。
かつて、ある事件の現場で八木の変身が解けそうになった際、楔がその秘密を知り、黙認し、フォローに回った経緯がある。
「……で、どうだったかね。今日の授業は」
「最悪だ。……特にあの緑谷って奴」
楔の言葉に、八木の肩がピクリと震える。
「自分の腕を爆弾か何かと勘違いしてる。勝てばいい、守れればいい。その結果自分が再起不能になっても構わない。……典型的な早死にするタイプだ」
「……耳が痛いな」
「あんたに似てるからな、あいつ」
楔は探るような視線を八木に向ける。
「自己犠牲を美徳とし、平和のために我が身を削る。……あんたの
「……ッ」
図星だったのだろう。八木が言葉に詰まる。
やはり、と楔は確信した。
あの少年の個性は、何らかの形でオールマイトと繋がっている。
「……八木さん。あんたは平和の象徴だ。その背中を見て、どいつもこいつも『自分もああなれる』って夢を見てる。……だがな、あんたは特別製だ。あんたの真似をして無理をした奴から順に死んでいく。それを忘れるな」
厳しい指摘。
かつて、
「もっと人を助けたい」という純粋な思いが、死への加速装置になることがある。
「……肝に銘じておくよ。私は、彼らに
「なら、俺が教えるさ。……地理の授業でな」
楔は背を向け、手をひらひらと振った。
「あの緑谷って奴は、俺が少し締めてやる。……爆豪はあんたや相澤の管轄だ。精々、噛みつかれないように気をつけろよ」
「……ありがとう、アーセナル」
「その名で呼ぶな。今はただの冴えない地理教師だ」
◇
校門を出ようとした楔の視界に、一人の生徒の姿が入った。
彼は帰るわけでもなく、ただ壁を蹴り、悔しそうに唸っていた。
緑谷に負けたこと。推薦入学者である轟の実力を目の当たりにしたこと。
彼の肥大化したプライドは、今日一日でズタズタに引き裂かれていた。
「……クソがッ!!」
爆豪が叫び、掌から小さな爆発を起こす。
その火花が、校門の植え込みを焦がそうとした、その時だった。
ジャリッ。
爆豪の足元の砂利が、生き物のように跳ね上がった。
瞬時に形成されたのは、鋼鉄の「トラバサミ」。
ガチン!! と鋭い音を立てて、それが爆豪の足首の寸前で閉じる。
わずか数センチの差。もし足を入れていれば、骨ごと砕かれていただろう。
「あァ!?」
爆豪が驚いて飛び退く。
視線の先、校門の影から、ジャージ姿の男が現れた。
「校内設備を破損させるな。修理費はお前の小遣いから引くぞ」
「……あ? 昼間の不審者教師かよ」
爆豪が警戒心を露わにして睨みつける。
楔はあくびをしながら、足元のトラバサミを砂に戻した。
「不審者で悪かったな。……いいか、負け犬。悔しいのは結構だが、八つ当たりで周囲を壊すな。それはガキのすることだ」
「あァ!? 誰が負け犬だコラ! ぶっ殺すぞ!!」
「ほら、すぐ吠える」
楔は呆れたように肩をすくめる。
その余裕の態度が、爆豪の神経を逆撫でする。
爆豪の手のひらで、バチバチと爆発音が鳴る。
「テメェ……ナメてっと本気で燃やすぞ……」
「やってみろよ」
挑発。
爆豪の理性が飛んだ。
彼は右手を突き出し、至近距離から爆破を放とうとする。
だが。
カチリ。
爆発よりも速く。
爆豪の喉元に、冷たい感触が押し当てられていた。
楔の手には、いつの間にか黒光りする「拳銃」が握られていた。
懐に入れていた圧縮土のカプセルを一瞬で展開し、生成されたオートマチック拳銃。
その銃口が、正確に爆豪の頸動脈を捉えている。
「――ッ!?」
爆豪の動きが止まる。
速い。予備動作が全く見えなかった。
何より、この男から放たれている殺気が、本物だった。
昼間のやる気のない態度はどこへやら、今の彼は獲物を狙う
「引き金を引くのと、お前の掌が光るの。どっちが速いと思う?」
楔の目は笑っていない。
死んだ魚のような目は、今は深海のように暗く、底知れない圧力を放っている。
「……ッ、テメェ……」
「ヴィラン相手なら、お前は今死んでる。……個性の強さに胡座をかいて、周りが見えていない証拠だ」
楔はスッと銃を引き、手の中で砂に戻した。
殺気も霧散する。
後に残ったのは、いつもの気怠げな中年教師だけ。
「……ま、今日は見逃してやる。早く帰って寝ろ、クソガキ」
「……ッ!!」
爆豪は顔を真っ赤にし、何かを言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。
恐怖、屈辱、そして理解できない実力差。
彼は「チッ!」と舌打ちを残し、逃げるように走り去っていった。
「……ふあぁ。やれやれ」
楔は大きくあくびをして、夜空を見上げた。
オールマイトに憧れて無茶をする緑谷。
己の力に溺れて周りが見えない爆豪。
どちらも、放っておけば早死にするタイプだ。
「……あいつらの鼻っ柱を折る役目は、俺じゃない気もするがね」
余計なお節介だったかもしれない。
だが、才能ある若者が、つまらない驕りで死ぬのは見たくない。
それは、ただの教師としての、ほんの少しの親心だった。
天土楔はポケットに手を突っ込み、家路についた。