第一節
朝6時のチャイムと共に、スピーカーからけたたましい声が流れる。
「会員の皆様、おはようございます。5月4日、本日の天気は曇りのち雨、時々フォールアウト。汚染エリアにはくれぐれも近づかないように。本日のニュースは……」
音量は必要以上に大きい。まるで、嫌がらせのように。
階下を薄目で眺めると、会員達は早朝の「ラジオ体操」を待ち侘びているように、手足をばたばたと動かしたり、各々に定型的な挨拶を交わし合ったりしている。
彼はおもむろにライターを取り出し、タバコに火を点けた。
蚊よけの効果がある、と聞いている。舶来品だ。
つい先日、頭を殴る様刺激する、あの缶を口に放り込んだ帰り、気が付けば闇市へ足を踏み入れていたのだ。第一革命の、軍によるクーデター以前に出回っていたものと聞いた。つまりは四半世紀以上前のものらしい。
箱の表紙は「国母」の姿形が書かれた、会員に配られるものに移し替えられており、取って吸ったりしない限りは誰も気付かない事だろう。
ゆらゆら揺れる煙と階下より匂うツンとした硫黄臭が鼻腔を刺激する。
快と不快が入り混じり、一種の諦観、生活と不快は切り離せないものだという事実が頭の中をぐるぐると駆け巡った。
「ヒダケイさん。煙草は身体に悪いため、程々にして1階へ降りましょう。皆様はもう集合していますよ?」
「あぁ、、、今向かいます」
スピーカー越しに自治会長の声が聞こえた。
吐き気と倦怠感が身体を駆け巡る。万が一、万一彼女に何か弱味を——煙草でも、闇市でも——知られれば、軽くて数十年の労働刑。重ければ、その先は考えるまでもない。
だから、年長者の言葉は盲目的に聴くべきなのだ。
特に、良き隣人の聲は尚更。
それがこの団地の規範だ。
靴先が禿げ、踵が折れたフェイクレザーの靴に靴ベラを押し当て、爪先を床に軽く叩きつけた。時折炭で匂いをとっているが、それにしても汗と油の煮詰めた様な匂いと、それとすえた匂いは取れる気配がない。
外に出て、階段を転ばぬ様急足で歩んだ。
身体を動かした途端、昨夜のアルコールが彼の胃を激しく刺激し、内容物を危うく溢しそうになった。
暫し手摺りに手をやり、暫く呼吸を整え、視線をグランドから視線を逸らす。
壁一面に、子供たちの絵が貼られていた。
銃を持つ兵士。
空から落ちる爆弾。
笑顔で手を取り合う「人」と「獣」。
完璧だ、と感心した。教科書通り。満点だ。
強き軍。良き隣人。融和。
それだけで、この社会は成り立つ。
爆弾が降る最中でも、握手は行われる。
隣人は助け合い、必要とあらば密告する。
軍は市民を守り、時に見せしめとして処理する。
何も矛盾していない。そう教えられてきた。
思考が僅かに澄んだ。
大きく息を吸い、吐き、笑顔を顔に貼り付けてからグランドへ向かう。
団地の勝手口に差し掛かると、ひとりの男が体を動かしていた。
カイトだ。
この社会において「友人」という概念はすでに曖昧だ。上司でも理事でもなく、単なる同僚でもない。そう呼べる存在がいるとすれば——あえて言うなら、彼はそれに近い。
「おはよう、どうだい、昨日はひどく酔っていたと自治会長に訊いたけど。その笑顔だと元気そうだね」
其処まで見られていたのか、と冷や汗が額をつたるが、早朝であるのにむっとした熱気が辺りを包んでいた事から、幸いそれ以上の疑いの目を向けられる事は無さそうだった。
「あぁ……そうだな。ところで、マスクは無いかい?もう数枚しか無くてね、これが無きゃ酷く咳き込む事になってしまう」
「無いね、何処にも。闇市なら兎に角。あぁ、会の布マスクはどうかい?パンデミック以前のものが案外残っていた筈だ。あれも案外使えたものだから、どうかい?」
「生憎僕の鼻は敏感でね。あのゴワゴワしたのが鼻炎を何倍にも酷くするんだ」
「君の鼻はえらく非市民的だな!ま、死ぬわけでも無いのだから我慢することだな」
命があってこそ物質的豊かさを享受できるのだ、と薄ぼんやりと考える。
しかし反対も同様で、自分の命を失わない事に神経をすり減らし、物資の欠乏を忘れてしまいかねない。寧ろこちらが友愛会の目的ではないのか、と。非市民的な考えが一瞬頭の隅をよぎる。
顔に出さないようにするのでめいいっぱいに成りかねないので、どうにか「死」という話題をつなげる事で対処するという名案を思いついた。
「そうだ、あの件はどうなった?ほら、B棟で起きた人喰い事件の件。犯人の獣に目星はついているのかい?」
「いや、それがだな、あすこはたまたま当日だけが監視対象から外れていたんだ。ほら、あの……B棟の自治会長の亭主がだな、数日前に戦死したんで、その日は棟を挙げて喪に服していたんだと。で、その時間帯を狙って人喰いが出たらしく、誰も知らないんだとさ」
「……つまりはかなり計画的な事件ということか、はぁぁ、この棟にも監視カメラがありゃなぁ。恐ろしくて外出も出来ない」
「さっそく昨日の事を忘れたのか?まぁいい。こんな事を仕出かすのはブルートの奴らに違いないだろうから、俺らは努力してより良い生活を目指すべきだな。高級会員のように、とは云わずとも、見張りのある家くらいは買いたいものだね」
カイトの言葉を聞き、思わず薄ら笑った。
高級会員の住む地区は、監視カメラも見張も完璧だという。あの壁を越えられるものは、思想の純度だけだと教わってきた。努力しても、殆どのものは一生この団地で終わる。それが、この社会の仕組みだ。
「しかし、ただの獣が計画なんて建てられるものか?」
「偶然の可能性も否定出来かねるな、なにせ本能しかない奴等だ、そう云う人の僅かな空気を読む事も、得意なのかもしれない。戦争だって、奴等主体として考えるより、裏に何か、、、」
カイトは愛国心が人一倍強い男だ。だが、賢すぎる。
物事の裏を深く考えすぎる男は、いつか消されるかもしれない。
「……さあな。考える必要はない」
それだけ言って、Kは踵を返した。
「体操が始まる。遅れるなよ」
___
暫くして、ラジオ体操が始まった。
一、ニ、三、四、五、六、七、八。
一、ニ、三、四……
身体を曲げるたび、ポキポキと関節の気泡が弾ける。
関節が音を鳴らすのは、別に骨がずれているから、とかではなくて、油圧シリンダが破損する原因と同じだったか、と薄ぼんやりと思っていると、ドォン、と腹に響く様な音が響いた。
「伏せろ!」
誰かが遅れて叫ぶ。
二発、三発。振動が連続する。
ケイは反射的に地面へ伏せた。頬に砂の感触。口の中に鉄の味。
地震のような振動を彼方此方から感じた。
これは地震ではない!
遺伝子に刻み付けられた記憶が、現状を素早く判断した。
ブルートのミサイルか、それとも爆撃機が侵入したのか?
空襲警報は無かった。つまりは、亜音速ミサイルか!
「会員の皆様、落ち着いてください」
スピーカーの声が、変わらぬ調子で降ってくる。
自治会長の声で無い、機械的な調子の音が。
「現在の衝撃は、想定範囲内の迎撃過程によるものです。危険はありません。引き続き、体操を継続してください」
周囲を見る。
何人かは伏せたまま固まっている。
しかし、立ち上がる者もいる。
そして、何事もなかったかのように——
腕を回し始める。
一、二、三、四。
空には、まだ薄く煙が残っている。
地面に伏せたまま、それを見上げた。
あれが本当に、迎撃の結果なのか。
あるいは、ただ通過しただけなのか。
そもそも——
あれを飛ばしているものを、
自分は本当に「獣」と呼んでいいのか。
考えかけて、
やめた。
顔に笑顔を貼り付け、ゆっくりと立ち上がる。
一、二、三、四。
彼もまた、腕を回した。
___
会の、雑用ばかりの無味乾燥な仕事を終え、人でごった返す地下鉄を乗り継ぎ、漸く郊外に降り立つと、あたりは完全な暗闇に飲み込まれていた。時刻は午前零時。
いつもは賑やかな飲み屋街も既にシャッターを下ろし、残るは泥酔客に、公園の隅で眠る路上生活者のみ。
ポケットからライターを取り出し、火を付け、簡易な懐中電灯として使いながら家路を目指す。少し肌寒い5月の夜気にゆらゆらと炎が揺れている。少しばかり、これが身体を温めてくれるような気がする。
コツコツと合皮の靴を鳴らし、遠方を見つめていると、曲がり角の端、電柱の隅に、誰かがそこに立っているような不思議な感覚に襲われた。
警戒しながら角へ進むと、誰もいない。
そんな肩透かしを何度か味わったものだから、すっかり安心して今回も足早に四角を曲がろうとしたその瞬間——
「ヒダさん。ヒダ、ケイさん……ですよね?」
声が、後方から聞こえた。
心臓がドクンと飛び跳ね、一気にアドレナリンが湧き出る。
後をつけていたのか!
一体誰だ?
会員か、それとも警察か?
「あぁ、お願い、叫ばないで。見つかっちゃう!」
何か冷たいものが、頸に当たる。
刃物のようで、そうでない。まるで爪のような……
視線を後ろへ向ける。闇夜に紛れ、見えずらいが、長いブロンドの髪に、細長く伸びる尾がちらと確認出来た。顔こそ見られないが、これは獣だ……ブルートの奴等がつけていやがったんだ!
「君……君の方こそ、大きな声を出すじゃないか。話はなんだ、金か、情報か、それとも俺を喰うつもりか?」
「喰うだなんて!あなた……いいから、黙って家まで案内しなさい、本当に食べてしまいかねませんよ」
選択肢は他に無いらしい。
高鳴る心臓を押さえながら、団地へと足を運んだ。