ボイスロイドたちと出られない部屋 作:パワーワード大好きおじさん
夕闇が教室の隅々にまで長い影を落としている。
窓から差し込む茜色の光は、使い古された机の木目を浮き彫りにし、宙を舞う僅かな埃を黄金色に染め上げていた。放課後の喧騒は遠く校庭の方へと去り、この教室にはただ、穏やかで濃密な時間が淀んでいる。
結月ゆかりは窓際の席に腰を下ろし、手にした文庫本に視線を落としていた。
時折、風に揺れるカーテンが彼女の紫色の髪を優しく撫で、微かな紙の擦れる音だけが静寂の中に溶け込んでいった。
その隣では、弦巻マキが机に突っ伏しながら、手遊びにシャーペンを回している。
退屈そうに、しかしどこか満ち足りた表情で、沈みゆく太陽を眺めていた。
教室の中央では、東北ずん子が丁寧に風呂敷を広げ、タッパーの中から淡い緑色の餅を取り出している。独特の甘い香りが、教室の無機質な空気の中にゆっくりと混ざり合う。
紲星あかりは、その様子を期待に満ちた瞳で見つめながら、鞄から水筒を取り出した。
教壇に近い席では、琴葉茜と琴葉葵が身を寄せ合い、一冊のノートを覗き込んでいる。
茜が何事かを楽しげに囁けば、葵は小さく頷き、柔らかな微笑みを返した。
誰もが、この放課後が永遠に続くかのような錯覚の中にいた。
外ではカラスの声が遠く響き、放課後の静寂をより一層深いものへと変えていく。
静寂に包まれていた教室の空気が、突如としてひび割れた。
物理的な衝撃を伴わず、しかし決定的な違和感としてそれは現れる。
教室の中央、光と影が交差する結界のような場所に、場違いなほど愛らしく、それでいて見る者の本能を震わせる「異質な輝き」を放つ存在が降臨した。その姿はあまりに完璧で、この世界の理から浮き上がっている。
その上位存在が小さく指を鳴らす。
刹那、空間が歪み、窓際にいた結月ゆかりと弦巻マキの姿を飲み込むようにして、漆黒の立方体が出現した。それは周囲の光をすべて吸収し、中の様子を一切窺わせない、冷徹な断絶。
驚愕に目を見開いたまま、ゆかりとマキの姿は壁の向こう側へと消える。
ずん子の手からこぼれ落ちそうになる餅、茜と葵の凍りついた視線。
あかりは息を呑んだまま動けず、教室全体が濃密な重圧に支配された。
残された者たちが呆然と立ち尽くす中、その特殊空間の唯一の出口であろう重厚な扉に、毒々しい蛍光を放つ文字が浮かび上がった。
『セックスをしないと出られない部屋』
無機質な文字が、夕闇の迫る教室で不気味に明滅している。
閉じ込められた二人の気配は、その厚い壁に遮られ、外へは一切漏れてこない。
静まり返った教室内で、ずん子の手から落ちたタッパーが床に乾いた音を立てた。
放課後の柔らかな静寂は、無残にも引き裂かれた。
教室の中央に鎮座する漆黒の立方体は、まるで現実というキャンバスに開いた穴のように、周囲の風景を不自然に歪ませている。茜色の夕日はその黒い表面に反射することなく吸い込まれ、そこだけが永遠の夜を切り取ったかのような異様さを放っていた。
ずん子は、床に転がったタッパーから散らばったずんだ餅を見つめたまま、金縛りにあったように動けないでいる。彼女の指先は微かに震え、いつも絶やさない穏やかな微笑みは、理解不能な事態への困惑によって完全に消え失せていた。
あかりは、喉の奥から乾いた声を漏らし、一歩、また一歩と後ずさる。彼女の背中が後ろの机に当たり、ガタガタと音を立てた。その瞳には、親友であるゆかりが突如として異空間へ消えたことへの、言葉にならない恐怖と混乱が浮かんでいる。
教壇付近では、茜が妹の肩を強く抱き寄せ、立方体を射抜くような鋭い視線で見据えていた。しかし、その強気な瞳の裏側には、未知の力に対する拭いきれない戦慄が滲んでいる。
「……なぁ、これ、なんやの」
茜の掠れた声が、静まり返った教室に響く。
隣で身を縮める葵は、姉の服の裾をぎゅっと握りしめ、扉に刻まれた卑俗な文字列を信じられないものを見るかのように凝視していた。彼女の顔からは血の気が引き、青白い肌が夕闇の中で透き通るようだった。
上位存在は、既に消え去っていた。
ただ、冷徹に刻まれた『セックスをしないと出られない部屋』という文字だけが、彼女たちの倫理と日常を嘲笑うかのように、教室の空気の中に毒を流し続けている。
窓の外では、さらに陽が落ち、カラスの鳴き声が遠ざかっていく。
この異常な空間に取り残された四人の間には、重苦しい沈黙と、閉じ込められた二人を案ずる焦燥だけが渦巻いていた。
しかし、誰からともなく気づく。
一瞬前まで教室を支配していたはずの、張り詰めた戦慄。
それが潮が引くように急速に霧散していく。
目の前にあるのは、禍々しい漆黒の立方体。刻まれているのは、あまりにも露骨で低俗な文言。だが、そのあまりの「お約束」感と、降臨した上位存在のどこか憎めない愛らしさが、少女たちの脳内に蓄積されたサブカルチャー的知識と共鳴してしまった。
ずん子が、床に転がったずんだ餅を「あーあ」という顔で拾い上げる。
その動作には、もはや世界の終焉を恐れるような悲壮感はない。
「……これ、アレですよね。ネットの漫画とかでよく見る」
ずん子のその一言が、決定的な合図となった。
あかりは、頬を微かに染めながらも、どこか諦めたような溜息をついて水筒を机に置いた。ゆかりを心配する気持ちは確かにある。だが、それ以上に「よりによってあの二人が」という、ある種の期待混じりの確信が彼女の中で頭をもたげていた。
茜は、葵を抱きしめていた力をふっと抜き、呆れたように扉の文字を指差した。
「なんや、そういうことか。うち、てっきり宇宙人の侵略か何かかと思ったわ。なんやねん『セックスしないと出られない』って……ベタすぎやろ」
隣の葵も、先ほどまでの青ざめた顔をどこへやら。
今は口元を袖で隠しながら「……お姉ちゃん、不謹慎だよ」と小声で嗜めている。しかし、その瞳は好奇心を隠しきれず、じっと黒い壁を見つめていた。
緊迫感は、もはやどこにもない。
窓から差し込む夕日は、依然として美しい茜色を保ち、教室には放課後特有の、のんびりとした、それでいて少しだけ浮ついた空気が戻ってきた。
まるで、お色気コメディの収録現場に立ち会っているかのような、奇妙な一体感。
((((あ、これバカエロの流れだ))))
言葉にせずとも、四人の意思は完全に一致していた。
今、あの壁の向こう側で、泰然自若なゆかりと、勝気に見えて意外と押しに弱いマキが、どんな顔で向かい合っているのか。
「……ゆかりさん、大丈夫でしょうか。色んな意味で」
あかりがポツリと漏らした言葉に、誰も反論はしなかった。
茜が「とりあえず、開かんか試してみよか」と軽い足取りで漆黒の立方体に近づき、取っ手のない扉を力任せに引いてみた。しかし、扉は壁面と一体化しているかのように微動だにしない。
「あかん、ビクともせえへんわ」
茜が手を離すと、ずん子も横から加わり、指先で壁をペタペタと触り始めた。あかりは扉の隙間に指をかけようと奮闘し、葵は「無理しちゃダメだよ」と後ろから心配そうに眺めている。
そんな無駄な努力を数分ほど続けた頃、不意に扉に刻まれた大文字の下に、小さな文字が、まるでテロップのように次々と浮かび上がってきた。
それは、あまりにも至れり尽くせりな、「お約束」を補完する詳細な注釈だった。
✳✳ 【ご利用上の注意】 ✳✳
>内部の時間は外部から切り離されており、肉体の老化、疾病、空腹による衰弱は一切発生しません。
> 居住空間は清潔かつ快適に保たれており、各種アメニティも完備されています。
> 条件(性行為)の達成後、退出の意思を示すことで即座に元の空間へ帰還可能です。
外部とのタイムラグはほとんどなく、帰還は速やかに行われます。
> 特記事項:内部での経過時間は、外部の扉横に設置されたカウンターにて観測可能です。
「……親切設計すぎるやろ」
茜が思わずツッコミを入れると同時に、扉の右側にデジタル式のモニターのようなものが、カチリと音を立てて出現した。
そこには現在、『経過時間:00時間05分』という数字が淡く光っている。
「老化もしないし、お腹も空かない……。これ、ゆかりさんとマキさんが納得するまで何日でも、何ヶ月でも中にいられるってことですよね」
あかりが頬を赤らめ、指先を合わせながらカウンターを見つめる。
「外からはどれくらい時間が経ったか丸見え、か……。二人にとっては、なかなかの羞恥プレイですねぇ」
ずん子が、どこからか取り出した新しいずんだ餅を頬張りながら、他人事のように感心した声を出す。あかりにもずんだ餅をそっと手渡す。
もはや、そこには悲劇の気配など微塵もない。
「バカエロ」というジャンルが提示する、あまりにも強固で、抗いがたい様式美。
これから刻まれるであろう時間が、二人の「格闘」の記録になることを確確信しながら、
四人は扉の横にあるカウンターを囲むようにして座り込んだ。
男の人は男の人同士で、女の子は女の子同士で恋愛すべきだと思うの。