同級生一色いろは、留年生比企谷八幡   作:10気筒VTEC

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一色いろは、始めました。


第1巻
お隣さんは小悪魔


春という季節を、これほどまでに疎ましく思ったことはない。千葉市立総武高等学校、一年F組。教室の空気は、まだ「個人」という単位に分断されたままだが、その実、水面下では猛烈な勢いで「スクールカースト」という名の不可視の地層が形成されつつある。

 

 誰もが自分の立ち位置を測り、隣の席の人間が「自分より上か下か」を値踏みし、保険をかけるように愛想を振りまく。その滑稽な群像劇を、俺――比企谷八幡は、窓際の最後列という聖域から眺めていた。

 

 本来、俺はこの場所にいるべきではなかった。一年前、この学校の門をくぐるはずだった俺の予定は、一台の黒塗りの車と、一匹のふやけた犬、そして折れ曲がった俺の足によって無残に粉砕された。一年間の療養。そして留年。 「空白の一年」は、俺という人間に、隠居した老人のような冷めた視点を与えていた。

 

 周囲の奴らは、俺のことを「少し目つきが悪く、老け顔の、影の薄い同級生」としか思っていないだろう。いや、存在すら気に掛けない。それでいい。俺はこの平穏なぼっちという名の聖域を、三年間守り通すつもりだった。それしか、できなかった。

 

 だが、その決意は、俺の隣の席に彼女が座った瞬間に、微かな不協和音を奏で始めた。

 

「……あ、ここ、お隣さんかな?」

 

 不意に届いたのは、春の微風に砂糖を三匙ほどぶち込んだような、甘ったるい声だった。  視線を向けると、そこには、新入生というカテゴリーにおいて最高傑作と呼んでも差し支えないほどの、完成された美少女が立っていた。

 

 栗色のふんわりとした髪。少し短めに詰められたスカートから伸びる、健康的な脚。そして、こちらの警戒心を強制的に解除させるような、計算され尽くした不安げな小動物の笑み。

 

「ああ。多分な。」

 

「わ、良かったぁ……。私、一色いろは。よろしくね?」

 

 彼女は、まるで春の花が咲くような動作で、俺の隣の席にすとんと腰を下ろした。  その瞬間、ふわりと、石鹸と僅かなフローラルが混じった、清潔感の塊のような香りが漂ってくる。

 

 一色いろは。俺は、彼女がカバンから教科書を取り出し、さりげなく周囲の男子たちの視線を回収していく様子を、視界の端であくまで「見ていない」フリをしながら、徹底的にプロファイリングした。

 

(……ほう。こいつ、かなりの手練れだな)

 

 俺の、ぼっち歴十数年で培われた「対人レーダー」が、最大出力の警報を発している。  一見すれば、クラスに一人はいる「明るくて可愛い、男子人気の高い女子」だ。だが、その一挙手一投足に、天然の要素は皆無に近い。

 

 例えば、今だ。彼女は、消しゴムを落としたフリをして、前の席の男子に拾わせた。

 

「あ、ごめんなさい! ありがとうっ」  

 

その際、ほんの少しだけ首を傾げ、相手の目をじっと見つめ、語尾を少しだけ弾ませる。  拾った男子は、まるで聖遺物でも手にしたかのような顔をして、顔を真っ赤にしている。    

 

……憐れな犠牲者よ。一色いろはにとって、今の動作は挨拶以下のルーチンワークだ。

 

彼女の笑みは、相手を喜ばせるためのものではない。自分の市場価値を維持し、周囲を自発的な協力者、またの名を下僕へと変貌させるための、生存戦略における武装なのだ。

 

彼女の「あざとさ」は、もはや技術を通り越して芸術の域に達している。  

 

自分を可愛く見せる角度。男が「自分に気があるのかも」と錯覚する距離感。  

女子グループの中で「あの子、男に媚びてるよね」と釘を刺されないための、絶妙な「天然キャラ」のコーティング。    

 

すべてが、完璧だ。おそらく、この一年F組という水槽において、彼女は瞬く間に生態系の頂点、あるいはそれに近いヒロインの座を手に入れるだろう。

 

「ねえ、……比企谷くん、だよね? 名簿、見ちゃった」

 

 一色いろはが、今度は俺の方を向いて話しかけてきた。その瞳は、潤んでいるように見えて、その実、相手の反応を冷徹にスキャンしている。俺が、他の男子のように鼻の下を伸ばすのか。それとも、警戒して目を逸らすのか。

 

「……ああ」

 

「比企谷くんって、なんか……落ち着いてるよね。他の男の子たちみたいに、ソワソワしてないっていうか」

 

 彼女は机に肘をつき、小さな掌に顎を乗せて俺を覗き込んできた。上目遣い。破壊力、Aプラス。この角度は、自分の顔のパーツが最も整って見える角度だと自覚していなければ不可能な挙動だ。

 

「……別に。一年遅れ……いや、なんでもない。ただ、騒ぐのが苦手なだけだ」

 

「ふーん。一年遅れ?」

 

「……ただの言い回しだ。気にするな」

 

 危ない。留年生という事実を口にしそうになった。  一色いろはは、俺の僅かな言い淀みを聞き逃さなかったはずだ。だが、彼女はそれを追及するような野暮なことはしない。

 

「そっかぁ。でも、比企谷くんみたいな人が隣だと、私、安心しちゃうかも。……私さ、こういう新しい環境って、ちょっと苦手なんだよね。上手くやっていけるか、不安で」

 

 そう言って、彼女は僅かに視線を落とし、儚げな表情を作った。    

嘘をつけ。  お前のその適応能力の高さなら、砂漠の真ん中に放り出されても一週間後には現地の族長をたぶらかして、オアシスの所有権を勝ち取っているはずだ。  

 

この「弱さの開示」こそ、彼女の真骨頂。「この子は俺が守ってやらなきゃ」と思わせる、教科書通りのハニートラップ。

 

「不安なら、あっちの奴らに相談すればいいだろ。喜んで騎士を志願する連中が、すでに十人はスタンバイしてるぞ」

 

「ひどーい。私、そんなに誰でもいいわけじゃないよ?」

 

 いろはは、少しだけ唇を尖らせて、拗ねたフリをする。  

 

(……怖い。この女、本当に怖い)

 

 彼女は、俺が自分の「あざとさ」を看破しているとは微塵も思っていないはず。

 

 ただ、この「目つきの悪い、少し変わった同級生」を、自分の管理下にあるスペアパーツの一つとして組み込もうとしているだけだ。  

 

「比企谷くんって、面白いね。なんか、学校の先生みたいな目をしてる」

 

「……老けてるって言いたいなら、そう言えよ」

 

「あはは、そんなこと言ってないよー。……でも、比企谷くんには、私のこと、助けてほしいな。困ったときとか」

 

 彼女の手が、机の上で俺の袖に、触れるか触れないかの距離まで近づく。  これが、一色いろはの「あざとい」攻勢。    

 

…だが、残念だったな。  俺の心臓は、一年間の空白と、元からの捻くれによって、この程度の可愛らしさではピクリとも動かないように絶縁加工されている。

 

「助けるも何も、俺はお前の名前を覚える自信すらないんだが。……一色、だったか?」

 

「えー! さっき自己紹介したじゃん! ……もう。一色、い・ろ・は、だよ。ちゃんと覚えてね?」

 

 いろはは、プイッと顔を背けて、隣のグループの会話に加わっていった。  

 

だが、その去り際。一瞬だけ、彼女が俺に向けた視線。  それは、獲物を逃した悔しさではなく、「攻略しがいのある素材を見つけた」という、不敵な好奇心の色を帯びていた気がした。

 

 一色いろは。彼女がこの後、俺の平穏をどれほどかき回すことになるのか。この時の俺は、まだその半分も理解していなかった。

 

 ただ一つ、確かなこと。春の陽光が差し込むこの教室で、俺の隣には、最強に面倒で、最強にあざとい女子が鎮座しているだろうということだ。

 

 俺は深くため息をつき、まだ誰もいない、がらんとした教室へと続く放課後の時間を待つことにした。

 

 

 

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