春の陽光は、青春を謳歌する者たちにとっては最高の舞台装置なのだろう。だが、今の俺にとっては、自分の影を色濃く、不気味にアスファルトに焼き付けるだけの装置でしかなかった。
目の前に広がるテニスコート。そこは、スクールカーストの頂点に君臨する者たちの領土だった。二年生の女王、三浦優美子。そして、誰もが認める太陽、葉山隼人。彼らがラケットを構えるだけで、周囲には華やかな、それでいて排他的な空気が形成される。
「……ねえ、本当にやるの? その……一年生の彼と」
三浦が、金髪を指先で弄りながら、不快感を隠そうともせずに俺を指差した。その視線は、道端に落ちている正体不明のゴミを見るそれと等しい。隣に立つ葉山は、困ったように眉を下げつつも、誠実であろうとする「太陽」の顔を崩さない。
「約束だからね、優美子。奉仕部の彼らが勝てば、テニスコートの使用権は戸塚くんたちに譲る。……比企谷くん、だったかな。よろしく」
葉山が差し出してきた爽やかな右手。本来なら、一年前の俺が受け取るはずだった、輝かしい同級生の手。だが、今の俺は一年遅れの異分子だ。俺はその手を無視し、泥のついたラケットのガットを無造作に弾いた。
「……ああ。よろしくな、葉山『先輩』」
嫌味を込めたその呼称に、周囲の2年生部員たちから微かな、けれど確かな拒絶のざわめきが漏れる。隣では、雪ノ下雪乃が凛とした立ち姿でラケットを握っていた。彼女の美しさは、三浦のような威圧的なものとは違う。鋭利な氷の刃だ。
「比企谷君。無駄な挑発はよしなさい。あなたのその貧弱な語彙力で彼らを攻撃しても、彼らの耳にはノイズとしか届かないわよ。……それより、策はあるのかしら?」
「……策? そんな高尚なもんじゃない。俺に期待するなよ、雪ノ下。俺がやるのは、テニスじゃない。……ただの『泥仕合』だ」
なぜこうなったのか。そもそもは、俺が戸塚のテニス部に顔を出したことがきっかけだった。
テニス部にはコートの割り当て日があり、割り当て日以外は一般生徒がコートを使用することがあった。今日はその割り当て日だったので、戸塚と待ち合わせをしてテニスをする予定だった。「青春」の陽気に当てられた俺がコートに着くと、そこには困った顔の戸塚と、見るからにリア充な集団がいた。
葉山隼人
由比ヶ浜がいたころの奉仕部での会話に出てきた存在。1年生の間でも知れ渡っているイケメンリア充。それ以上に、なぜか雪ノ下がその話題を避けたのが印象に残っていた。
何でも彼らはテニス部員が全くコートに出ていないことで、コートを自由に使えると考えたらしい。それが勘違いで終わればいいが、彼らの集団で重要なのは面子である。勘違いだとわかっても、ノリは止められない。葉山隼人もその流れを変えることはなかった。
かくして、コートの使用権を賭けたデスマッチが、今、始まる。
試合が始まれば、そこは残酷な実力差が支配する戦場となった。葉山の鋭いサーブ。三浦の無駄のないボレー。対するこちらは、テニス未経験の俺と、運動能力は高いがスタミナに難のある雪ノ下。スコアは瞬く間に開いていく。周囲の観客は大半が、優雅な先輩たちの勝利を確信している2年生たちだ。失笑さえ漏れ始めた。
「……なによ、期待して損した。ただの留年生じゃん」
「葉山たちの相手、務まるわけないって」
そんなノイズが、俺の耳には最高の子守唄に聞こえた。どこかから、留年生という情報が漏れている。悪名は伝達速度が速いらしい。しかし、期待されていない。嫌われている。蔑まれている。それこそが、俺が最も力を発揮できる、慣れ親しんだ孤独の戦場だ。
「……そろそろ、いいか」
俺は、わざとらしく大きく肩を上下させ、限界を装ってコートの最前線に立った。葉山のサーブが飛んでくる。俺はそれを打ち返そうともせず、正面から受けに行った。
「――っ!?」
鈍い音と共に、ボールが俺の胸元を直撃する。俺はこれ以上ないほど派手に、地面へと転がった。
「比企谷くん!? 大丈夫か!?」
葉山が慌ててネット際まで駆け寄ってくる。俺は泥に塗れた顔を上げ、震える手で膝を押さえた。
「……あ、ああ……悪い、葉山先輩。……ちょっと、一年前の事故の傷が痛んだだけで……」
その一言を、俺はわざと周囲に聞こえるような、掠れた、痛々しい声で放った。一瞬で、コートを包む空気が凍りつく。
比企谷八幡が留年した理由。一年前の入学式の日、大怪我を負ったという、学校中に流れている真実味のある噂。その「被害者」である俺が、今、彼らの目の前で苦しんでいる。いかなる悪人であろうと、被害者という仮面を被ればそれだけで同情される。
葉山の顔から余裕が消えた。彼は善人だ。正義感の強い男だ。少なくとも、そう見えなければいけない。だからこそ、怪我を負っている相手に対して、本気でボールを打ち込むことに、致命的なブレーキがかかる。
「……比企谷君、あなた……」
背後で、雪ノ下が氷のような、けれど葛藤を含んだ声を漏らす。彼女がダメージを負う必要はない。あの事故は、由比ヶ浜のクッキーで解決した。だから俺は彼女にだけ聞こえるように、口の端を歪めて見せた。
「……勝利こそが『奉仕』だろ、雪ノ下。……見てろ、ここからが本番だ」
だが雪ノ下、俺の悪行の片棒をおまえにも担がせる。…それぐらい許されるだろ。
それからの俺のプレーは、テニスというスポーツへの冒涜だった。わざとふらつきながらボールに食らいつき、返球するたびに苦悶の声を上げる。葉山が甘い球を返せば、それを雪ノ下が容赦なく叩き込む。三浦が苛立ち、鋭いショットを放とうとすれば、俺はわざと彼女の視線の先に立ち、死んだ魚のような瞳でじっと見つめ続けた。
「……なによ……なんなのよアンタ! 気味悪いっ!」
三浦の叫び。彼女の完璧なカーストという名の殻に、ヒビが入った瞬間だった。罪悪感、困惑、恐怖。2年生たちの華やかな輪の中に、俺という「不気味な異物」が毒を流し込む。彼らは団結すればするほど、俺という孤高の汚物をどう処理していいか分からず、足並みを乱していく。
最後の一打。雪ノ下の放った鋭いスマッシュが、戦意を喪失した葉山の足元で跳ねた。
「――ゲームセット。勝者、比企谷・雪ノ下組」
審判を務めた戸塚の声が、不自然なほどの静寂の中に響き渡る。勝利したはずの俺は、満身創痍の姿のまま、ラケットを杖のようにして立ち上がった。周囲からは歓声など一切上がらない。俺はもう被害者ではない。そこにあるのは、「見てはいけないものを見てしまった」という、2年生たちの深い沈黙と嫌悪だけだった。
「……勝ったぞ。約束通り、コートは空けてもらう」
俺は、茫然と立ち尽くす葉山の横を通り抜け、コートを後にした。その背中に向けられる視線の冷たさを、俺は心地よい外套のように纏いながら。
しかし、目の前には「比企谷八幡」が気持ちよさを感じていることに嫌悪する俺がいた。