同級生一色いろは、留年生比企谷八幡   作:10気筒VTEC

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倒錯的愉悦

テニスコートから数十メートル。サッカー部のグラウンドでは、練習の合間の休憩時間が訪れていた。一色いろはは、「マネージャー」をしていた。

 

サッカー部のマネージャーになったのは、自らのイメージを固めるため。献身的に男子を支える健気な少女になるため。そして、レベルの高い男を探すためでもあった。例えば葉山隼人のような。

 

しかし、本当にそれを求めているのかがわからなくなってきた。一色いろはが築いてきたイメージがそうであるように、恋愛というものもまた虚構なのではないか。そもそも自分の中にある「一色いろは」はこのイメージでいいのか。答えは出ない。

 

考えても仕方のないことよりも、手を動かす。そのためにスクイズボトルが並んだカゴを抱え、2年生の部員たちが集まっているベンチへと歩み寄る。

 

「葉山先輩、お疲れ様です。お水、ここに置いておきますね」

 

 いつもの、誰からも愛される「可愛い後輩」の顔。だが、戻ってきた葉山隼人の表情に、いつもの輝きを失い、影が差していることをいろはは即座に気づいた。

 

「……ありがとう、一色さん」

 

「葉山先輩? 何かあったんですか? なんだか、元気ないみたいですけど……」

 

 いろはが小首を傾げて覗き込むと、葉山の周囲にいた他の2年生部員たちが、吐き捨てるように愚痴り始めた。

 

「聞いてくれよ一色。さっき、テニスコートの使用権を賭けて試合したんだけどさ……相手の1年生が、マジで最悪だったんだ」

 

「比企谷だっけ? あの留年生。あいつ、わざと怪我してるふりして隼人くんの良心に漬け込んだり、わざと気味悪いこと言ったりして……。あんな汚いやり方、スポーツマンシップのかけらもねーよ」

 

 比企谷。その名を聞いた瞬間、いろはの胸の奥で、ドクンと心臓が跳ねた。

 

(……やっぱり、やらかしてくれたんだ。あのアホな先輩)

 

「それはひどいですね。葉山先輩の優しさに漬け込むなんて」

 

適当な言葉で受け流すと、同意ととったと見た別の2年生がまくしたてる。

 

「いろはちゃん、あいつと同じクラスなんだって?どんな感じなの」

 

答えに迷う。「私」のイメージは守らなければいけない。しかし私まで彼を罵倒するのもまた、違う。それは彼を利用する上での最低条件だ。

 

「そうですね。教室ではたまに問題もあるけど、基本おとなしい人、かな?特別悪い人には見えないですけどねー」

 

どっちつかずの答え。アンビバレントからひねり出したフォローは、しかし2年生とって優しさにしか映らなかったらしい。

 

「いろはちゃん優しいからな。比企谷のこと悪く言えないんだろ」

 

「なんか問題があったら、俺たちに言ってくれよ。」

 

「あ、ありがとうございます」

 

私はこれ以上の抵抗を諦めて、2年生たちの不満に同調してみせた。だが、思考は比企谷八幡に囚われたまま加速を始める。

 

 学校中の憧れの的である葉山隼人。カーストの女王である三浦優美子。その完璧な2年生グループを、たった一人で、悪意に塗れながら絶望の淵に叩き落とした男。周囲の2年生たちは、八幡を「不気味」「関わりたくない異物」として排斥しようとしている。  

 

けれど、その「不気味さ」の裏側にある、彼の本当の狙い。自分の評価を最低まで叩き落とすことで、相手の最強の武器である正義感を逆手に取る、あの残酷で冷徹な知略。その真価を知っているのは。その「最低の英雄」と、放課後に笑い合っていたのは。

 

(私だけ。……私だけが、あいつの本当の使い道を知ってる)

 

 葉山たちが八幡を訝しみ、1年生が彼を遠ざけようとすればするほど、八幡という存在は「一色いろはだけの専売特許」になっていく。その優越感。その全能感。だが同時に、形容しがたい歯がゆさもまた、いろはの胸を締め付けた。    

 

なぜ、彼はあんな大勢の前で、あんな無茶なことをするのか。なぜ、他人のために、自分の評価をそんなゴミみたいに投げ捨てられるのか。誰かのために、泥に塗れる八幡の姿を想像するだけで、いろはの良心はチリリと音を立てて焦げ付く。

 

散々利用した癖にとは自分でも思う。しかし、私は彼の「奉仕」に報いているつもりだ。等価交換でないにしろ、正当に評価しているはずだ。しかし彼は自らを安売りする。自分の正当な利用価値に気づいていない。

 

「……一色さん? 顔、赤いけど、熱でもある?」

 

 葉山が心配そうに顔を近づけてくる。慌ててステップを踏んで距離を取った。

 

「あ、あはは。大丈夫です! ちょっと、日差しが強いせいかなーって。……私、もう一回ボトル詰めてきますね!」

 

 逃げるようにその場を去りながら、いろははテニスコートの方を振り返った。そこにはもう、八幡の姿はない。けれど、2年生たちの会話の中に刻まれた「比企谷」という名の消えない傷跡が、いろはには誇らしく、そしてたまらなく忌々しかった。

 

「……バカ。……本当に、バカな人。……あんなやり方したら、私以外に味方なんていなくなっちゃうのに」

 

 独り言。その声音には、怒りと悲しみと、それ以上の「愉悦」が混じっていた。

 

 一色いろはは、確信していた。比企谷八幡という男を、最も深く理解し、最も正当に「利用」できるのは、上の学年の誰でもない。隣の席で、彼の汚れを、特等席で眺め続けている自分だけなのだと。

 

 午後の日差しは、やはり不公平に二人を照らしていた。一人は泥の中に。一人は、その泥の輝きを愛おしむ、影の中に。

 

 

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