「ただいま」という言葉が、これほどまでに重く、そして安堵を伴う響きを持つものだとは、一年前の俺は知らなかった。千葉の湿った風を切り裂き、ようやく辿り着いた比企谷家。ここは、クラスメイトの蔑みも、雪ノ下の正論も、一色のあざとい打算も届かない、俺にとって唯一の非武装地帯だ。
玄関の扉を開け、靴を脱ぎ捨てようとしたその時。ドタドタという、聞き慣れた、けれど一年前よりも少しだけ成長を感じさせる足音が廊下を駆けてきた。
「あ、お兄ちゃんお帰り! 遅かったじゃん」
ひょいと顔を出したのは、我が愛すべき妹、比企谷小町である。中学三年生。受験生という多忙な身でありながら、その表情には相変わらず人を食ったような明るさが宿っている。
「……放課後の『矯正施設』で余分な時間を浪費させられてた」
「へぇー。奉仕部だっけ? お兄ちゃんを拾ってくれるなんて、そこって実は慈善団体か何か? よかった、お兄ちゃんもついに救われるのね。 ……今の発言、小町的にポイント高い!」
小町は親指を立てて「グッ」とポーズを決める。この小気味よい、意味のないやり取り。一年前、俺が病院のベッドで天井を見上げていた時、一番欲しかったのは、こうした「変わらない日常」だった。
「ほら、お兄ちゃん。突っ立ってないで手を洗ってきなよ。今日は小町特製の、お兄ちゃんの冷え切った心を温める……かもしれないカレーなんだから」
「……かもしれない、の部分に火薬が含まれていないことを祈るよ」
夕食のテーブル。カレーの湯気の向こう側で、小町は器用にスプーンを動かしながら、俺の顔をじっと観察していた。
「……なんだよ。俺の顔にカレーのルーでもついてるか」
「ううん。お兄ちゃん、最近ちょっと顔つきが変わったなーって思って。……なんて言うのかな。前は『悟りを開いた死んだ魚』だったけど、今は『ちょっとだけ現世に未練がある死んだ魚』って感じ?」
「どっちにしろ死んでるじゃねーか。……別に何も変わってない。俺はただ、滞りなく卒業を目指しているだけだ」
「そうかなぁ?女の子と楽しくお買い物してたって噂、小町の情報網には入ってるんだけど?」
「……ぶふぉっ!?」
俺は思わずカレーを吹き出しそうになった。小町の情報網とは、一体どこまで根を張っているのか。中学三年生の情報収集能力を侮ってはいけない。
「楽しく、なんて形容詞はどこにも存在しなかった。あれはただの強制労働だ。俺はあいつに利用されているだけだぞ」
「……ふーん。利用、ねぇ」
小町は顎を手に乗せて、ニヤリと笑った。
「お兄ちゃん。利用し合える関係って、実は一番『対等』だったりするんだよ? お兄ちゃんみたいに、プライドがエベレストより高くて、他人からの無償の愛を信じられないひねくれ者には、それくらいが丁度いいのかもね」
「……お前、たまに中三とは思えない鋭いこと言うよな。怖いわ」
「えへへ、小町的にはポイント高いでしょ? ……でもさ、お兄ちゃん」
小町はふと、スプーンを置いて真剣な眼差しになった。
「……留年したこと、まだ気にしてる?」
核心を突く問い。俺はスプーンを止めた。一年前のあの日。俺が事故に遭わなければ。 今頃、小町は「高校二年生の兄」に、受験の相談をしていたはずだ。今の俺は、彼女の二年先を歩いているようで、その実、立ち止まっていた一年という空白に縛られ続けている。
「……気にしてないと言えば嘘になるが。……まあ、案外悪くないぞ。一年遅れたおかげで、お前と同じ学校に通う時期が増えたからな。小町と同じ学校の制服を着て登校するなんて、世の兄たちが卒倒するようなイベント、俺には耐えられない」
「何それ、遠回しな愛の告白? 気持ち悪いけど小町的にポイント高い……かな! でも大丈夫。お兄ちゃんがどこで誰と何をしていようと、小町はお兄ちゃんの味方だからね」
小町はそう言って、俺の空になった皿をひょいと奪い取った。
「さて!お兄ちゃんに『奉仕部』への新しい依頼を持ってきました!」
「……は? なんでお前が持ってくるんだよ」
「話せば長くなるんだけどね。小町の友達で、川崎大志くんって子がいて……。そのお姉さんが、最近夜遊びが激しくて心配なんだって。お兄ちゃんの学校の二年生らしいよ」
小町は、スマホの画面を見せてきた。そこには、どこか近寄りがたい雰囲気を纏った少女の写真が映っていた。
「川崎大志の姉、川崎沙希。……二年生か。また『先輩』の案件かよ」
「お兄ちゃん。これ、小町からのお願い。大志くん、本当に困ってるんだ。お兄ちゃんがその奉仕部の先輩たちと一緒に、なんとかしてあげてよ」
小町の純粋な願い。これを断る選択肢を、俺は持っていない。それに、「川崎沙希」という名には、どこか一色いろはや雪ノ下雪乃とは違う、別の「問題」の匂いがした。
「……分かったよ。明日、部室で話してみる」
「やった! さすが小町の自慢のお兄ちゃん! おかわり、大盛りにしてあげるね!」
再びキッチンへと向かう小町の背中を見ながら、俺は深い溜息をついた。平穏な日常。 守るべきものは、この家の中にある。けれど、その平穏を守るためには、俺は明日もまた、あの面倒極まりない奉仕部の扉を開かなければならない。
窓の外。夜の千葉の街は、静かに、けれど確実に次の事件を孕んで脈動していた。
次の日の放課後、俺は依頼の解決に向かって歩いていた。
駅前のカフェ、喧騒に包まれたその空間。西日に照らされた店内は、その喧騒と共に明るさを増していた。俺はその光を避けるように、影の濃い壁際を歩き、4人掛けテーブルに向かった。
席にたどり着く。そこには、すらっと伸びた背筋、静寂を纏った雪ノ下雪乃がいた。そしてその隣には、制服を少し着崩した、落ち着きのない様子の中学生が座っている。
「……小町が世話になってるな。川崎大志」
俺が声をかけると、大志は弾かれたように顔を上げた。
「比企谷さん! ……あ、いえ、比企谷先輩……。急に来てすみません。小町さんから、ここなら絶対に助けてくれるって聞いて……」
大志の視線には、必死さと、そして俺に対する微かな戸惑いが混じっていた。中学三年生の彼にとって、二歳上の俺が、さらに一学年下の「一年生」として学校に通っている事実は、理解はできても飲み込みづらいものなのだろう。
「どうぞ座って、比企谷君。ちょうど今、依頼の内容を確認し終えたところよ」
雪ノ下が本を閉じ、冷徹な、けれどどこか慈悲深い瞳で俺を見た。
「川崎君の依頼は、彼のお姉さん、川崎沙希さんの更生、あるいは現状の把握よ。彼女は最近、深夜に及ぶ外出を繰り返し、家では家族を拒絶するような態度をとり続けている。家計を助けるためのアルバイトだとしても、高校生が立ち入るべきではない領域に踏み込んでいる可能性があるわ」
川崎沙希。二年生。下調べによれば、彼女は特徴的な水色の髪を乱暴に結び、周囲を威嚇するような鋭い眼光を放つ少女だ。一年前、俺がまだこの学校の「新入生」として歩き出すはずだった頃、彼女もまた、この学舎のどこかで自分の居場所を探していたはずだ。
「……怖い先輩か。正直、関わって無事で済む相手には見えないがな」
「ええ。だからこそ、奉仕部が動く必要があるのよ」
雪ノ下は、迷いのない声で断言した。
彼女にとって、規律や道徳は絶対だ。だが、その裏側にある「なぜ彼女がそうなったのか」という問いに対しても、彼女は常に誠実であろうとする。
「姉ちゃん、昔はあんなんじゃなかったんです。……最近は、夜中にこっそり家を出て、朝方に戻ってくることもあって。大人は『反抗期だ』なんて言うけど、僕は……姉ちゃんが、何か重いものを一人で背負ってる気がして……」
大志の拳が、膝の上で震えていた。家族にさえ言えない秘密。夜の街に溶け込まなければならない理由。それは、由比ヶ浜結衣のような温かなお節介でも、雪ノ下雪乃のような高潔な立ち回りでも解決できない、より現実に近い問題の匂いがした。
その日の深夜。俺と雪ノ下は、大志からの情報を頼りに、千葉駅裏の雑居ビル街にいた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った街。ネオンの光が、アスファルトの上の水たまりに毒々しく反射している。
「……比企谷君。あそこよ」
雪ノ下の指差す先。古びたビルの二階、重厚な扉の隙間から、ジャズの音色と紫煙の匂いが漏れ出していた。看板には『Cafe & Bar Angel's Ladder』とある。カフェを装ってはいるが、実態は深夜営業のバーだろう。
扉が開き、一人の少女が出てきた。夜の冷気に、その水色の髪が白く浮かび上がる。 川崎沙希だ。学校で見せる制服姿とは違い、上には黒いパーカーを羽織り、その表情には、同年代の高校生が持つはずのない「疲労」と「諦念」が深く刻まれていた。
「……川崎先輩」
俺が声をかけると、彼女は稲妻のような速さでこちらを睨みつけた。その瞳に宿る敵意の激しさに、俺は思わず一歩引いた。
「……あんた、誰。……ああ、一年生に混じってる、あの気味悪い留年生」
川崎の声は、低く、冷たく、そしてひどく枯れていた。彼女は俺を後輩として見るのではなく、自分のテリトリーを侵す不審者として、あるいは自分の秘密を暴こうとする「敵」として認識していた。
「……ここで何をしてるんですか。大志くんが心配してましたよ」
「大志……?」
彼女の眉が、一瞬だけ揺れた。だが、すぐにその表情は鋼鉄の仮面に戻る。
「あんたに関係ない。大志にも言っときな、余計なことするなって。……あたしにはあたしのやり方がある。あんたみたいな、親の金で一年分余計に遊んでるような奴に言われる筋合いはない」
その言葉は、俺の胸に鋭いナイフのように突き刺さった。一年前の事故。俺が望んだわけではない「空白」。けれど、彼女のような戦っている人間から見れば、俺の現状はただの甘えにしか映らないのだろう。
「……雪ノ下。ここは一度引こう」
俺は、今にも川崎に詰め寄ろうとする雪ノ下の腕を掴んだ。今の川崎沙希に何を言っても無駄だ。彼女の周りには、他者を寄せ付けないほどの強固な防壁が築かれている。その防壁の正体が何なのかを解き明かさない限り、俺たちは彼女に触れることすらできない。
「……いいわ。けれど、次は逃がさないわよ、川崎さん」
雪ノ下は、去りゆく川崎の背中を、悲しげな、けれど決意に満ちた瞳で見つめていた。 水色の髪が闇に溶けていく。彼女は何を守るために、この汚れた夜の中に立ち続けているのか。
俺は、自分の無力さを噛み締めながら、冷え切った夜風を深く吸い込んだ。留年生。一年遅れの一年生。その中途半端な肩書きだけでは、この街の闇を抱えた少女を救うことはできない。
俺は、自分の中にない武器を探し始めていた。雪ノ下の正論でもなく、俺の自爆特攻でもない、もっと泥臭く、もっと「現実」を知る者の知略を。
脳裏に、教室の隣の席で、いつもあざとく微笑んでいる少女の顔が浮かんだ。