翌朝、登校した俺の頭は、昨夜の千葉の夜風がまだ耳元で鳴っているかのように重かった。教室に入り、のろのろと自分の席に鞄を置く。周囲のクラスメイトたちは、テニス対決の余韻か、あるいは俺という「留年生」への忌避感からか、露骨に視線を逸らして通り過ぎていく。
「……はぁ」
俺は机に突っ伏した。雪ノ下雪乃の正論は正しい。高校生の深夜労働は禁じられているし、家族に嘘をつくことも不誠実だ。だが、昨夜のバーの裏口で見た、あの川崎沙希の水色の瞳に宿っていた悲壮なまでの決意が、俺の脳裏に焼き付いて離れない。
「……うわぁ。比企谷くん、朝から死相が出てますよ? もしかして、夜遊びが過ぎて、ついに警察のお世話にでもなったんですか? 怖いです。近寄らないでください」
頭上から降ってきたのは、計算し尽くされた温度設定の、毒を含んだ甘い声。一色いろはが、自分の席の椅子を引くついでに、ゴミを見るような、それでいて好奇心に満ちた目で俺を見下ろしていた。
「……あいにく、警察沙汰になる前に帰ってきたよ。一色、しばらくお前の知恵を借りたいんだが」
「……え、何ですか? 改まって。もしかして、遠回しに私のこと口説いてるんですか? ……ごめんなさい、ちょっと暗いし留年してるし、何より今は二年生のドロドロ解決で忙しいので無理です」
流れるような拒絶の台詞。
「……お前、それ最近やってる深夜ドラマのヒロインの真似だろ。語感が良すぎるんだよな、あれ」
「あ、バレました? 最近流行ってるんですよ、この『あざとガード』。……で、冗談はさておき、何ですか? 比企谷くんが私を頼るなんて、槍でも降ってきそうな案件ですけど」
「仕事の話だ。……二年生に、水色の髪をした、えらく目つきの鋭い女子がいる。川崎沙希っていう名前なんだが、お前、何か知らないか」
俺がそう尋ねると、いろはは「川崎、沙希……?」と、記憶の引き出しを辿るように小首を傾げた。
「知らないですね。二年生の先輩って、葉山先輩とか、あの辺りの目立つ人たち以外はあまり……。でも、水色って相当派手ですよね? それで比企谷くんが悩んでるってことは、また奉仕部のお仕事ですか」
「ああ。……理由が分からんのだ。深夜のバーの裏口から出てくるのを見かけたんだが、本人は『自分には自分のやり方がある』って一点張りでな。……あの様子じゃ、単なる遊びじゃない。まるで、何かに追い詰められてるみたいだった」
俺が昨夜の光景を、断片的に話していく。深夜一時のバー。店裏のゴミ出し。擦り切れたようなパーカー姿。すると、いろははスマホを弄るのを止め、少しだけ真剣な表情で俺の目を見つめた。
「……ふーん。深夜のバー、ゴミ出し。……比企谷くん、それって、サッカー部の先輩たちがこっそり話してた『現実』と同じ匂いがしますね」
「……先輩たちが?」
「ええ。サッカー部、意外と進路の話でピリピリしてるんですよ。この前も、ある先輩から『大学進学の費用が足りない』って相談を聞いたんです。マネージャーって、そういうモブキャラ……あ、失礼、部員さんたちの愚痴聞き係も兼ねてるんで」
いろはは椅子を俺の机に引き寄せ、声を潜めた。
「女の子がそこまでして守りたいのは、ブランド品とかじゃなくて『自分の未来』なんです。……比企谷くん、大学進学、実は入学金の減免には、細かい家計所得のラインがあるんですよ。サッカー部の先輩も言ってました。『あと数万世帯年収が低ければ全額免除なのに、うちは微妙に届かない。だからバイトで補填するしかない』って」
「……つまり、その川崎って先輩も、大学進学の費用のために戦ってる可能性があるってことか」
「あくまで私のマネージャー経験からの推測ですけどね。……でも、水色の髪にしてまで自分を武装してるような意地っ張りな人なら、親に『お金がないから進学を諦める』なんて言えないでしょうし。……自分の力だけで、最初の一歩を踏み出すための切符を作ろうとしてる。……一年前から時間が止まったままの比企谷くんには、想像もつかない『切実な二年生』だと思いませんか?」
いろはの言葉は、鋭い針となって俺の胸を刺した。そうだ。彼女たちは「二年生」なのだ。あと一年足らずで、否応なしに社会へと放り出される準備をしなければならない。
「……一色。お前、部員からそんな重い話まで引き出してたのか」
「あざとく聞き上手でいれば、有力な情報は向こうから転がってきますから。……比企谷くん、その先輩を助けたいなら、力ずくで止めるんじゃなくて、『もっと楽な出口』を見せてあげたらどうですか。……彼女みたいなタイプには、正論よりも『効率的な抜け道』を教えてあげるのが一番効きますよ」
いろはは、いつもの小悪魔的な微笑みに戻ると、パチンとウィンクをしてみせた。
「さて、アドバイス料は放課後のアイスで。一番高いやつ、期待してますからね、比企谷くん?」
彼女は軽やかな足取りで、ドラマのヒロインのような優雅さで自分のグループへと戻っていった。一年生の教室。 隣の席の少女が、サッカー部の人間模様から導き出してくれた、冷徹で、かつ血の通った「現実的な解」。
俺は立ち上がった。一色いろはが教えてくれた武器を持って、俺はもう一度、あの水色の瞳に立ち向かう。この留年生活の汚れた手は、誰かの未来のために使うべきなのだと、自分に言い聞かせながら。
深夜のホテルのラウンジ。 そこは、高校生が足を踏み入れるにはあまりに不釣り合いな、豪奢で、どこか空虚な空間だった。 水色の髪を隠すように帽子を深く被り、給仕の仕事に追われる川崎沙希。彼女の視線は、昨日よりもさらに鋭く、周囲を拒絶していた。
俺と雪ノ下は、彼女の仕事が途切れる一瞬を狙って、その背後に立った。
「……またあんたたち。しつこいって言ったでしょ。通報でもなんでもすればいいじゃない。あたしは辞めないわよ」
川崎は振り返りもせず、低い声で吐き捨てた。その拳は、トレイを握りしめて白くなっている。俺は、いろはから教わった「サッカー部の先輩」の苦悩を思い出しながら、彼女の背中に言葉を投げた。
「……通報なんて面倒なこと、俺がするわけないだろ。川崎先輩、あんたが狙ってるのは『入学金』の工面だろ。国立大学に行くための」
川崎の肩が、目に見えて震えた。彼女はゆっくりと、信じられないものを見るような目で俺を振り返る。
「……なんで、あんたがそれを。大志が……大志が喋ったの?」
「あいつは何も知らない。ただ、あんたが自分を壊しそうな勢いで何かに立ち向かってるのを、泣きそうになりながら心配してただけだ」
俺は、雪ノ下が用意した数枚のプリントを、川崎の前のテーブルに置いた。
「これを見ろ。大学の特待生制度には、家庭の事情を鑑みた『入学予納金の猶予規定』がある。あんたの成績なら、今ここで深夜に身を削らなくても、学費の全額免除は十分に狙える。……あんたが守りたかったのは、大志の塾代や家族の生活を圧迫しないための、自分の未来なんだろ?」
「…………」
川崎は、差し出されたプリントを凝視した。 そこには、彼女が独りで夜の街を彷徨いながら必死に探していた「出口」が、無機質な活字で記されていた。 雪ノ下が、一歩前へ出る。その声は、冷たくも柔らかな響きを持っていた。
「川崎さん。あなたは独りで戦いすぎたのよ。それは誇るべき強さかもしれないけれど、残された家族にとっては、あなたが壊れていく姿を見ること以上の苦痛はないわ。……大志君は、あなたの背中を見て育っているの。私も…姉がいるから、ほんの少しはわかる気がする。たとえどんなに嫌いでも、壊れてほしくはないのよ」
「……っ、うるさい……うるさいわよ、あんたたちに何がわかるのよ!」
川崎の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。張り詰めていた糸が切れたように、彼女はその場に崩れ落ちる。水色の髪が、ラウンジの照明を浴びて、どこか子供のように頼りなく揺れていた。
数日後。駅前のカフェ。ドアが開くと同時に、川崎大志と、そして少し照れくさそうに顔を背けた川崎沙希が入ってきた。沙希の髪は、学校の校則に従い、少し彩度が落とされており、その瞳からはあの刺すようなトゲが消えていた。
「あの……比企谷さん、雪ノ下さん。本当にありがとうございました。姉ちゃん、ちゃんとバイト辞めて、家で一緒にご飯食べてくれるようになりました!」
大志が満面の笑みで頭を下げる。沙希は俺の横を通り過ぎる際、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
「……比企谷。……あんたも、あんたなりに取返してんのね」
その言葉は、俺の「一年遅れ」の現状を、蔑みではなく、不器用な共感として受け入れてくれたものだった。
二人が去った後、俺は窓の外を眺めた。二年生の、切実な現実。それを救ったのは、雪ノ下の正論でも、俺の独りよがりな策でもない。隣の席で、他人の欲望や損得を誰よりも鋭く観察していた、あの一年生だった。
「……比企谷君。一色さんには、きちんとお礼を言っておくことね」
「ああ、分かってるよ」
俺は、鞄の中に忍ばせていたハーゲンダッツの引換券を指でなぞった。利用し、利用される関係。けれど、その歪な繋がりが、誰かの凍りついた夜を溶かしたのもまた、事実だった。