同級生一色いろは、留年生比企谷八幡   作:10気筒VTEC

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大同団結

放課後の特別棟。その廊下を歩く俺の足音は、普段よりも少しだけ大きく響いているように感じられた。一年前のあの日、俺がこの学校で手に入れるはずだった普通の日常は、事故という物理的な衝撃によって一度は粉砕された。

 

一年遅れで入学し、こうして奉仕部などという場所に籍を置いている現状を、俺は「運命」などという大仰な言葉で飾るつもりはない。ただの出遅れだ。マラソンのスタート地点で靴紐が解けた程度の、些細で、けれど致命的なラグ。

 

 奉仕部の部室の扉を引く。中にあったのは、色彩を欠いたような静寂だった。

 

 窓際の席には、雪ノ下雪乃。彼女は文庫本から視線を上げることなく、ページをめくる指先の音だけを室内に落としていた。その美しさは相変わらずだが、かつてその隣で騒がしく笑っていた由比ヶ浜結衣の姿は、今ここにはない。

 

 あの一件以来、由比ヶ浜は部活に顔を出さなくなっていた。理由は分かっている。二年生のヒエラルキーの頂点に立つ三浦優美子や葉山隼人と、一年生の「不気味な異分子」である俺。その間に挟まれた彼女にとって、この部室はもう心地よい居場所ではなくなってしまったのだ。

 

「……遅かったわね、比企谷君」

 

 雪ノ下が顔を上げずに言った。その声には、寂しさも苛立ちもなく、ただ事実に即した冷淡さだけが宿っている。

 

「一年生の教室は、二年生と違ってまだ平和なんでな。掃除当番を押し付け合うくらいの、微笑ましい小競り合いに時間を取られただけだ」

 

 俺がいつものように皮肉を返すと、雪ノ下はふっと口角を上げ、すぐに消した。

 

「そう。出遅れた分、あなたは一年生の人間関係を堪能しているということかしら。それは微笑ましいことね」

 

 そんな、どこか刺のあるやり取りを交わしていた時、部室の扉が遠慮がちに、けれど確かな意志を持ってノックされた。

 

「……失礼するよ」

 

 現れたのは、葉山隼人だった。二年生の、そしてこの総武高校の「正解」そのもの。  端正な顔立ちに、誰に対しても平等な優しさを振りまく太陽のような男。だが、今日の彼の表情には、テニスコートで見せたあの爽やかさはなかった。眉間には微かな皺が寄り、その瞳には焦燥の色が混じっている。

 

「葉山君。あなたのような人がここを訪れるなんて、学校中の二年生が驚く事態ね。……三浦さんには内緒かしら?」

 

 雪ノ下の問いに、葉山は苦笑いを浮かべながら、俺の隣の椅子に腰を下ろした。

 

「……彼女に知られたら、それこそ事態がややこしくなる。……今日は、奉仕部に、というより……比企谷くんに頼みたいことがあって来たんだ」

 

「俺に?」

 

 意外だった。俺は一歳年下の、しかもこの前あんたに泥を塗ったばかりの後輩だぞ。

葉山は組んだ指を強く握りしめ、声を低めた。

 

「誹謗中傷が回っているんだ。二年生の間で……いや、正確には僕のグループの三人に」

 

 戸部、大和、大岡。葉山の背後にいつも控えている、賑やかしの三馬鹿。  

 

SNSの投稿の内容は、彼ら三人の誰かが「誰かの悪口を言っている」あるいは「グループから追い出そうとしている」といった、コミュニティの信頼を根本から揺るがす醜悪なものだという。

 

「無視すれば済む話だろ。そんなの、放っておけば熱が冷める」

 

「……そうはいかないんだ。三人の仲は、僕が思っていたよりも……脆かった。投稿が回るたびに、あいつらは互いに疑心暗鬼になっている。放っておけば、グループそのものが壊れてしまう」

 

 葉山の切実な訴え。彼はこの「偽りの平穏」を守るために、必死なのだ。自分の支配する完璧な王国が、正体不明の怪文書で崩壊していくことに、耐えられないのだろう。

 

「比企谷くん。君は、僕たち二年生の『空気』の外側にいる。……一年生の視点から、このドロドロした関係を客観的に見て、解決策を見つけてほしいんだ」

 

「……買いかぶりすぎだ。俺はただの出遅れた一年生だぞ。二年生の複雑な人間関係なんて、興味もなけりゃ知識もない」

 

 俺が断ろうとした時、雪ノ下が静かに言った。

 

「引き受けましょう。……比企谷君。あなたが言う通り、私たちは二年生の内部事情には疎い。けれど、あなたには『協力者』がいるはずよ。……あの、抜け目のない協力者が」

 

 雪ノ下の視線が、俺の鞄の横にある、購買のアイスの空きカップに注がれた。一色いろは。 マネージャーとして、葉山たちのすぐ傍で、そのドロドロとした人間模様を「特等席」で観察している一年生。

 

 葉山は、俺の顔をじっと見つめている。その期待と不安の混じった視線。

 

「……分かった。調べてみる。だが、期待はするなよ、葉山先輩。……俺が使う手段は、あんたの好むような綺麗なもんじゃない」

 

「……助かるよ。君なら、そう言ってくれると思った」

 

 葉山が部室を去った後、俺は大きく溜息をついた。由比ヶ浜がいないこの空間で、二年生のドロドロとした大人の事情に首を突っ込む。  

 

俺に必要なのは、この部室の静謐な正論ではない。もっと生々しく、もっと「情報」という名の毒を持った、あの少女の知略だ。

 

 俺は、スマホを取り出し、隣の席の住人へメッセージを送った。

 

『仕事だ。購買のアイス、三つ分くらいのネタを持ってこい』

 

 数秒後。

 

『えー、三つじゃ足りませんよ? 私の価値、そんなに安いんですか? 』

 

 返信。俺の「出遅れた日常」は、再び加速し始めていた。

 

 

 

翌日の放課後。俺は指定された学校近くのカフェの隅、西日がブラインド越しに縞模様を刻むテーブル席で、一人、冷めたブラックコーヒーを啜っていた。  

 

一年前の俺なら、放課後に女子と待ち合わせるなんてイベントは、都市伝説か宝くじの当選発表と同じくらいのリアリティしか持たなかった。事故による「一年間の出遅れ」が、俺をこうも奇妙な役回りに仕立て上げるとは、皮肉なものだ。

 

「お待たせしましたぁ。比企谷くん、もしかして私がいなくて寂しくて死にそうでした? ……あ、死んでましたね、元から。残念」

 

 軽やかな、それでいて計算され尽くした鈴のような声。一色いろはが、制服のスカートをふわっとなびかせながら、対面の席に滑り込んできた。彼女は流れるような動作でメニューを手に取り、俺の許可を待たずに「キャラメルマキアート、生クリーム増量で」と店員に注文を飛ばす。

 

「……一色。俺は仕事だと言ったはずだ。これはデートじゃない」

 

「わかってますってば。でも、情報を売る側にも気分ってものがあるんですよ? 比企谷くんは、女の子を喜ばせるためのコストを渋りすぎです。……そういうところが、ぼっちの理由なんじゃないですか?」

 

 いろはは、ストローを唇で挟みながら、上目遣いで俺を覗き込んできた。あざとい。自分の可愛さを武器だと認識し、その刃をどこまで喉元に突きつければ相手が屈するかを、彼女は本能的に理解している。

 

「……サッカー部。葉山の周辺で何が起きてる。誹謗中傷の犯人に心当たりはあるか」

 

 俺が本題に入ると、いろはは「んー」と可愛らしく唸り、キャラメルマキアートの山盛り生クリームをスプーンですくって口に運んだ。

 

「犯人、ねぇ……。比企谷くん、犯人一人を見つけて終わりだと思ってるなら、甘すぎですよ。生クリームより甘いです」

 

「どういう意味だ」

 

「葉山先輩の周りって、みんなが『正解』を演じようとしすぎてて、逆に気持ち悪いんです。サッカー部のマネージャーやってると分かりますよ。あの三馬鹿……あ、戸部先輩たち、実は前からギクシャクしてましたもん」

 

 いろはは、スプーンを口に咥えたまま、いたずらっぽく目を細めた。

 

「例えば戸部先輩。あの人、葉山先輩と一番親しそうにしてますけど、それってグループ内での自分のキャラを守るためのポーズにしか見えないんですよね。で、それを見て大和先輩たちは『あいつだけ目立ちやがって』って、こっそり愚痴ってましたよ?」

 

「……お前、そんなことまで聞いてるのか」

 

「聞き上手なんですよ、私。部員さんたちが『一色ちゃんなら分かってくれるよね』って、勝手にゲロっちゃうんです。……あ、今の言い方、可愛くなかったですね。……えへ、みんな私に心を開いてくれちゃうんですぅ」

 

 いろはは頬に手を当てて「てへっ」と笑って見せたが、その瞳の奥には、他人の醜い本音をコレクションして楽しむような、冷徹な理性が光っていた。

 

「今回の投稿、内容が具体的すぎるんですよね。『誰が誰をハブろうとしてる』とか。そんなの、グループの内部事情に相当詳しくないと書けません。……犯人は、あのグループを壊したいんじゃなくて、自分だけが『安全な場所にいたい』誰かですよ」

 

「……自分だけが安全な場所?」

 

「そうです。比企谷くんみたいに一人ぼっちが平気な人には分からないでしょうけど、あの人たちにとって、グループから外れるのは死と同じなんです。だから、誰かが外されそうなら、先に石を投げて自分じゃないことを証明しなきゃいけない。……醜いですよねぇ。でも、そういうのが『青春』ってやつじゃないんですか?」

 

 いろはは、グラスの底に残ったクリームを丁寧にさらった。その仕草は小動物のように愛らしいが、語っている内容は、葉山隼人が必死に守ろうとしている「王国」の基盤を腐らせるような、猛毒そのものだった。

 

「比企谷くん。これ、犯人を当てるクイズじゃないんです。……葉山先輩は、犯人を見つけたいんじゃなくて、犯人を『赦して』、また元通りの嘘っぱちの仲良しごっこに戻りたいだけ。……あなたは、その片棒を担ぐんですか?」

 

 問いかけるいろはの視線。彼女は、俺がどう動くかを試している。出遅れた俺が、二年生の完成された嘘にどうやって泥をかけ、いかなる結末を持ってくるのかを。

 

「……俺は、依頼を完遂するだけだ。葉山が何を望もうが、俺のやり方は変わらん」

 

「ふふ、そうこなくっちゃ。……あ、比企谷くん、口の端にコーヒーついてますよ? ……取ってあげましょうか? ……なーんて、嘘です。自分で拭いてください」

 

 いろははクスクスと笑いながら、身を乗り出していた体を椅子に戻した。  

 

あざとい。本当に、腹が立つほどあざとい。けれど、彼女がこうして毒を吐きながら俺の隣に座っている瞬間だけは、由比ヶ浜のいない奉仕部や、葉山の嘘にまみれた依頼から解放されるような、奇妙な高揚感があった。

 

「一色。……サンキューな。助かった」

 

 俺が素直に礼を言うと、いろはは一瞬だけ、本当に一瞬だけ、虚を突かれたように目を見開いた。だが、彼女はすぐに、見たばかりのドラマのような、完璧な「あざとい笑み」を作って見せた。

 

「……別に、アイス三つ分のお仕事をしただけですから。……でも、比企谷くんに感謝されるの、意外と悪くないかもですね。……これ、今日のアドバイス料に追加。……次、もっと面白いところ、見せてくださいね?」

 

 彼女はストローを指先で弄りながら、頬を赤らめて見せた。それが演技なのか、それとも本気なのか。出遅れた俺にはまだ、その境界線を見極める術はない。

 

さらに翌日の放課後、教室の空気は限界まで膨らんだ風船のように張り詰めていた。  二年生の教室フロア。そこは、一年生の俺にとっては本来なら無縁なはずの場所だ。だが、俺は今日、この場所に「毒」を撒き散らすために足を踏み入れた。

 

 葉山隼人のグループである戸部、大和、大岡の三人は、廊下の端で互いに距離を置き、スマホの画面を睨みつけながら、重苦しい沈黙の中にいた。かつて彼らを包んでいた、あの眩しいほどの陽キャオーラは霧散し、代わりに泥のような相互不信が渦巻いている。

 

 俺は、その少し離れた影から彼らを見つめた。いろはが言った通りだ。彼らは犯人を探しているのではない。自分が「次のターゲット」にならないための、生贄を探しているに過ぎない。

 

「……始めるか」

 

 俺はスマホを取り出し、あらかじめ用意していたSNSの捨てアカウントの送信のボタンを押した。

 

 数秒後。戸部、大和、大岡。三人のスマホが、同時に、けたたましく震えた。

 

「……あ?」  

 

戸部が顔を上げる。その表情が、驚愕から一気に激しい不快感へと変わった。

 

「なんだよこれ……。おい、お前らにも来たか?」

 

 そこに送られたのは、これまでの「誰かが誰かの悪口を言った」という内輪揉めのレベルを遥かに超越した、彼ら三人を、そして彼らの居場所を徹底的に貶める、罵詈雑言の羅列だった。

 

『戸部は三浦の金魚のフン、大和と大岡は葉山の腰巾着。お前ら三人、実は互いに死ぬほど嫌い合ってるくせに、一人になるのが怖くてつるんでるだけのゴミだよな』

 

 さらに追い打ちをかけるように、俺は新しい投稿を次々と送りつけた。一色から得た「サッカー部の生々しい本音」をあえて歪曲し、外部の人間が、彼らのコミュニティを嘲笑っているかのような文言を並べ立てる。

 

「……ふざけんなよ。これ、今までと違う。……外の奴が、俺たちのこと馬鹿にしてんのか?」  

 

大岡が、低い声で唸った。疑心暗鬼のベクトルが変わった瞬間だった。これまでは「内部の誰か」を疑っていた彼らの視線が、一斉に「外側の共通の敵」へと向く。

 

「……おい、大和。これ書いてる奴、俺たちのこと何も分かってねーよ。戸部だって、そこまで三浦の言いなりじゃねーし」  

 

彼らは、自分たちを攻撃する「より巨大な悪」を否定するために、必然的に互いを庇い合い、肯定し始めた。共通の敵を作ることで、内部の亀裂を塗り潰す。それは歴史が証明してきた、最も効率的で、最も醜い団結の手法だった。

 

 

 部室の扉を開けると、そこには冬の湖底のような静寂が待っていた。雪ノ下雪乃は本を机に置き、俺が入ってきたことさえ気づかないふりをしていた。だが、彼女の周囲に漂う空気は、明らかに鋭利な拒絶を含んでいた。

 

「……終わったぞ、雪ノ下。SNSの件はこれで終息するはずだ」

 

 俺の声に、雪ノ下はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、いつものように冷徹だが、その奥には凍りついたような失望が揺らめいている。

 

「ええ、聞いたわ。あなたがしたこと。……最低ね、比企谷君。いえ、最低ですら生ぬるいわ」

 

 雪ノ下の声は、低く、震えていた。

 

「誰かを守るために、自分を悪役に仕立て上げる。共通の敵を演じることで、無理やり関係を繋ぎ止める……。そんなものが、あなたの言う『解決』なの?」

 

「他に方法がなかった。あのまま放っておけば、グループは崩壊して、葉山の望む平穏は消えていた。……あいつの望みを叶えるには、これしかなかったんだ」

 

「それは欺瞞よ」  

 

雪ノ下が立ち上がった。一歩、彼女が近づくたびに、部屋の温度が下がる気がした。

 

「あなたはただ、向き合うことから逃げただけ。彼らが互いの醜さを受け入れる機会を奪い、偽物の団結を押し付けた。……そして何より、あなたは自分を傷つけることを、なんとも思っていないのね」

 

「……傷つく? 誰が。俺か? 笑わせんなよ。俺の評価なんて最初から地に落ちてる。一年遅れで入学した不気味な留年生が、二年生に悪口メッセージを送った。……ただそれだけの話だ。失うものなんて何もない」

 

 俺がそう吐き捨てると、雪ノ下は痛ましいものを見るような目で俺を見つめた。

 

 雪ノ下は、悲しげに目を伏せ、再び椅子に座った。彼女はもう、俺を見ようとはしなかった。部室の静寂は、もはや静謐ではなく、決定的な「断絶」となっていた。

 

 俺は、彼女に背を向け、部室を出た。一年前、事故によって俺の時間は一度止まった。けれど、今ここにある痛みは、止まっていたはずの時間が再び動き出し、容赦なく俺の心を削っている証左だった。

 

 

「……君がやったのか。比企谷くん」

 

 廊下の陰で、葉山隼人が俺に声をかけてきた。彼の顔には、安堵の色は微塵もなかった。あるのは、自分が守りたかった平穏が、後輩の「最低の手段」によって維持されたことへの、深い絶望と罪悪感だ。

 

「…これは一般論だが、犯人を特定して吊し上げるより、全員を被害者に仕立て上げる方が早いだろ。……これで、あの三人は『外部のアンチ』に対抗する戦友として、元通り仲良しごっこを続けられる」

 

「……こんなの、解決じゃない。君は……君は自分の評価を、またそんな風に……」

 

「評価なんて、最初から一円の価値もねーよ。……葉山先輩。あんたは『誰も傷つかない世界』が欲しいんだろ? だったら、俺みたいな、既に泥を被ってる出遅れ組が汚れ役を引き受けるのが一番合理的だ」

 

 葉山は、拳を白くなるまで握りしめ、言葉を失った。彼は知っている。自分の望みを叶えたのは、自分の正義ではなく、俺の「悪意」であることを。彼がこれからも享受する平穏は、俺が撒いた毒の上に成り立っていることを。

 

 

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