二年生の教室フロア。
あたしはここに来るたび、一年生の校舎よりも少しだけ天井が低くて、その分、なんだか呼吸がしにくい場所だなっていつも感じてた。
休み時間のチャイムが鳴ると同時に、波みたいに押し寄せてくる「噂話」の群れ。
あの「事件」があってから、その空気はもっとベタベタして、どす黒い熱を持ってるみたいで……すごく、嫌な感じ。
「……ねぇ、聞いた? 例のSNSの犯人、見つかったかもだって」
「一年生のあの留年生。比企谷、だっけ。証拠はないから先生も動けないらしいけど、テニスコートのこともあるし、絶対そいつだって」
「マジ最悪。葉山先輩たちにあんな下品な投稿するとか、育ち疑うよね。やっぱり一年遅れてる奴って、どっか頭のネジ外れてるんじゃない?」
あたしは自分の机で、開いたままの教科書の端を、指先が白くなるまでぎゅっと握りしめた。
隼人くんが奉仕部に依頼したことは知ってる。でも、みんなの声は、まるで弾丸みたいにあたしの胸を突き刺してくる。
みんな、何も知らないんだ。
どうしてあんな投稿がされたのか。その裏で、自分たちの「平和」が、誰の犠牲の上に成り立ってるのか。
ヒッキーは……最低だ。でも、自らが「共通の敵」っていう怪物になることで、バラバラになりかけてたグループの絆を、外側から無理やりくっつけたんだ。
(……なんで。なんで、そんなやり方しかできないの……)
込み上げてくるのは、ヒッキーへの怒りじゃない。クラスメイトへの軽蔑でもない。
ただ、どうしようもないくらいの「悲しさ」だった。
昼休み。騒がしい教室にいられなくて飛び出したあたしは、屋上へ続く踊り場にいた。
そこには、いつも中心にいるはずの人が、たった独りで手すりに寄りかかって、灰色の空を見上げてた。
「……隼人くん」
声をかけると、隼人くんはゆっくり振り向いた。
その顔には、女子たちの前で見せるキラキラした笑顔なんてカケラもなくて。自分たちの「平穏」と引き換えに、後輩に全部の泥を被らせちゃったことへの、消えない苦い気持ちが貼り付いているように見えた。
「……由比ヶ浜さんか。戸部たちは、もう大丈夫だよ。……最悪の形で、ね」
隼人くんの声は、低くて掠れてた。
彼はわかってるんだ。自分の無力さを。グループが壊れそうなのに気づきながら、「誰も傷つけたくない」っていう正解にこだわって、結局事態を悪化させちゃった自分。
その一方で、汚れ役を全部引き受けて、一瞬で問題を片付けちゃった部外者の、比企谷八幡を。
「僕は、あいつらに向き合うのが怖かったんだ。誰かを犯人にして、誰かを追い出す勇気がなかった。だから、ただ笑って、嵐が過ぎるのを待ってた」
隼人くんは自分を笑うみたいに、手すりを拳で叩いた。
「そこへ彼が来た。彼は僕には到底できない、最低で、でも効率的なやり方を平然とやってのけた。……自分っていう存在をゴミ箱にして、僕たちの醜い感情を全部そこに投げ込ませたんだ」
「ヒッキーは……。ヒッキーは、自分がゴミ箱だなんて、思ってないよ」
あたしは、震える声で言い返した。
隼人くんがヒッキーを悪く言おうとしたんじゃないのは、わかってる。でも、その言葉があまりにも……ヒッキーに合ってて、それが余計に辛かった。
「ヒッキーは、ただ……自分が傷つくことを、計算に入れてないだけなの。一年前、事故に遭って、周りのみんなと時間がズレちゃって……。だから、今ここにいる自分は、誰からも期待されてないし、誰の記憶にも残らない『余り物』なんだって、そう思ってるんだよ」
ヒッキーがときどき見せる、あの死んだ魚みたいな目。
一年前のあの日、彼が失くした「普通の一年生」っていう居場所。
もし、あの事故がなかったら。今ごろ彼はこの二年生のフロアで、あたしたちの隣で笑ってたのかもしれないのに。
「……なぜ、彼はこんなことができてしまうんだ」
「わかんない。でも、もしかしたらヒッキーは……居場所が欲しいのかも」
「……それは、矛盾してないか?」
「居場所って、心地よくない時があっても、そこにあることが大事だから。……あたしは、そう思うよ」
放課後。優美子の買い物のお誘いを、笑顔で、でもキッパリ断った。
優美子のちょっと不満そうで、でも心配そうな視線を背中に感じながら、あたしは一人、校舎の裏へ向かった。
目の前にあるのは、夕日に赤く染まった特別棟。
あの日、ヒッキーに拒絶された場所。
『お前は、自分の学年の、自分の居場所に戻れ』
突き放された言葉。冷たかった部室の空気。
あたしは、怖かったんだ。彼に「いらない」って言われるのが。自分の居場所なんてあそこにはないって、思い知らされるのが。
だから、彼が一人で傷ついてるのを知りながら、「優しいあたし」でいたいだけの自己満足で傷つくのを恐れて、逃げ出しちゃってた。
(……でも。やっぱり、あたし、嫌だよ)
ヒッキーが一人で無茶するのを、遠くから見てるだけの自分。
ゆきのんが彼のやり方を否定して、二人の間に壁ができていくのを、ただ黙って見てるだけの自分。
ゆきのんは、正しいよ。ヒッキーのやり方は間違ってるし、あんなの、誰も幸せになんかなれない。
けれど、正論だけじゃ、彼は救われないんだ。
「あんたは間違ってる」って言われるたびに、彼は「ああ、やっぱり俺は独りなんだ」って、その孤独を深めちゃうから。
彼に必要なのは、お節介なんだ。
正解を教えてくれる誰かじゃなくて、彼が間違えた時に、「そんなの悲しいよ」って一緒に泣いてくれる誰か。
たとえ「来るな」って追い返されても、次の日にはまた「おはよっ!」って扉を開けられるような、そんな図々しいくらいの……優しさ。
「……やってみよう」
あたしは、ぎゅっと鞄のストラップを握りしめた。
スクールカーストも、二年生としての立場も、一度へし折られたプライドも、もうどうでもいい。
ヒッキーが一人で泥を被るのが「効率的」だって言うんなら、あたしがその隣で、一緒に泥を落としてあげる。
彼が「自分には価値がない」って言うんなら、あたしが何度だって、「あんたには価値があるんだよ!」って叫び続けてやるんだ。
事故で遅れちゃった時間は、もう戻らない。
けれど、これから歩く時間は、あたしたちで選べるはずだもん。
「……待ってて、ヒッキー。ゆきのん」
どうやって、あの奉仕部を取り戻すか。
由比ヶ浜結衣の戦いも、ここからなんだから。