総武高校の廊下には、独特の「重力」が存在する。
スクールカーストの頂点に君臨する者たちが歩けば空気は華やかに浮き立ち、底辺に沈む者が歩けば、そこには澱んだ沈黙が溜まる。
その重力は常に異物を排除しようとする圧力として機能していた。
つまり今の俺に注がれる視線は、無関心ではない。
「……おい、見たか。あれが一年生の比企谷だろ」
「マジでヤバい奴じゃん。二年生の葉山先輩たちのグループに、あんなエグいメッセージ送ったんだろ? 留年してるからって、何様だよ」
「奉仕部だっけ? あそこに行けば、アイツが何でも『汚れ仕事』を引き受けてくれるって噂だぜ。性格が腐ってる奴には、腐った奴の頼み事がお似合いだよな」
休み時間の廊下を歩くだけで、周囲の会話が耳に張り付く。彼らの言葉は、鋭い礫となって俺の背中に突き刺さる。だが、俺はそれを不快だとは思わなかった。むしろ、その拒絶こそが、俺が自らの手で作り上げた「正解」の証明だったからだ。
二年生のグループを救うために、俺は共通の敵になった。犯人を特定せず、全員を被害者に仕立て上げる。その代償として、俺という「不気味な留年生」の評価を底まで叩き落とす。それは、俺にとって最も効率的で、慣れ親しんだ方法。
(……これでいい。俺は元から、誰かに好かれるためにこの学校に来たわけじゃない)
一年前のあの日、俺が失った普通の高校生活という幻想。それを今更、一歳年下のガキどもと分かち合うつもりなんて毛頭ない。…そうに決まってる。
俺は教室に戻り、窓際の席に深く腰を下ろした。太陽が机をオレンジ色に染め、宙に舞う埃が、まるで自分たちの居場所を誇示するように輝いている。
ふと、隣の席に視線を落とす。そこは、空席だった。この教室で俺を「比企谷くん」と呼ぶ、ただ一人の少女の席。
「……あーあ。比企谷くん、またそんな『世界中の不幸を背負ってます』みたいな顔して。中二病の末期症状ですか? 近寄るだけで闇の力に侵食されそうです」
背後から、計算し尽くされた温度設定の、甘ったるい声が降ってきた。振り返らなくてもわかる。一色いろはだ。彼女は、クラスメイトたちが俺を避けて作る「見えない真空地帯」を、何のためらいもなく踏み越えて俺の前に立った。
「一色……。お前、今俺と一緒にいるところを見られたら、お前の『あざとい清楚系ヒロイン』の看板に傷がつくぞ」
「あはは、何を今更。私、サッカー部のマネージャーですよ? 先輩たちがどれだけ比企谷くんのことを『最悪な奴だ』って、顔を真っ赤にして団結してるか。一番近くで見てるのは私なんです」
いろはは、俺の前の空席を勝手に引き、座り込んだ。彼女のスカートがふわりと揺れ、シャンプーの微かな香りが、澱んだ俺の周囲の空気を上書きしていく。
「比企谷くん。あなたは、自分が英雄にでもなったつもりかもしれませんけど。……私、納得いかないんですよ」
「……何がだ」
「私が教えた『サッカー部の事情』、それを全部、自分の評価を下げるためだけに使い切ったじゃないですか。……それって、情報を売った私に対する侮辱ですよね? 私はもっと、比企谷くんがその情報を使って、有利に動かしたりするのを期待してたのに」
いろはの瞳が、スッと細められた。その奥にあるのは、純粋な好奇心と、自分の期待を裏切られたことへの、子供のような苛立ち。彼女は、俺が自己犠牲という安易な、そして殉教的な解決法を選んだことが、自分と同じ「悪党」としての裏切りだと感じているようだった。
「……面白くないんですよ、それ。……だから、罰金です。比企谷くん、放課後は空けておいてくださいね」
「……断る。マネージャーはいいのかよ。大体俺は奉仕部の活動が――」
「マネージャーはいつでもできます。雪ノ下先輩には、私から言っておきますよ。『比企谷くんに勉強を教えてもらうことになりました』って。……ね? 私みたいな清楚で可愛い一年生に勉強を教えるなんて、留年生の比企谷くんにとっては最高のご褒美じゃないですか。……感謝してくださいね?」
いろはは、俺の反論を許さない完璧な笑顔を作り、パチンとウィンクをして見せた。 彼女の指先が、俺のノートの端をツンと突く。
図書館は、静まり返っていた。古い紙の匂いと床のワックスの香りが混じりあった独特の香りが鼻腔を微かに突き、天井の高い書架が外の世界の喧騒を遮断している。俺たちは、声を潜めながら言葉を交わす。
「……ったく、なんでわざわざ図書館なんだ。教室でいいだろ」
「バカですねぇ、比企谷くん。教室じゃあ、みんなが見てるじゃないですか。……私と比企谷くんが二人きりで、密室じゃないけど『ちょっとした隠れ家』にいるっていう、このシチュエーション。……あざとくないですか? 私の可愛さが三割増しで見えませんか?」
いろはは、対面の席に座った。
「…………ほら、どこがわからないんだ」
俺が突き出したのは、一年生の数学のワーク。いろはは、「うぇー……」と露骨に嫌そうな顔をしながら、ページをパラパラと捲った。
「全部です。特にこの、二次関数の最大値とか最小値とか。……何なんですか、動く範囲によって答えが変わるって。性格悪すぎませんか? グラフなんて、どっかに固定しておけばいいのに」
「……それは数学に言うんじゃなくて、文部科学省に言え。……いいか、まずは平方完成だ。 y = a(x - p)² + q の形に持っていけ」
俺がシャーペンを手に取り、裏紙に数式を書き込んでいく。一年前、俺が事故のあとに理解し、数少ない入院生活での収穫となった知識。それを今、年下の少女に教えているという事実に奇妙な感覚を覚えた。
俺の時間は、確かに一度止まった。あの日、犬を助けようとして車に撥ねられ、病院のベッドで天井を見上げていた数ヶ月間。その間に、同年代の奴らは二年生になり、進路や恋や、そんな「キラキラした時間」を駆け抜けていった。俺だけが、取り残された。
なのにどうして、俺の目の前には、「青春」を象徴するような少女がいるのか。
「……比企谷くん? どうかしちゃいました?」
いろはが、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。彼女の大きな瞳が、夕焼けの光を反射して、琥珀色に輝いている。その瞳を見ていると、ある懸念が再び頭をもたげる。
「……いや、なんでもない。……一色、お前、本当にいいのか。今、俺は学校中で一番の嫌われ者だぞ。二年生からも、一年生からもな」
何度目かの俺の問いに、いろははフッと鼻で笑った。彼女は頬杖をつき、俺が書いた数式を指先でなぞりながら、独り言のように呟いた。
「……嫌われ者、ですか。……いいんじゃないですか、それで。……だって、比企谷くんが世界中に嫌われてれば、私が隣にいても、誰も邪魔しないじゃないですか」
「…………」
「葉山先輩は、みんなに好かれてます。……だから、あの人の隣は、いつも戦場なんだと思います。……でも、比企谷くんの隣は、空き地みたいに静かで、ちょっと汚くて……でも、すごく落ち着きます」
いろはが、ゆっくりと顔を上げる。その瞳は、まっすぐこちらを見据えていた。
「比企谷くん。あなたは、私がどんなに性格が悪くて、あざとい女の子か、全部知ってますよね。……ただ、『そういう奴だ』って、そのままの私を理解しちゃってる。……それって、すごくずるいです」
彼女は、机の上に置かれた俺の手の上に、自分の手をそっと重ねた。ひやりとした彼女の指先が、心臓の鼓動を揺らす。
「……だから、比企谷くん。……あなたがボロボロになって、世界中に居場所がなくなっても。……私がまた、こうやって連れ出してあげます。理解者ですから」
それは、あざとい少女が見せた、精一杯の励ましの形だった。
「…なーんて、今のヒロインぽかったですよね? 惚れちゃいました? でも残念、比企谷くんの価値は絶賛大暴落中なので私は買いませーん。もっと優良物件になってから出直して来てくださいごめんなさい」
「…図書館で騒ぐなよ」