休み時間。それは、教室という名の閉鎖空間において、最も過酷なサバイバルが行われる時間帯だ。
一学期も数日が過ぎれば、クラスのヒエラルキーはコンクリートのように固まり始める。俺、比企谷八幡は、そのコンクリートの隙間に生えた雑草のごとき立ち位置で、相変わらず隣の席の観測を続けていた。
「えー、すごーい! 佐藤くんって、そんなに中学のとき足速かったんだぁ」
隣の席から、鼓膜に直接シロップを塗りつけるような甘い声が聞こえてくる。 一色いろは。彼女の周りには、今日も今日とて、鼻の下を限界まで伸ばした男子たちが群がっていた。
ターゲットになっているのは、クラスの目立ちたがり屋グループの筆頭、佐藤とかいう茶髪の男だ。 いろはは、彼が語る「いかに自分が中学の体育祭で無双したか」という、十中八九盛られているであろう自慢話を、身を乗り出して聞いている。
「……いやいや、マジだって! あの時はアンカーで三人抜きっていうか、マジで神がかってたから!」
「ふふ、カッコいいなぁ。私、足速い人って尊敬しちゃうかも。……あ、でも、私なんかが応援に行ったら、緊張して遅くなっちゃうかな?」
出た。伝家の宝刀「誘って待ち」の構え。
自分から「応援したい」というニュアンスを出しつつ、直後に「邪魔かも」と引いて見せることで、相手に「そんなことないよ! 絶対来てよ!」と全力で肯定させる。これで主導権は完全にいろはが握る。
(……職人芸だな)
俺は教科書をパラパラと捲りながら、心の中で感嘆の溜息をついた。 いろはの視線は佐藤を捉えているが、その意識の数パーセントは、周囲で耳をそば立てている他の男子たちにも配分されている。自分に好意的なフォロワーを増やしつつ、特定の男に深入りしすぎない絶妙なバランス感覚。
すると、いろはがふと、こちらに視線を流してきた。 男子たちとの会話を維持したまま、俺にだけ見える角度で、ほんの少し、面倒くさそうに口角を下げてみせる。
「(……ねえ、何見てるの?)」
声には出さない。だが、その瞳は明らかにそう語っていた。
俺が彼女の演劇を特等席で「鑑賞」していることに、彼女は気づいている。そして、それを楽しんでいる節すらある。実に性格が悪い。
「比企谷、いるか」
突如、教室の前門が乱暴に開かれた。現れたのは、白衣を羽織り、いかにも「不機嫌です」と言わんばかりの美貌を携えた女性――平塚静。
彼女の登場に、いろはを取り囲んでいた男子たちが一斉に蜘蛛の子を散らすように自分の席へ戻る。いろはもまた、一瞬で「真面目で大人しい新入生」の仮面を被り、姿勢を正した。
「……平塚先生。何か御用ですか」
「ああ。貴様の書いた作文、あれは何だ。……ちょっと面を貸せ。生徒指導室まで来い」
平塚先生の低い声に、クラスの視線が俺に突き刺さる。「なんだ? さっそく問題起こしたのか?」という好奇と蔑みの入り混じった空気。俺は嘲笑と、わずかな憐憫を含むいろはの視線を無視して、椅子を引いた。
生徒指導室。 窓の外から聞こえるテニス部の掛け声が、室内の重苦しい沈黙を強調していた。 平塚先生は机の上に、俺が提出した『中学生活を振り返って』という題の作文を放り出した。
「比企谷。貴様、一年間の療養期間に、脳みそまで腐らせてきたわけではあるまいな?」
「……失礼ですね。これでも現代文の偏差値だけは高いんですよ」
「黙れ。この内容のどこが『振り返り』だ。『リア充爆発しろ』という一言を、三千字かけて婉曲に表現しただけではないか。一年遅れで、心機一転頑張ろうという気概が微塵も感じられん」
平塚先生は深く溜息をつき、俺をまっすぐに見据えた。
「……一年前の事故のことは聞いている。雪ノ下のことも、由比ヶ浜のこともな。貴様がこの一年、どれほど不自由な思いをしてきたかは想像に難くない。だからこそ、私は貴様に、普通の、健全な高校生活を送ってほしいのだ」
「先生。それは余計なお世話ですよ」
俺は、無機質な壁を見つめながら答えた。 そう、社会復帰プログラムなど余計なのだ。
「事故はただのきっかけです。俺がぼっちなのも、捻くれているのも、元からの仕様なんですよ。仕様変更には莫大なコストがかかりますし、そもそもアップデートの予定もありません。」
「……本気で言っているのか?」
「ええ。クラスの連中を見てくださいよ。あの一色とかいう女子を筆頭に、誰もが自分を偽って、他人の顔色を窺って、中身のない会話を積み上げている。あんな不毛な儀式に参加するのが『健全』だと言うなら、俺は一生不健全で結構です。」
俺の言葉に、平塚先生の目が鋭く光った。それは怒りというよりは、深い懸念の色だった。
「……比企谷。お前のその怠慢と傲慢は、お前自身を、そしてお前の周りにいるはずだった人間を、ひどく傷つける刃だ。その刃を鞘に収める方法を、お前は学ばなければならない」
「鞘なんて持ってませんよ。剥き出しのまま、誰も近づかせない。それが俺の生存戦略です」
「ふん。……いいだろう。貴様のような屁理屈野郎には、言葉で説得するのは時間の無駄だ」
平塚先生はガバと立ち上がり、俺の腕を掴んだ。
「な、なんですか、先生。強制連行はコンプライアンス的に……」
「黙ってついてこい。貴様のその腐った根性を、真っ向から否定してくれる奴に会わせてやる。」
平塚先生に引きずられるようにして、俺は一階下の、人影のまばらな特別棟へと向かわされた。 そこには、俺が一年前に失った「日常」の、その先にあるはずだった景色が待っているとは、その時の俺はまだ思いもしなかった。
先生の足が、ある部室の前で止まる。 表札には、墨で書かれたような無機質な文字。
『奉仕部』
「……さあ、比企谷。ここが貴様の新しい『戦場』だ」
平塚先生が、容赦なくその扉に手をかけた。