放課後の喧騒の中、自席で頬杖をつき、俺は一人、思考の海に沈んでいた。
昨日の図書館。一色いろは。 彼女は俺を「理解者」と呼び、俺の孤独に寄り添ってきた。
かつて俺が彼女に差し出したのは、救いなどではない。ただの、同じ穴のムジナとしての義務だ。俺は彼女のあざとさを利用し、彼女は俺の歪みを利用した。それだけの、冷たく乾いた関係のはずだった。
(……だが、計算外だったな)
机の上に置かれた自分の右手を見つめる。一色の指先が触れていたその場所には、もう何の熱も残っていない。なのに、皮膚の奥底がまだ微かに痺れているような錯覚を覚える。一色いろはの意思がどこにあるのかはわからない。
しかし、これが彼女なりの対価なのか。
そんな俺の思考を断ち切るように、制服のポケットの中で、スマホが短く、鋭く震えた。
画面を確認する。心臓が、嫌な予感に締め付けられる。送り主は、雪ノ下雪乃。
『授業が終わったら、すぐに部室に来なさい。……あなたの「やり方」について、一度きちんと話す必要があるわ。』
簡潔で、逃げ場のない宣告。自分を悪役にしてコミュニティを繋ぎ止めるという自傷行為に対し、彼女はついに、奉仕部の部長として、そして一人の人間として、明確な審判を下そうとしている。
「…………」
俺は鞄を掴み、立ち上がった。今の俺にはこの教室に留まり対策を練る余裕すらなかった。
教室内を横切り、出口へと向かう。その途中、俺の視界の端に、一筋の影が映り込んだ。
一色いろはだ。彼女は、会話を途切れさせることなく、けれどその瞳だけは、横目でじっと俺を射抜いていた。彼女の瞳には、昨日のような真摯さはなかった。
唇が、声を出さずに微かに動いた。何を言おうとしたのかはわからない。
俺は彼女の視線を振り切るようにして、教室を飛び出した。特別棟へと続く連絡通路。
冬の残滓のような冷たい空気が、肺を切り刻む。雪ノ下が俺を呼んでいる。俺のやり方を、彼女の正義で裁くために。
奉仕部の部室の扉の前に立った時、俺はかつてないほどの恐怖を覚えた。
ここを開ければ、俺の合理性は、彼女の言葉によって木っ端微塵に砕かれるだろう。けれど、俺は止まれない。分が悪くとも、比企谷八幡を肯定しなければならない。俺は、指先に力を込め、部室の扉を静かに、けれど決然と引いた。
奉仕部部室。扉を開けた先に待っていたのは、静謐を通り越して死滅したような空間だった。西日が窓から差し込み、床に長い、鋭利な影を落としている。その影の先に、雪ノ下雪乃が座っていた。
彼女は本を読んでいたわけではない。ただ、淹れてから随分と時間が経っただろう冷めたティーカップを前に、彫像のように動かず俺を待っていた。
「……来たわね、比企谷君」
雪ノ下の声は、以前のような冷徹な響きを帯びながらも、どこか湿り気を帯びていた。それは拒絶というよりは、やり場のない痛みを押し殺しているような、そんな響きだ。
「……メッセージ、見たからな。逃げるなと言われれば、這い寄るしかないだろ」
俺はいつもの皮肉を口にしながら、自分の定位置である彼女から最も離れたパイプ椅子に腰を下ろした。この数メートルという距離が、今の俺たちにとっては、もはや埋めることのできない世界の果てのように感じられる。
「比企谷君。……あなたの『解決法』について、ずっと考えていたわ」
雪ノ下はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、以前のように俺を裁くための剣ではない。むしろ、迷い子の行く末を案じるような、ひどく揺れた光を宿していた。
「あなたは、葉山君たちのグループを守るために、自分自身を怪物に仕立て上げた。共通の敵を作ることで、彼らの内部の腐敗を隠蔽し、偽りの団結を与えた」
「…………」
「……そうね、効率的だわ。誰もがやりたがらない汚れ仕事を、たった一人で、完璧にこなしてみせた。……それについては、認めざるを得ないわ」
「……光栄だな。雪ノ下雪乃に認められるなんて、一年前の事故で死にかけて、死後の世界にでも迷い込んだかと思ったよ」
最大限の反撃を込めた俺の言葉を、雪ノ下は静かに遮った。
「いいえ。……認めると言ったのは、その効率性だけよ。……あなたの在り方については、私は一分たりとも、肯定したくない。……いえ、できないわ」
彼女は、まるで自分自身に言い聞かせるように、言葉を選びながら話し始めた。
「比企谷君。今のあなたは、まるで傷口を放置して、その上からナイフでえぐっているようなものだわ。」
「……あなたは、自分が傷つくことで世界の摩擦を減らそうとしているけれど、それは……それは解決ではないのよ。」
雪ノ下の口調は、いつもの毒舌を失っていた。代わりにそこにあるのは経験したことのない役割、不器用なカウンセラーだった。
「……あなたがそうやって自分を切り刻むたびに、それを見ている人間がどれほど不快で……どれほど悲しい思いをするか、あなたは考えたことはないのかしら。……少なくとも私は、そんなあなたの姿を見たくないのよ」
「…………」
その言葉は、正論だった。あまりに正しく、あまりに高潔で、そして俺のような泥沼に浸かった人間には、あまりに眩しすぎた。
俺は、彼女の優しさが怖かった。雪ノ下雪乃は、氷のように冷たく、刃のように鋭いからこそ、俺は彼女の側にいることができたのだ。互いに寄り添わず、互いに理解せず、ただ「正しさ」という一点において共鳴する。それが俺たちの、最も美しい関係性だったはずだ。
今の彼女が向けてくる、この不器用な温かさ。それは、俺がこれまで必死に積み上げてきたものを根底から腐らせる、湿気に他ならない。
俺は、彼女を元の場所へ引き戻さなければならなかった。俺を否定し、俺を蔑み、俺を「間違っている」と断罪する、あの気高い雪ノ下雪乃へ。
「……へえ。雪ノ下先生による、無料の人生相談か。随分と出世したもんだな」
俺はわざとらしく、唇を歪めて笑ってみせた。
「自分を削るのが悲しい? 笑わせるなよ。お前にとっての美学に反するからといって、俺の最適解を否定する権利がどこにある。お前が言っているのは、ただの『感情論』だ。雪ノ下雪乃ともあろうお方が、論理を捨ててお気持ち表明か? ……随分と、一年前の事故の後遺症がひどいようだな」
俺の言葉に、雪ノ下の眉がピクリと跳ねた。彼女の瞳に、かすかな怒りの火が灯る。俺はそれを、どこかで待ち望んでいた。どこまで行っても馴染めない。歪でもいいから、俺という存在を認識してほしい。そんな気持ちがないとは言い切れない。
「……私の言葉が、そんな風にしか聞こえないのね。……あなたは、そうやって自分を嘲笑うことでしか、自分を守れないの? 比企谷君、あなたのその態度は、弱者の、それも最も卑怯な部類だわ」
「卑怯で結構だ。……いいか、雪ノ下。お前は『誰も傷つかない正解』なんて幻想を抱いているかもしれないが、現実ってのは、誰かがババを引かなきゃ回らないんだよ」
「…………」
「……葉山が正義のヒーローでいたいなら、誰かがヴィランをやらなきゃならない。俺は、その役割に適任だった。それだけの話だ。それを、横からお上品な道徳を振り回して汚さないでくれ」
俺の皮肉は、より鋭く、より深く彼女を突き刺す。雪ノ下は拳を握りしめ、その美しい顔を、激しい不快感と使命感に染め上げた。
「……汚しているのは、あなたの方よ! あなたは、自分が救おうとした世界を、自分のやり方で踏みにじっていることに気づかないの? そんなものは、奉仕ではない。あなたが救われていなければ、意味はないの!」
「はっ。……お前の言う『奉仕』ってのは、弱者にパンを分け与えて、自分が高みにいることを再確認する行為だろ? 俺のやり方は、泥を被ることだ。お前みたいな温室育ちの雪の精霊には、一生理解できない、汚い現実だよ」
火花が散るような視線の応酬。雪ノ下雪乃の苦しみに満ちた顔。俺は詭弁でしか、彼女と向き合えない。この口からは誰かを救う言葉など出てこない。
沈黙が、再び部室を支配する。だが、それは先ほどまでの死滅した沈黙ではなかった。互いの言葉という名の剣が、空中で交差したまま静止しているような、剥き出しの戦場だった。
夕焼けが、完全に藍色の闇に飲み込まれようとしていたその時。 ガラッ! と、乱暴に部室の扉が開け放たれた。
そこには、白衣を翻し、タバコの煙を僅かに纏ったまま、不敵な笑みを浮かべる平塚静が立っていた。彼女の存在感は、部室の沈滞した空気を一瞬で吹き飛ばすほどの熱量を持っていた。
「……なんだ。お前ら、また仲良く口論していたのか。相変わらずだな」
平塚は、俺と雪ノ下の間に流れる一触即発の気配など、まるで気にする様子もなく土足で踏み込んできた。
「平塚先生……。ノックくらいしたらどうですか。……今の私たちは、部外者の介入を必要としてません」
雪ノ下が、まだ収まらない怒りを隠そうともせず、不満げに言った。
「部外者、か。……まあ、そう言うな。……雪ノ下。そして比企谷」
平塚は、ポケットから一通の書類を取り出し、中央のテーブルに叩きつけた。
「……二年生の事件。そして、そこに至るまでのお前たちの関係。……見ていて思ったんだがな。……この奉仕部は、少々純粋すぎる」
「……何が言いたいんですか、平塚先生」
俺が問いかけると、平塚は俺の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、強引で、けれど深い威厳に満ちた光があった。
「比企谷。お前は独りで泥を被ることで問題を終わらせようとする。雪ノ下。お前は正論で世界を律しようとする。……お前たち二人だけでは、いずれどちらかが折れるか、共倒れになるのが目に見えている」
平塚は、ニヤリと唇を吊り上げた。
「だから、劇薬を投入することにした。……奉仕部に、もう一人部員を入れる。お前たちの関係を、強引にでも動かすためのな」
「……部員? ……そんな、勝手な……」
雪ノ下が絶句する中で、平塚は扉の外に向かって声をかけた。
「おい、入ってこい。……今日からここがお前の居場所だ」
俺と雪ノ下の視線が、扉の向こうに釘付けになる。現れたのは、部外者。俺たちの、二人だけの世界を、根本から破壊し、そして再構築するための「毒」であり「薬」でもある、新たな存在。
その影が、部室の閾を越えた瞬間。俺の、そして雪ノ下雪乃の物語は、取り返しのつかない転換点を迎えることになる気がした。