平塚静という名の嵐が去った後の部室はひどく落ち着かない熱を帯びていた。雪ノ下雪乃はノートの余白にまだ何か書き足りないことがあるかのように、ペンを小刻みに動かしている。その横顔は、いつになく真剣だった。
「材木座の作品をまじめに読んでも、SAN値が削られるだけだ。文法チェックだけにしとけ」
俺はその張り詰めたような顔を見ていられず、思わず口を挟んだ。その軽口に雪ノ下は少しだけ頬を緩め、いつもの調子に戻った様子を見せる。
「…そのSAN値というのがよくわからないのだけれど。確かに何かを削り取られている感覚はあるわ」
「SAN値は大事にしとけよ。低いと発狂するぞ」
発狂する雪ノ下雪乃。しかし不思議と見てみたいと思う俺がいる。彼女はその正しさを失った時にどのような行動を見せ、どんな言葉を俺に向けるのか。
「確かにこの文章を読み続ける拷問があれば、そうなっているのかしら」
「ああ、俺なんか日々SAN値が削られすぎて狂気の中に生きてる。もはや正気なんじゃないかとも思うほどだ」
そう、おそらく俺は正気ではない。「青春」を受け取るには、この器は少しばかり歪すぎる。それは1年前の事故がなくても変わらないはずの、比企谷八幡の運命。
「あら、自覚的だったのね。…いえ、この場合は自覚的だからこそ、たちが悪いというべきかしら」
意味のない会話。しかし俺は奉仕部に流れる空気が少し弛緩したことに安堵していた。
だが、雪ノ下にとっては本題への前置きに過ぎなかったらしい。
「……比企谷君。先ほどの話の続きだけれど」
ふいに雪ノ下が顔を上げた。その瞳には、迷いを断ち切った者特有の鋭い光がある。
その光に少したじろぎかけるが、思考を取り戻す。
由比ヶ浜結衣。俺が事故の呪縛から「解放」した少女。俺は別に彼女を疎ましく思っているわけではない。彼女の優しさはおそらく無償のものであり、何ら非はない。そればかりか俺を見てくれる、居場所になってくれる稀有な存在。ただ、俺は優しさを受け取る準備ができなかった。そのことは悔いている。
彼女が奉仕部に戻ることは、俺にとってどうなのか。今ならその優しさを受け取れるのかという疑念が脳を駆け巡る。答えは否だ。しかし、おそらく「比企谷八幡」にとって由比ヶ浜結衣は必要なのだろうとも思う。
答えは出ない。だがせめて彼女の覚悟を受け止めるために背筋を正し傾注する。
「由比ヶ浜さんを呼び戻す件よ。……私は、彼女へのアプローチとして、プレゼントを贈るのが最適だと判断したわ」
俺は耳を疑った。雪ノ下雪乃がプレゼントを贈るという光景がどうしてもイメージできない。自分でも失礼なことを考えている自覚はあるが、彼女がまっとうな友情を築けるたちだとは思えない。お中元ならまだ理解できるが。
眉をひそめながら、恐る恐る尋ねてみる。
「プレゼント? ……お前、そういうのって一番苦手そうな分野だろ」
雪ノ下は共感を得られると思っていたのだろうか、俺の不服そうな顔に心外といった仏頂面を見せる。この堅物が健気にプレゼントを探し回っている構図は、想像に難い。
「失礼ね。私だって、相手を喜ばせたいという動機が正当であれば、相応の努力は惜しまないわ。……幸い、もうすぐ彼女の誕生日のはずよ」
悪くない策ではあるだろう。プレゼントはその行為自体で、相手からの好感を得られる。
しかし、誕生日か。
「ソースは?」
正直、雪ノ下雪乃が由比ヶ浜結衣の誕生日を知っているという事実に驚きを隠せなかった。俺の知らない雪ノ下雪乃の一面を見れた気がして、定義しがたい感情が生まれた。
懐かない飼い猫が、家の外では他の猫とじゃれているかのような。
「彼女のアドレスにも書いてあるわ」
「…」
彼女は胸を張り、確信に満ちた口調で言った。前言撤回。俺の記憶にある彼女の誕生日はもっと先だったような気がする。…なぜそんな得意げな顔ができるんだ。
……まあいい、ここでそれを指摘して、雪ノ下のやる気を削ぐ必要もない。何より、部員補充のために由比ヶ浜がこの場所に戻ってくるきっかけになるなら、多少の勘違いには目を瞑るべきだろう。
「……で、なんでそれを俺に報告するんだ。勝手に買ってきて渡せばいいだろ。俺はアイツには顔を合わせづらいんだよ」
由比ヶ浜を奉仕部に戻すためには、比企谷八幡は異物にしかならない。雪ノ下との友好関係でアプローチすべきだ。しかし、雪ノ下は深刻なことがあるように神妙な表情を浮かべる。
「一緒に行くに決まっているでしょう? 私一人では、どうしても私の好みに偏ってしまうわ。……異性の、それもあなたのような偏屈な人間の視点が必要なのよ。由比ヶ浜さんが、万が一にでも『比企谷君が選んだもの』だと知れば、その心理的ハードルは劇的に下がるはずだわ」
同性へのプレゼントに異性は必要ないと思うんだが。確かに追い出される形となった由比ヶ浜へ、比企谷八幡が敵意を持っていないことを証明するのは王道だ。しかし問題はそのプロセス。
「……地獄かよ。俺が女子と二人でショッピングモールを彷徨うなんて、周囲から見れば不審者と連行される被害者の構図にしか見えないぞ。公開処刑だろ、そんなの」
「…」
「大体、お前はいいのかよ。ないとは思うが、嫌われ者の俺の隣を歩くなんてのは変な噂を呼ぶことになるだけだぞ。雪ノ下雪乃様のブランドに傷がつく」
俺が心底嫌そうに顔を歪めると、雪ノ下はペンを置き、ゆっくりと椅子から立ち上がった。彼女の歩みは静かだが、有無を言わせぬ圧迫感がある。
「そんなことはどうでもいいのよ。……あなたがそうやって逃げ腰でいることが、事態をより複雑にしていることに気づきなさい。……これは私一人で完遂すべきことではないの。あなたと、私。二人で彼女を迎え入れるための準備なのよ」
彼女の瞳には、一色いろはが向けてくる「打算」とは正反対の、硬く、冷たく、けれど真っ直ぐな意志が宿っていた。雪ノ下の手が、俺の制服の袖を僅かに掴む。その指先に込められた力は、拒絶を許さないほどに強かった。その瞳は、まっすぐ俺を捉えて離さない。
「私と、一緒に行ってほしいの」
「…………わかったよ。行けばいいんだろ」
俺が投げやりな溜息とともに承諾すると、雪ノ下は満足げに唇を綻ばせた。……ほんの一瞬、氷が解けるようなその微笑みに、俺の心臓が不必要な鼓動を打った。