翌日の放課後。俺は教室で、自分の席の隣に座る人物の動向を窺っていた。彼女は今、クラスメイトと楽しげに談笑している。その姿は、昨日図書館で見せたあの剥き出しの孤独など影も形もない、完璧な「一色いろは」だった。
(……黙って行けば、バレないよな)
俺は音を立てずに鞄を手に取り、教室を抜け出そうとした。だが。
「……あ、比企谷くーん? 今日、これから何か用事ですか? せっかく私が、新作のスタバの感想を共有してあげようと思ったのに」
彼女は談笑を止めることなく、けれどその瞳だけをこちらに向けて声をかけてきた。そのタイミングは、まるで俺の動きを予見していたかのようだった。
「……ちょっと、特別棟の方に用事があるだけだ。一色こそ、部活はどうしたんだよ」
必要のないごまかし、本当は雪ノ下とショッピングモールへ行く。しかしなぜか言い出せなかった。言う必要がないという論理武装だけが、その躊躇いを肯定する。
「マネージャーの仕事は終わらせましたー。……ふーん、部室ですか。雪ノ下先輩、まだ比企谷くんのことを捕まえてるんですねー。大変ですね、不自由で」
いろははクスクスと笑ったが、その瞳の奥には底の見えない温度の低い光が宿っていた。
「……じゃあ、また明日です。比企谷くん」
俺は彼女の視線から逃げるように教室を出た。廊下を歩きながら、俺は一色の言葉の裏にある棘を感じていた。俺が雪ノ下のもとへ向かうことは、単なる部活動以上の意味を持ってしまっているのではないか。
千葉駅。学校から電車に揺られ、俺たちが降り立ったのは、喧騒と活気に満ちたショッピングモールの前だった。隣を歩く雪ノ下雪乃は、私服姿ではなく制服のままだったが、その整った容姿ゆえに、雑踏の中でも異様なほどに浮き立って見える。
「……まずは、アクセサリーショップから見て回りましょう。由比ヶ浜さんのような華やかなタイプには、相応の輝きが必要だわ」
「……お前、本気で言ってるのか? 由比ヶ浜にアクセサリーなんて贈ったら、アイツ、重すぎて沈下するぞ」
「そうかしら。……友情の証として、形に残るものを贈るのは合理的な選択のはずよ。……ほら、行くわよ」
雪ノ下は迷いのない足取りで、巨大なモールの入り口へと踏み込んでいく。俺はその背中を追いながら、自分が今、決定的な境界線を越えてしまったような感覚に陥っていた。
放課後のショッピングモール。女子と二人。一年前、俺が高望みと切り捨てたはずの「普通の高校生活」。それが、事故によって歪められ、留年というレッテルを貼られた今、こんな形で実現している。
雪ノ下の声に、俺は足を進める。この場所で一体何を取り戻すことができるのか。俺たちの不器用な買い出しは、まだ始まったばかりだった。
千葉が世界に誇る巨大ショッピングモールは、平日夕方という中途半端な時間帯にもかかわらず、狂気すら感じる熱気で溢れかえっていた。まあ当社調べではあるが。
視界に入るのは、お洒落に余念がないリア充ども、騒がしい家族連れ、そして無駄に光り輝くショーウィンドウ。俺のような不気味な留年生が紛れ込むには、いささか毒気が強すぎる空間だ。
「……比企谷君、何をさっきから不審者のようにキョロキョロしているのかしら。挙動が完全に万引き犯のそれだわ。せめて人間らしい歩き方をしなさい」
隣を歩く雪ノ下雪乃が、溜息混じりに毒を吐く。制服姿の彼女は、周囲の喧騒を寄せ付けない凛とした空気を纏っており、それが余計に目立っていた。道ゆく奴らが「え、あの二人……?」という、明らかなミスマッチを指摘するような視線を投げかけてくるのが痛い。
「……悪かったな。俺にとってここはダンジョンなんだよ。不意打ちでクラスメイトに遭遇したら、俺の社会的な死が確定するからな」
「自意識過剰だわ。誰も他人のことなんて見ていないし、あなたの社会的地位は既に底を打っているはずよ」
「はいはい、俺は二酸化炭素ですよ」
軽快で無意味なやり取りをしながら、俺たちは一軒の雑貨屋へ足を踏み入れた。雪ノ下は「由比ヶ浜さんに相応しいものを」と息巻いていたが、彼女が手に取るのは「猫のシルエットが描かれた革製のブックカバー」や「落ち着いた色合いのティーカップ」といった、完全に雪ノ下本人の趣味全開なアイテムばかりだった。
「おい、雪ノ下。……それ、お前が欲しいだけだろ。アイツが革の経年変化を楽しんでいる姿なんて、一ミリも想像できないぞ」
「……っ。そ、そんなことはないわ。実用性を重んじるのは贈り物の基本でしょう? それにこの猫の曲線美は、彼女の柔らかな雰囲気に……」
「いや、猫が好きすぎるだろお前。もっとこう……キラキラしたやつとか、ふわふわしたやつにしろよ。女子高生だぞアイツは」
雪ノ下とあーだこーだと言い合いながら、不器用に棚を物色する。俺と雪ノ下雪乃が、女子のプレゼントを選ぶために肩を並べて悩む。
一年前、事故に遭う前の俺が見れば「どこのラブコメだよ死ねよ」と呪詛を吐いていたであろう光景だ。だが、その不器用な時間は、俺にとってどこか奇妙な安堵感をもたらしていた。雪ノ下との間にあるのは、正解のない問いを解き続けるような、心地よい緊張感。
だがその「平穏」は聞き慣れた、けれど今は最も聞きたくない声によって無残に粉砕された。
「……あ。やっぱり比企谷くんだ」
心臓が、嫌な跳ね方をした。恐る恐る振り返ると、そこには流行りのカーディガンを羽織った女子。数人の友人たちといたであろう「一色いろは」が立っていた。
彼女は片手にスタバのカップを持ち、首をかしげてこちらを見ている。その顔には、いつものあざといお願いモードの笑顔はない。むしろ、冷めたスープを眺めるような、どこか冷ややかな、けれど不快感を隠しきれていない奇妙な表情だった。
「……よ、一色。奇遇だな」
「奇遇、ですか。……ふーん。……へぇ。……そうなんだぁ」
彼女は、俺の隣に立つ雪ノ下を、つま先から頭のてっぺんまでスキャンするように凝視した。彼女の内面では今、猛烈な勢いで電卓を叩いた。だが、その計算結果は想定外だったらしい。
瞳の奥に、冷たい炎が灯された気がした。
「……比企谷くん。特別棟に用事があるって言ってませんでしたっけ? これ、どう見てもデートですよね? 自分の立ち位置わきまえてくださいって言ったの、もう忘れちゃったんですか?」
いろはが、一歩詰め寄ってくる。その声は低く、そして笑っていない。
「いや、これは由比ヶ浜のプレゼントを……」
「わぁ、あざとーい! 『友達のプレゼント選び』っていう名目でのデートですか! 比企谷くん、留年して人生経験豊富だからって、そういうテクニックだけは一丁前なんですね。……ひくわー、マジでないわー」
一色いろはの声は俺を嘲るようでいて、制御を失った感情をそのままぶつけてくるものだった。
「……一色さん。あなたの言動は、甚だしく誤解を招くものだわ。私たちは今、部活動の一環として――」
雪ノ下が冷静に反論しようとしたが、いろははそれを遮るように冷笑を浮かべた。
「部活動ー? 放課後に二人でお買い物するのが部活動なら、私、比企谷くんと部活動しなきゃいけないじゃないですか。……ねぇ、比企谷くん。私、今すっごい気分悪いんですけど。どう責任取ってくれるんですか?」
彼女の冷たい声音が、静かな店内に不気味に響く。その瞳は、獲物の虫を狙う小動物のような鋭さを帯びている。
一色いろはの乱入により、事態は暗転し始めた。