一色いろはの放った「ひくわー、マジでないわー」という重く冷たい言葉が、雑貨屋の空気を凍てつかせていた。
彼女の瞳は、笑っていない。俺の隣に立つ雪ノ下雪乃という絶対的正義を前にしても、彼女は自分の領域を侵された小動物のような獰猛さを漂わせている。
「……一色さん、あなたの言い方は、あまりに短絡的で品性を欠いているわ」
雪ノ下が、一歩前へ出る。その立ち姿は凛として美しいが、俺はその背中が微かに強張っているのを見逃さなかった。彼女は、一色いろはのような「論理の外側にいる感情」で殴りかかってくるタイプを苦手とするようだ。
「品性ー? そんなの、比企谷くんと二人でお買い物してる先輩に言われたくないですよぉ。ねぇ、比企谷くん。これ、何かの罰ゲームですか? それとも、ついに年上の魅力に屈しちゃいました?」
「いや、年同じだし……」
俺が言い淀んだ、その瞬間だった。
「――あら、なんだか賑やかじゃない。雪乃ちゃん、こんなところで何してるの?」
背筋を電流が走り抜けるような、艶やかな声。振り返るまでもない。この、心臓の奥を直接素手で撫でまわされるような不快感と高揚感の混じり合った気配。怪物が、そこに立っていた。
「……姉さん」
雪ノ下の声が、一オクターブ低くなる。陽乃さんは、モデルのような足取りで俺たちの中心に割り込むと、万華鏡のようにくるくると表情を変えながら、俺、雪ノ下雪乃、そして一色いろはを順に眺め回した。
「ふーん……。比企谷くんと雪乃ちゃん。それに、そっちの可愛い子は一年生かな? 面白いね、この組み合わせ」
陽乃さんの目が、細められる。それは獲物を解剖する学者のような残酷な好奇心に満ちた目だった。
「比企谷くん、君って本当に罪作りだよね。雪乃ちゃんに責任を感じさせて縛り付けておきながら、こっちの新しい子にも手を出すなんて。……わざと歪な形に積み上げた積み木を見てるみたい」
陽乃さんは、一色いろはの隣に並び、彼女の肩にひょいと手を置いた。
「この子、いい目をしてる。比企谷くんを『自分の一部』だと思い込もうとしてる。傲慢さが堪らないわ。……ねぇ、雪乃ちゃん。勝てるかしら?」
「姉さん、勝手なことを言わないで……!」
雪ノ下の拒絶を、陽乃さんは鈴を転がすような笑い声で受け流した。
「いいじゃない。最高に面白い喜劇だわ。じゃ、お邪魔虫は去ることにするね。……比企谷くん、精々壊さないように頑張ってね?」
陽乃さんは、嵐のように現れ、意味深な一言だけを全員の胸に突き刺して去っていった。その去り際、俺と視線が合った瞬間の彼女の瞳は、すべてを見透かした上で「期待しているわよ」と囁いているようだった。
沈黙が降りる。陽乃さんの介入により、場は決定的に冷え切っていた。一色いろはは、陽乃さんに置かれていた肩を払うと、フンと鼻を鳴らした。
「……なんか、変な人に絡まれちゃいましたね。雪ノ下先輩の親戚ですか? 怖すぎなんですけど」
彼女は、手に持っていたカップをゴミ箱へ放り捨てると、俺たちのカゴの中にある「雪ノ下セレクトの猫グッズ」を指差した。
「それ、だれかにあげるつもりなら、絶対やめたほうがいいですよ。……あ、もう用事ありますから、私行きますね」
彼女はくるりと背を向けた。だが、そのまま立ち去るかと思いきや、立ち止まって首だけを振り返る。
「……比企谷くん、あっちの二軒隣にあるセレクトショップの『香りのいいハンドクリームのセット』にしなさい。……今の女子高生は、重い形に残るものより、ちょっといい消耗品のほうが『わかってる感』が出て喜ぶんですから」
一色いろはは、雪ノ下には逆立ちしても選べないであろう解答を言い放った。それは、彼女なりの意地だったのだろう。
「じゃ、明日。遅刻しないでくださいね。プリント、配るのめんどくさいんですから」
一度もこちらを見ることなく、人混みの中に消えていった。
雑貨屋の中に俺と雪ノ下だけが取り残される。棚の上の商品たちが無機質な照明に照らされて光っている。ペースを乱され、俺たちは判断能力を失っていた。
「……行きましょうか、比企谷君。二軒隣へ」
雪ノ下の声は、ひどく掠れていた。彼女の手にあった猫のぬいぐるみは、既に元の場所に戻されていた。
「……ああ」
俺たちは、ほとんど言葉を交わすことなく店を出た。彼女が教えてくれたハンドクリームのセットを買い、包装されるのを待つ間も、俺たちの間には、先ほどまでの平穏だった時間は戻ってこなかった。
陽乃が指摘した「責任」と「執着」。自分たちが選んだはずのプレゼントを手に、モールの出口へと向かう俺たち。目的を達成したはずの足取りは、夕闇が深まる街の影よりも、ずっと重く、気まずいものになっていた。