同級生一色いろは、留年生比企谷八幡   作:10気筒VTEC

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牽制球

翌朝、一年F組の教室。窓から差し込む朝日は、ショッピングモールで見た、あの不自然なほどに眩しい照明とは対極にある、ありふれた日常の色をしていた。

 

 俺はいつものように、始業チャイムが鳴る数分前に席に着き、誰にともなく視線を泳がせながら、自分の存在を風景に溶け込ませる作業に従事していた。

 

 だが、隣の席が「彼女」である以上、その透明化処理は常に不完全なものとなる。

 

「あ、比企谷くん。おっはよーございます。今日も、絶好のぼっち日和ですね」

 

 背後からかけられたのは、軽快で、どこか弾むような鈴の音に似た声。 一色いろは。  昨日のショッピングモールでの、あの凍りつくような毒舌が幻だったかのように、彼女はそこに立っていた。

 

「……おう。今日も朝からあざといな」

 

「何ですかそれ、褒め言葉として受け取っておきますね? あ、今日の小テスト、範囲ここですよ。比企谷くん、絶対忘れてたでしょ」

 

 いろははクスクスと笑いながら、自分の教科書の端を指差して見せてくる。その態度は、驚くほど「普通」だった。雪ノ下陽乃との接触、雪ノ下雪乃とのつばぜり合いをした彼女が、こうも平然と、何事もなかったかのように振る舞えるはずがない。……はずなのだが。

 

 彼女はそのまま、女子グループの輪に加わり、昨日見たドラマの話や、新しくオープンしたカフェの話に興じ始めた。その輪の中心で華やかに笑う彼女の姿は、完璧に計算された「一色いろは」の仮面そのものだ。

 

 だが、俺の喉の奥には、昨日から続く違和感が澱のように溜まっていた。耐え切れず、雪ノ下陽乃を手掛かりに違和感を解析してしまう。

 

 一色いろはという少女は、打算の塊だ。彼女が俺に近づくのは、俺が彼女のあざとさを看破し、かつそれを受け流す便利な盾であり、なおかつ「自分を裏切らない安全な道具」だからだ。

 

とすると雪ノ下陽乃曰く、その道具が自分の知らないところで、自分より上位の、あるいは全く別のベクトルを持つ雪ノ下雪乃という存在に支配されることが、彼女にとっては面白くない事実として積み重なっているはずだった。

 

 休み時間。男子に囲まれている。彼女は巧みに話題を振り、相手を立て、その場の空気を支配している。その光景をぼんやりと眺めていると、ふいに彼女と目が合った。

 

 一瞬。文字通り、瞬きの合間のような短さで。彼女の瞳から温度が消え、昨日のモールで見せたあの虚無に近い色が、俺の網膜を刺した。

 

(……ああ、なるほど)

 

 俺は、彼女の「普通」の正体を理解した。それは、平静ではない。彼女は今、自分の中に湧き上がっている説明のつかない不快感を、懸命に打算の箱に押し込めているのだ。

 

お気に入りのシャーペンを勝手に誰かに使われたような、あるいは自分だけが知っているはずの秘密の場所を、より立派な権力者に土足で踏み荒らされたような、そんな低俗で、けれど切実な「所有権の侵害」に対する憤りに過ぎない。

 

「……比企谷くん、さっきから私のこと見すぎ。そんなに熱視線送られても、残念ながら比企谷くんは対象外ですからね? ……あ、でも、この前みたいな『お姉さん系』より、私みたいな『可愛い系』の方が、本当は好みだったりします?」

 

 不意に、男子の輪を抜けて戻ってきた彼女が、机に身を乗り出して覗き込んできた。  その距離は、いつものパーソナルスペースよりも、数センチだけ近い。

 

「……別に見てねーよ。プレゼントの助言、感謝してるって言おうとしただけだ」

 

「あ、それ。……結局、雪ノ下先輩は私の言った通りに買ったんですか?」

 

 口角が、僅かに上がる。それは、勝利を確信した時の、あるいは獲物を追い詰めた時の、残酷なまでに美しい笑みだった。

 

「ああ。……お前の言う通り、ハンドクリームにした。雪ノ下も、自分のセンスには限界があるって認めてたよ」

 

「ふーん。……そうなんだぁ。……やっぱり、私の方が、分かってるみたいですね」

 

 一色いろはは、満足げに髪を弄りながら席に座り直した。彼女の不快感は、これで一旦は緩和されたのかもしれない。雪ノ下雪乃という正義の象徴に対し、実利とセンスという自分の領域で勝った、という優越感。

 

「……でも、比企谷くん。一つだけ釘、刺しておきますね」

 

 声が、急に低くなった。周囲の喧騒から切り離された、俺と彼女だけの閉鎖空間が広がったように、俺の意識が狭窄する。

 

「私、利用できないものには興味ないんです。……比企谷くんが、『役に立たない道具』になったら……。その時は、本当に捨てちゃいますから。……いいですね?」

 

 それは、脅迫だった。

 

 俺は、瞳を真っ向から見返した。そこにあるのは、嵐の前の、不気味なほどに凪いだ海のような静寂。これは、最後通牒ではない。ただの関係性の確認作業だ。  

 

「……ああ。お前が俺を利用価値なしと判断するまでは、俺はお前の『便利な隣人』でいてやるよ」

 

「……うん。合格です」

 

 一色いろはは再び、いつものあざとい小悪魔の顔に戻った。だが、俺の背筋には緊張が残っていた。

 

休み時間の喧騒。笑い声を上げるクラスメイトたち。その中で、俺と彼女の間にある静寂だけが、異質な質量を持ってそこに留まっていた。

 

 俺は、カバンの中にある、雪ノ下から預かったままの部室の鍵の重みを感じていた。 放課後になれば、俺は再びあの凍りついた特別棟へと向かわなければならない。由比ヶ浜結衣、彼女を救い出すために。

 

……いや、マッチポンプを行うために。

 

やがてチャイムが鳴り、一色いろはは教科書を開いた。その動作は、どこまでも優雅で、どこまでも計算されていた。

 

「……あ、比企谷くん。今日の放課後、もし雪ノ下先輩に捕まったら、あとでちゃんと報告してくださいね? ……私、比企谷くんが何してたか知らないの、すっごいストレスたまりますから」

 

「……」

 

「……なんて、冗談ですよ。勘違いしました?」

 

 冗談めかしたその言葉が、俺の耳の奥に、消えない残響となって残る。

 俺は小さく溜息をつき、ノートの隅に、意味のない線を書き殴った。

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