放課後の特別棟。古い木造の校舎は独特の静寂に包まれていた。奉仕部の部室の扉の前で、俺は一度だけ深く息を吐き出した。隣に立つ雪ノ下雪乃もまた、心なしかいつもより顔色が白い。彼女の手には、あの日ショッピングモールで一色いろはの助言に従って選び直したハンドクリームの袋が、大切そうに握られている。
「……準備はいいかしら、比企谷君」
「準備も何も、俺はただそこに立ってるだけだぞ。自虐担当としてな」
俺が皮肉交じりに答えると、雪ノ下は小さく唇を噛んだ。彼女にとって、論理で割り切れない感情のほつれを解く作業は、どんな難解な証明よりも困難なものに違いない。
扉を開けると、そこには既に彼女がいた。由比ヶ浜結衣。窓際の席に座り、所在なげに指先を遊ばせていた彼女は、俺たちの姿を見た瞬間に肩を跳ねさせた。
「あ……。ゆきのん、ヒッキー……」
「……来てくれてありがとう、由比ヶ浜さん」
雪ノ下の声は、硬かった。けれど、そこには明確な意志があった。俺たちは彼女を囲むように、それぞれの席に着く。
沈黙が流れる。かつては由比ヶ浜が真っ先に空気を震わせるはずだったこの場所で、今は誰もが言葉の端緒を見失っていた。由比ヶ浜は、視線を俺と雪ノ下の間で泳がせ、やがて困ったような、泣き出しそうな笑みを浮かべた。
「あのね……。あたし。……お買い物してた二人を見て、なんだか、すごく……。邪魔しちゃいけないなって思っちゃったんだ」
「邪魔、とはどういう意味かしら。私たちはあくまで、部活動の延長として――」
「ううん、違うのゆきのん。そうじゃないの」
由比ヶ浜は首を横に振った。その瞳には、彼女なりの優しさと、それゆえの苦しみが滲んでいた。
「二人が並んで歩いてるのを見て、あたし、気づいちゃったんだ。……ヒッキーとゆきのんは、事故のこととか、一年前のこととかじゃない、あたしの知らないところで繋がってるんだって。……二人には、あたしには入れない『特別な時間』があるんだって。
「だから、二人が付き合ってるんだって思ったら、あたしがここにいるのは、なんだか……不自然な気がして」
彼女の言葉が、部室の冷たい空気に溶けていく。由比ヶ浜結衣の優しさ。それは、俺と雪ノ下に対する、彼女なりの敬意であり、退却であり、撤退だった。
俺は、隣で俯く雪ノ下を見た。彼女は、自分の行動が由比ヶ浜に疎外感を与えていたことに、ひどく衝撃を受けているようだった。
(……これだから、お人好しは困るんだよ)
俺は、深く椅子に背を預け、天井を仰いだ。そして、自分でも驚くほど乾いた、自虐に満ちた声を出す。
「……おい、由比ヶ浜。お前、何か盛大な勘違いをしてないか」
「え……?」
「俺みたいな目つきの悪い留年生と、この学校で最も高潔で性格の悪い雪ノ下雪乃が、どうこうなるなんて、天変地異が起きてもあり得ないだろ。……一年前の事故? 責任? そんなもん、こいつにとっては『更生させるべき対象』でしかないんだよ。俺は、こいつの理想を具現化するための実験動物みたいなもんだ」
「比企谷君、あなたの表現は相変わらず卑屈だわ。けれど……」
雪ノ下が、顔を上げた。彼女の瞳には、湿った熱が宿っている。
「由比ヶ浜さん。比企谷君の言う通りよ。私たちが共有しているのは、決してあなたが思うような美しいものではないわ。それは……贖罪であり、未熟さの証明に過ぎないのよ」
雪ノ下は、机の上のハンドクリームの袋を、由比ヶ浜の方へと押し出した。
「これを……。誕生日には少し早かったようだけれど、これをあなたに渡すために、私たちは一緒にいたのよ。異性の視点が必要だという私の我儘で、彼を連れ回しただけ。……あなたがいない部室で、私は、あなたをどう呼び戻すべきか、それだけを考えていたの」
由比ヶ浜の瞳が、大きく見開かれる。彼女は震える手で袋を受け取り、中身のハンドクリームを取り出した。
「……ゆきのん……。これ、あたしのために……?」
「ええ。あなたが使いやすいものを選んだつもりよ。……由比ヶ浜さん、私は、私だけではこの部室を維持できない。あなたの明るさが、あなたの不合理なまでの優しさが、今の私たちには……私には、必要なの」
雪ノ下の声が、最後は消え入るような震えを帯びた。これほどまでに切実な、雪ノ下雪乃の「告白」を、俺は初めて聞いた。彼女は、自らの不完全さを認め、他者の助けを求めている。不器用ながらも、確実な変化。
由比ヶ浜は、ハンドクリームの小さな容器をぎゅっと胸に抱きしめた。そして、零れ落ちた涙を制服の袖で乱暴に拭うと、太陽が昇るような、いつもの、けれど今までで一番眩しい笑顔を見せた。
「……あはは。ゆきのん。……やっぱり大好き」
彼女の明るい声が、部室の澱んだ空気を一瞬で塗り替えていく。
「ゆきのん、ありがとう! あたし、もう逃げないよ。……ヒッキーが留年生でも、ゆきのんがどれだけ真面目すぎても、あたしが真ん中にいれば、きっと大丈夫だもんね!」
「……ええ。……ええ、そうね」
雪ノ下が、安堵したように微笑む。
奉仕部、再始動。 三人の関係性は、以前とは違う、より深いバランスの上に成り立とうとしていた。 俺は、その光景を眺めながら、ふと教室に残してきた「もう一人の少女」のことを思い出した。
一色いろは。彼女が俺に突きつけた打算。一方、不器用でありながらもどこか素直さによって構成されている奉仕部。「比企谷八幡」は、俺はどちらに適応できるのか。
「――ヒッキー、聞いてる? 明日からまた、ちゃんと部室に来なきゃダメなんだからね!」
由比ヶ浜の声に引き戻され、俺は小さく鼻を鳴らした。
「……わかってるよ」
夕焼けが部室をオレンジ色に染め上げていく。三人の奉仕部は、再び動き出した。