由比ヶ浜結衣が奉仕部に正式に復帰してから数日。特別棟の部室に流れる空気は、以前のような張り詰めた氷の檻から、どこか茶の間に近い弛緩した温度へと変わりつつあった。
雪ノ下雪乃が静かにページをめくる音。由比ヶ浜がスマートフォンの画面を眺めながら、時折小さく鼻歌を漏らす気配。そして俺が、材木座から預かったままの「呪いの魔導書」を、検品作業のような無機質な目で読み進める苦痛。この三角形が、今の奉仕部の正解なのだと、俺の身体がようやく理解し始めていた。
そんな、ぬるま湯に浸かったような日常に石を投げ込んだのは、扉を叩く音だった。
「失礼します。――おーい、比企谷。いるんだろ?」
ガラリと開けられた扉の先に立っていたのは、1年F組の同級生、遊戯部の秦野と相模だった。彼らはクラスの中でも上位カーストとは別の、趣味に特化した独自の地位を築いている連中だ。俺にとっては、隣の席の一色いろはとはまた別の意味で今のクラスを意識させる存在である。
「……秦野と相模か。何の用だ」
「いやさ、ちょっと頼みがあって。比企谷、お前って中学の時、結構ゲームやり込んでたって噂、聞いたんだけど」
秦野が、遠慮なく部室に足を踏み入れる。相模もそれに続き、部室を見回して口笛を吹いた。
誰だよ、そんな噂流したの。一色か。交友関係が狭いと犯人特定も早いですね。
「うわ、マジかよ。比企谷、お前クラスじゃあんななのに、放課後はこんな先輩たちに囲まれてんの? 留年生パワーすげぇな」
相模の言葉には、同級生特有の弄りが含まれていた。ただ「一歳年上のクラスメイト」として俺を眺める彼らにとって、俺の今の環境は嫉妬と困惑の対象でしかない。
「……茶化しに来たのなら、帰りなさい。私たちは今、非常に無益な……いえ、多忙な時間を過ごしているのよ」
雪ノ下が本を閉じ、氷点下の視線を彼らに向ける。その威圧感に、秦野たちは一瞬たじろいだが、そこは若さゆえの図太さか、すぐに体勢を立て直した。
「い、いや、雪ノ下先輩! 相談っていうのは、俺たちが部活で作ってる自作ゲームのデバッグについてなんです。ベータ版ができたんですけど、人手が足りなくて……。比企谷なら、こういう『延々と壁を殴り続ける作業』、向いてるかなって」
「……お前ら、俺のことを何だと思ってるんだ」
「え? 『無敵の精神を持つ、クラスの浮遊物』?」
秦野の即答に、俺は思わず天を仰いだ。同級生からの評価は、隣の一色いろはの「便利なお隣さん」に比べさらに格下げされている。
「比企谷くん。デバックとは何を指すの」
「まあ、実際にゲームをやってみてエラーを見つけて修正する作業だな。つまり俺たちは、プレイしてみておかしいところをチェックすればいい」
雪ノ下が、少しだけ楽しそうにこちらを見た。彼女にとって、俺が「同級生」に振り回されている姿は、案外珍しい見世物なのかもしれない。
「……では、彼らの言い草は甚だしく失礼だけれど、依頼自体は奉仕部の活動として成立するわね。……どうかしら、比企谷君。あなたが苦行に耐えられるというのなら、受けてあげてもいいけれど」
「……好きにしろよ。材木座の汚物を読むよりは、バグを探すほうがまだ生産的だ」
「決まりね。……秦野君、相模君。その依頼、奉仕部として引き受けるわ。ただし、デバッグの過程であなたのたちのプログラミングの稚拙さが露呈しても、私は一切容赦しないけれど、いいかしら?」
「え、ええ……。よろしくお願いします!」
彼らが記録メディアを置いて去っていった後、部室には再び三人の沈黙が降りた。
「……ヒッキー。あの子たち、同じクラスなんだよね?」
由比ヶ浜が心配そうに覗き込んでくる。彼女は、俺が「留年生」として1年生の輪の中でどう浮いているか、その危うい立ち位置を敏感に察していた。
「いいんだよ。アイツらにとって俺は、一歳年上の、なんだかよく分からない生徒だ。……なら、その生徒を使ってゲームが完成するなら、それでいいだろ」
「……その、どこまでも自分を部品として扱う態度は、いつか直させる必要があるわね。……けれど、まずはこのバグだらけの迷宮を、私たちが整理してあげましょう」
雪ノ下と由比ヶ浜が、慣れない手つきでゲーム画面の設定資料を読み込み始める。
俺はノートパソコンを立ち上げ、同級生たちが作った粗削りなプログラムの迷宮へと足を踏み入れた。キャラクターが不自然に壁を突き抜ける。フラグが狂って、進むべき道が閉ざされる。それはまるで、俺自身の歪んだ、一年の空白を抱えた高校生活そのもののようだった。
「……比企谷君。ここ、あなたのキャラがずっと壁に向かって歩き続けているわ。……まるで、どこにも辿り着けないあなたの人生のメタファーのようね」
「……うるせーよ。それはスタックって言うんだ。……ったく、同級生の尻ぬぐいをさせられる身にもなってくれ」
俺が毒を吐きながらキーボードを叩くと、雪ノ下がふっと口角を上げた。
「……そうね。けれど、あなたが同級生に頼られているという事実は、案外、悪くない光景だわ」
雪ノ下のその言葉に、俺は指を止めた。窓の外では、夕闇が校庭を飲み込もうとしていた。部室の中に灯る、白い蛍光灯。この空間は、ひどく純粋で、閉鎖的な安らぎに満ちている。 そう、案外、悪くない。
俺は再び、画面へと向き直った。