特別棟の部室に、夕方の柔らかな陽光が斜めに差し込んでいた。窓際では、雪ノ下雪乃がティーカップを静かに置き、膝の上で開いた文庫本に目を落としている。
その対面では、由比ヶ浜結衣が「これ、難しいよー」と零しながら、遊戯部から預かったデバッグ用のノートパソコンと格闘していた。そして俺は文庫本を手に取り、文字列を眺めていた。
一度は崩壊しかけた三角形。けれど、由比ヶ浜が正式に復帰してからの奉仕部は、まるで最初からそうであったかのような、穏やかな静寂を保っていた。
「……ねぇ、ヒッキー。このキャラクター、ずっとジャンプし続けてるんだけど、これってバグ?」
「ああ、そこにある座標データが狂ってるんだろ。……その壁、本来はそこに存在しちゃいけない『見えない壁』なんだよ」
「見えない壁か……。なんだか、どこかの誰かさんの心の壁みたいね」
雪ノ下が顔を上げずに、冷ややかな、けれどどこか楽しげな視線を投げかけてくる。まるで、保護者のような眼差し。
「うるせーよ。俺の心の壁は、頑丈で人体に有害なんだよ。安易に触れるな」
「あはは、ヒッキーの壁は厚いもんね」
由比ヶ浜の屈託のない笑顔。その明るさが、この閉鎖的な部室の空気を、日常という領域に繋ぎ止めていた。
一見すれば、それは平和な光景だった。留年生の俺と、その事故の加害者側としての責任を背負う雪ノ下、そして二人を繋ごうとする由比ヶ浜。三人の活動は軌道に乗り始めていた。
だが、俺はその平穏の裏側に、抜き差しならない違和感を感じずにはいられなかった。
雪ノ下が俺に向ける視線には、微かな「泳ぎ」がある。彼女は、俺が何かを諦めたような表情をするたびに、あるいは自虐的な冗談を口にするたびに、一年前の事故現場で俺の足が折れ曲がっていたあの瞬間の光景を、脳裏に再生しているのではないか。
彼女が俺を更生させようとする熱意。それは、純粋な善意であると同時に、自分を許すための贖罪としての側面を拭いきれない。
由比ヶ浜が俺に掛ける声には、常に微かな「震え」がある。彼女は、恩義ではない友愛によって俺や雪ノ下と関わりを繋ぎなおした。しかし、比企谷八幡の非合理な拒絶の経験もまた彼女の心に刻まれている。
そして俺自身も、この場所に安住することに恐怖を感じていた。由比ヶ浜が戻り、雪ノ下と軽口を叩き合う。そんな偽物の平穏に慣れてしまえば、俺が留年という形で失った一年間の重みが、霧散してしまうような気がした。
(……俺がここで救われてしまえば、あの事故も、この空白の一年も、全部『いい経験だった』なんて綺麗な言葉で塗りつぶされてしまう)
俺は、由比ヶ浜がギブアップしたノートパソコンのモニターに映るバグだらけのゲームを見つめた。不自然に歪んだプログラム。それは、修復しようとすればするほど、本来の形から遠ざかっていく。そもそも、本来の形などあるのだろうか。
「……比企谷君。手が止まっているわよ。……何か、気になることでもあるのかしら?」
雪ノ下が、探るような瞳で俺を見ていた。その瞳の奥には、俺の心の澱を見透かそうとする、鋭くも危うい光が宿っている気さえする。
「……いや、別に。ただ、このゲームのバグを全部直したところで、結局これは『偽物の世界』なんだなと思ってな」
「……そうかもね。でも、本物じゃなくても、それで誰かが幸せになるならそれでいいんじゃないかな」
由比ヶ浜の言葉は、俺に向けられたものか、あるいは自分自身に言い聞かせているものか。
部室の中に流れる、とり留めのない会話。それは、教室という現実から切り離された、純粋培養の美しい繭の中の時間のようだった。
平穏を取り戻したかに見える奉仕部。けれど、その足元には、雪ノ下の消えない罪悪感と、俺の失った時間という、決して交わらない二つの火種が、酸素を求めて静かに燻り続けていた。
その火種が、いつ、どのような形で爆発し、この穏やかな午後を焼き尽くすことになるのか。俺は、ティーカップから立ち上る湯気の向こう側に、見えない敵の存在を感じていた。
わかっているのだ。そんなものはいない。これが正常な「日常」で、俺はただの神経衰弱に過ぎない。雪ノ下や由比ヶ浜には、含むところはあっても比企谷八幡と利益相反するものではない。しかし、俺は正常な日常の受け取り方を知らない。歪なやり方でしか向き合えない。
「……さて、そろそろ時間ね。今日の活動はここまでにしましょう」
雪ノ下の号令で、日常が幕を閉じる。俺たちはそれぞれの荷物をまとめ、夕闇に沈む特別棟を後にした。
一歩外へ出れば、そこには再び「一歳年上の同級生」としての俺を値踏みする視線と、打算で繋がる教室の力学が待っている。俺は、沈みゆく夕日に照らされ長く伸びた自分の影を見つめた。