同級生一色いろは、留年生比企谷八幡   作:10気筒VTEC

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奉仕部

平塚静という女は、およそ教師という人種が持ち合わせるべき「デリカシー」という概念を、母親の胎内に置き忘れてきたに違いない。乱暴に腕を引かれ、特別棟の薄暗い廊下を引きずられる。俺の抵抗など、この格闘技マニアの女教師の前では、赤子の手をひねるより容易いらしい。

 

 平塚先生が、その古びた引き戸に手をかける。ガラリ、と乾いた音が廊下に響いた。

 

 その瞬間、室内から溢れ出した空気に、俺は思わず息を呑んだ。

 

 西日に照らされた部室。無機質なスチール机と、並べられたパイプ椅子。  その中心で、一人の少女が、文庫本を片手に端然と座っていた。

 

 長い、漆黒の髪。夕光を受けて微かに発光しているかのような、透き通るような白い肌。そして、何よりも目を引いたのは、その凛とした佇まいだ。彼女がそこにいるだけで、雑多な部室が聖域へと変質し、淀んだ空気が研ぎ澄まされた刃のように浄化されていく。

 

 雪ノ下雪乃。

 

 一年前。事故の直後、ぼやけた意識の中で見た、あの美しい横顔。病院での、凍てつくような、それでいて壊れそうなほどに揺れていた瞳。二年生になった彼女は、俺が記憶していたよりもずっと、近寄りがたいほどの美しさを纏っていた。

 

(……ああ、そうか)

 

 俺は、無意識のうちに自虐的な納得を得ていた。一年前、俺が失った日常には、こんな怪物がいたのか。  隣の席で「あざとさ」を振りまく一色いろはが、人工的に精製された甘い果実だとするなら、目の前の少女は、誰も踏み入ることを許さない高嶺に咲く、孤独な氷の花だ。

 

「平塚先生。入室の際はノックをするようにと、何度申し上げれば理解していただけるのかしら?」

 

 雪ノ下は本から目を離すことなく、鈴を転がすような、しかし極低温の声を放った。

 

「すまん。少々急ぎの案件でな。……それより、どうだ。新しい部員候補を連れてきたぞ」

 

「……部員?」

 

 雪ノ下が、ゆっくりと顔を上げた。  その切れ長の瞳が、俺を正面から捉える。  射抜くような視線。俺の「死んだ魚の目」と彼女の「澄み渡る泉のような目」がぶつかり、一瞬、火花が散ったような錯覚に陥る。

 

「…………比企谷、君?」

 

 彼女の唇から、俺の名前が零れた。  

 

その僅かな動揺。氷の面に小さな亀裂が入ったような、一瞬の表情の変化。  だが、彼女はすぐにそれを鉄の意志で塗りつぶした。

 

「……なるほど。平塚先生が仰っていた『更生が必要なほどに拗れた生徒』というのは、あなたのことだったのね。一年遅れでようやく入学してきたかと思えば、さっそく問題を起こしてここへ連行されるなんて。……相変わらず、期待を裏切らない愚かさだわ。」

 

「おい。初対面……でもないが、久しぶりに会った相手に向かって第一声が『愚か』か。相変わらず、その口からは毒液しか出ないようだな」

 

 俺は、彼女の美しさに当てられた動揺を隠すように、いつもの皮肉を返した。  雪ノ下は、パタンと本を閉じ、流れるような動作で立ち上がった。

 

「第一声ではないわ。正確には、あなたのその腐りきった性根を観察した結果導き出された、論理的な帰結よ。……一年という時間は、あなたに『省察』を与えるには短すぎたのかしら? それとも、身体の傷は癒えても、脳の配線は断線したままなのかしら」

 

「生憎だが、俺の配線はこれがデフォルトだ。不具合じゃなく仕様なんだよ。一年遅れたところで、中身は熟成されるどころか、さらに発酵してガスが溜まってるだけだ」

 

「発酵ではなく、腐敗の間違いではないかしら? ……平塚先生。お断りするわ。私にゴミ処理のボランティアを強いるのは、人道上の問題があるのではないかしら?」

 

 雪ノ下は、蔑むような視線を平塚先生に向けた。

 

「そう言うな。こいつの作文を読んでみろ。……『青春は悪である』だぞ? これを書いた奴が、一色いろはのような計算高い女子が跋扈するクラスで、果たして三年間正気を保てると思うか? 比企谷は、今や総武高における絶滅危惧種……あるいは、放置すれば深刻な環境汚染を引き起こす有害物質だ」

 

 平塚先生は、およそ教師とは思えない暴言を吐くと、俺の作文を雪ノ下の前の机に叩きつけた。  雪ノ下は、まるで汚物を扱うような手つきでその紙を摘み上げると、さらりと目を通した。

 

「……凄いわね。一行ごとに知性が削り取られていくのを感じるわ。比企谷君、あなた、よくこれで義務教育を終えられたわね。……いえ、一年間も余分に時間があったのだから、少しは語彙を増やす努力をすれば良かったのではないかしら?」

 

「お前には関係ないだろ。俺が何を書いて、どう生きようが、俺の勝手だ。……大体、平塚先生。俺をここに連れてきて、一体何をさせるつもりなんですか」

 

 俺が問い詰めると、平塚先生は不敵な笑みを浮かべた。

 

「勝負をしてもらう。……雪ノ下。私はこの比企谷を、この奉仕部に入部させる。そして、貴様に依頼する。この比企谷の、その腐り果てた性根を……『更生』させてみせろ」

 

「……更生、ですか」

 

 雪ノ下は、俺の顔をじっと見つめた。  その視線の中に、先ほどまでの毒舌とは違う、何か重い質感を伴った「決意」のようなものが混じる。  彼女は、俺がこの一年間を棒に振った原因の一部が、自分にあることを知っている。  

 

雪ノ下家が関わった、あの忌まわしい事故。  彼女は、俺に対する「負い目」を、決して口にはしないだろう。だが、その瞳の奥にある揺らぎは、俺の腐った目でも見逃すことはできない。

 

「……いいでしょう。平塚先生。お引き受けするわ」

 

 雪ノ下は、椅子に深く腰掛け直し、足を組み替えた。  その仕草だけで、部室の支配権が完全に彼女の手に渡る。

 

「比企谷君。あなたがこれまで、どのような『不遇』の中にいたのかは知らないし、興味もないわ。けれど、あなたがその捻じ曲がった論理を盾にして、自分の弱さを正当化し続けるというなら……私がそれを、木っ端微塵に粉砕してあげる。……一年遅れの再スタートを、地獄から始めさせてあげるわ」

 

「……随分な言い草だな。お前のその傲慢な正義感こそ、矯正が必要なんじゃないか?」

 

「あら。私は自分を正しいとは思っていないわ。ただ、間違っているものを放置できないだけ。……例えば、あなたのその、死んだ魚のような、見ていて不快になるその目。まずはそこから治療が必要ね」

 

「これは生まれつきだっつの。……大体、俺がいつ入部するなんて言ったんだよ」

 

 俺が毒づくと、雪ノ下は微かに口角を上げた。  それは、獲物を追い詰めた猟犬のような、冷酷でいて、どこか楽しげな微笑だった。

 

「あら、拒否権があると思っているのかしら? ……あなたには、ここで私の教育を受ける『義務』がある。……そうよね、平塚先生?」

 

「ああ。比企谷、貴様に選択肢はない。大人しく雪ノ下の軍門に降れ」

 

 平塚先生は、満足げに頷くと、俺の肩をポンと叩いた。

 

「雪ノ下。こいつは難物だぞ。……だが、貴様なら、あるいは……」

 

 先生が部室を出ていく。  残されたのは、西日が差し込む静寂の中、火花を散らす俺と雪ノ下だけだ。

 

 雪ノ下は、再び本を開いた。  だが、その指先が僅かに震えているのを、俺は見逃さなかった。

 

「……比企谷君」

 

「……なんだよ」

 

「これから、よろしく。……あなたのその『間違い』を、私が一つずつ、丁寧に、残酷に、正してあげるわ」

 

 その声は、かつて病院で聞いた謝罪の時のものよりも、ずっと力強く、そして「必死」に聞こえた。

 

 俺は、彼女の隣に並べられたパイプ椅子に、乱暴に腰を下ろした。  窓の外では、春の風が騒がしく吹いている。  クラスには、「あざとさの権化」一色いろは。  そしてこの部室には、俺を「義務」として救おうとする雪ノ下雪乃。

 

 俺の、一年遅れの青春。  その歯車が、かつてないほどの異音を立てて、猛烈な勢いで回転し始めた。

 

 

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