校庭から聞こえるセミの声が、コンクリートの熱気に焼かれて歪んで聞こえる。
一学期の終業式を目前に控えた一年F組の教室は、解放感という名の熱病に浮かされていた。教師の声を正面から受け止める者はおらず、黒板に書かれた夏休みの心得など誰も見ていない。奴らの視線は、既に海や祭り、あるいは避暑地のスケジュールへと飛んでいた。
そんな喧騒を、俺はいつものように壁と同化しながら眺めていた。 一年前、俺が病院の白い天井の下で、無機質に過ぎていくカレンダーを眺めていた夏。それに比べれば、今のこの騒々しいまでの日常は、眩しすぎて網膜が痛い。
奉仕部の方は、一応の平穏を取り戻していた。由比ヶ浜が戻り、雪ノ下との間に流れる空気も、以前のような張り詰めた氷の刃ではなくなっている。けれど、それはあくまで部室という限定された温室内での話だ。
「……はぁ。夏休み、ですか。マジでないわー、地獄だわー」
不意に、真横から深く重い溜息が降ってきた。一色いろは。彼女は自分の机にぐったりと突っ伏し、髪を机の上に散らしていた。
「……マネージャー、そんなに忙しいのか」
「忙しいなんてレベルじゃないですよ。遠征とか合宿とか、先輩たちの汗臭い愚痴を聞き流すだけで、私の女子力が枯渇して砂漠化しそうです」
彼女は、顔を半分だけ起こして、ジト目で俺を凝視した。その瞳には、ショッピングモールで見せたあの刺すような鋭さは潜めてあるが、代わりに、何かを値踏みするような、不敵な光が宿っている。
「……だから、比企谷くん。予定、空けといてくださいね?」
「は? 予定って、何の」
「決まってるじゃないですか。夏休み、私が限界突破して『もう無理ー!』ってなったら、比企谷くんに愚痴とか、あんなことやこんなことを聞いてもらわないと困るんです。……どうせ比企谷くん、夏休みなんて予定ゼロで、庭でアリの行列とか数えてるんでしょ?」
一色いろはは、何気ない風を装いながら、さらりと俺の夏休みの占有権を主張してきた。 それは、あざとさというオブラートに包まれているが、彼女なりの境界線の構築。
「……俺は一応、奉仕部の活動があるかもしれないしな。あと小町の受験の付き添いとか」
奉仕部に囚われ、一色いろはにもこき使われるのは少し癪に障る。
「奉仕部ー? 雪ノ下先輩たちとは、学校でたっぷり遊んでもらってるじゃないですか。……休みの日くらい、私に還元してくださいよ。それくらいが『お隣さん』としての誠意ってものじゃないですか?」
彼女はクスクスと笑い、椅子を引いて俺との距離を詰めた。甘く爽やかな香料の匂いが鼻先を掠める。
「……それに、聞きましたよ。夏休みの林間学校ボランティア、奉仕部がお手伝いで行くんでしょ? 現地で泣きつかれたら話ぐらいは聞いてあげますからね」
その言葉は、まるで「お前がどこへ行こうと、私の手のひらの上だ」という宣言のようにも聞こえた。実際、その通りになってきているのかもしれない。
「……善処するよ」
「『善処』は『何もしない』の言い換えだって、比企谷くんに教わったんですけど? ……まぁいいです。逃げられると思わないでくださいね」
一色いろはは満足げに身を引くと、再びクラスの中心へと戻っていった。
教室に鳴り響く、終業を告げるチャイム。それは、一学期の終わりの合図であり、彼らの「青春」が学校という枠組みを超えた、より剥き出しの戦いの始まりでもあった。
雪ノ下雪乃が抱える、過去への贖罪。由比ヶ浜結衣が願う、穏やかな現在。そして一色いろはが狙う、都合の良い未来。
俺という、一年の空白を抱えた留年生を巡って、三人の少女たちの視線が、夏の陽炎の中で静かに交錯する。
…いや、しないか。このところ、どうも女子と人間関係でいろいろあったせいか、男子高校生の性なのか、「青春」という言葉が頭をよぎる。
だが、しかし俺は知っている。そうやって色気を出した男子学生は夏休みに爆散することを。期待を持たず、隙を作らず、甘い話を持ち込ませず。非モテ三原則は中央教義だ。でなければ、本当に俺の居場所はなくなってしまう。
夏休み。俺たちは、冷房の効いた部室を飛び出し、より熱く、より残酷な季節へと踏み出そうとしていた。
俺はカバンを肩にかけ、教室を出た。廊下の窓から見える入道雲が、圧倒的な質量で空を支配している。
「……夏、か」
呟いた声は、騒がしい生徒たちの声にかき消された。