いざ、千葉村
夏特有の、アスファルトが焼けるような匂いが鼻を突く。総武高校の校門前に停車した小型バスの周りには、私服に身を包んだ二年生十数人が集まっていた。これから始まるボランティア、小学生の林間学校。彼らが放つ高揚感は、湿り気を帯びた熱気となって周囲に霧散している。
その喧騒から数メートル離れた街路樹の影で、俺はカバンを抱え直した。一年前、本来なら俺もあの輪の中に、二年生として混ざっていたはずだった。だが今、俺の胸に刺さっている名札には、明確に『一年F組』の文字がある。
「比企谷君、ぼんやりしてどうしたのかしら。ここに置いていかれたいのであれば、止めはしないけれど」
涼やかな、けれど容赦のない声。振り返ると、そこには完璧な引率の顔をした雪ノ下雪乃が立っていた。引率でも何でもないはずだが、妙に引き締まった表情だ。隣では由比ヶ浜結衣が、落ち着かない様子でこちらに手を振っている。
「……別に。ただ、この圧倒的なアウェー感を全身で享受してただけだ」
「あはは……。まあ、今回はあたしたち奉仕部がお手伝いって形だからさ。ヒッキーも一緒だよ、大丈夫!」
由比ヶ浜は努めて明るく振る舞うが、彼女の視線も、時折遠巻きに俺を眺める二年生たちの探るような目を気にしているのが分かった。
「そもそも、なんであーしたちが林間学校の手伝いなんてしないといけないわけ?暑いし力仕事なんて嫌なんだけど」
「いや林間学校なんてマジ懐かしいっしょー。親心をしのぶ的な?おれらも大人になったってことだべ?」
「それを言うなら童心に返るだろ、戸部」
二年生という、既に固まりきったコミュニティ。その中心には当然のように、葉山隼人が座っている。三浦優美子や海老名姫菜といった、学年の頂点に君臨する面々が談笑するその空間に一歳年下の留年生が入り込む余地など、微粒子レベルで見ても存在しなかった。
車に乗り込むと、その空気はより一層濃密になった。上級生たちが、夏休みトークに花を咲かせている。やれどこに行っただの、何をしただの、業務連絡にすれば1行程度の情報量を引き伸ばし、飾り立てた写真と組み合わせて虚構の「映え」を作り出す。
……さすがに言い過ぎた。決してそんな写真が撮れないから僻んでいるわけではない。
ともあれ、今の俺にとって会話ができる人間がいるとすれば、それは事故の当事者である雪ノ下と由比ヶ浜の二人だけだった。どうやら、葉山たち以外の2年生も数人乗り込んでいるようで。
「……おい、あれ。一年F組の比企谷だろ?」
「ああ、留年して暴れまくってるっていう……。なんであいつが、雪ノ下さんたちと一緒にいるんだ?」
「奉仕部って部活らしいぞ」
座席の間から漏れ聞こえてくる囁き声。それは悪意というより、純粋な異物に対する観察報告に近い。俺は奉仕部の席として確保された、車両後方の座席に沈み込んだ。しかし固い座席はポジションが上手く定まらない。
雪ノ下は俺の隣に座ると、膝の上に資料を広げた。彼女は周囲の視線など一顧だにせず、俺を当然の同行者として扱う。それは彼女なりの配慮なのか、あるいは自分が管理すべき対象としての義務感なのか。
「比企谷君。今回のボランティアの主旨は、小学生のサポートよ。あなたが二年生のコミュニティに馴染めるかどうかなど、活動内容には一切関係ないわ。……それとも、同年代の集団に一人混ざるのが、そんなに苦痛かしら?」
雪ノ下にしては察しのいい、読んだ会話。それはとりもなおさず、彼女が比企谷八幡の異物としてのポテンシャルを評価してのことだろう。そんなところで確信を持ってほしくなかったが。
「……馴染む気なんて最初からねーよ。ただ、この見学されてる感が動物園のパンダになった気分で落ち着かないだけだ」
「……パンダは、もっと可愛げがあるわ」
雪ノ下は、俺のその言葉に僅かだけ視線を落とした。彼女の脳裏には一年前の事故の光景が過ったのかもしれない。俺を見世物にしたのは他ならぬ自分たちだという、消えない負い目。
「ヒッキー、これ食べる?」
空気を変えるように、前の座席から由比ヶ浜がグミの袋を差し出してきた。その瞬間、バスの前方から葉山隼人がこちらを振り返った。
「比企谷君。今回は助かるよ、人手が足りなかったから。……雪ノ下さんも、よろしく」
完璧な笑顔。完璧な気遣い。葉山は、俺が「一年生」であることを無視するように、かつてのテニスコートでの卑劣な行為を見なかったかのように対等な立場で声をかけてくる。だが、その過剰なまでの平等さがかえって俺がここにいる不自然さを際立たせていることに彼は気づいているのだろうか。あるいは、気づいた上でやっているのか。
バスが動き出し、夏休みに入って静まり返った校舎が遠ざかっていく。俺のスマホの画面が一通の通知で光った。隣に座る雪ノ下にも、前の席の由比ヶ浜にも見えない角度で画面を確認する。
『夏休みに林間学校のボランティアとか、比企谷くんって本当に奉仕精神の塊ですねぇ。あ、私はこれから旅行の準備なんで、向こうで暇死にしそうになったら連絡してあげてもいいですよ?』
差出人は、一色いろは。二年生たちの完成された、けれど刺々しい視線が飛び交うこのバスの中で、そのあざとい一文だけが、妙に現実味を持って俺の胸に届いた。彼女は今頃、冷房の効いた部屋で計算ずくの夏休みの計画を練っているのだろう。
「……どうかしたのかしら?」
雪ノ下が、不審そうに俺の顔を覗き込む。彼女の目には、比企谷八幡が2年生から疎外されていることのみが強調されて映っているはずだ。
「……いや。ただ、夏休みの宿題を一つ、増やされた気分になっただけだ」
俺はスマホをポケットに放り込み、窓の外の景色に目を向けた。二年生の領域。林間学校という非日常の幕が、今静かに、そしてひどく不機嫌に上がろうとしていた。