同級生一色いろは、留年生比企谷八幡   作:10気筒VTEC

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温度差

標高を上げるごとに、湿り気を帯びた山の空気がバスの窓から流れ込んできた。千葉の沿岸部とは異なる、鬱蒼とした緑の匂い。林間学校の目的地であるキャンプ場に到着した瞬間、二年生たちの活気は増した。彼らにとって、この森は青春を謳歌するための舞台装置に過ぎない。

 

 だが、ボランティアスタッフとして参加している俺たち奉仕部に、そんな浮かれた時間は用意されていなかった。

 

「……比企谷君、ぼんやりしていないで。小学生たちのバスが到着するわ」

 

 雪ノ下雪乃は、キャンプ場の案内図を片手にそう言った。  

 

やがて、小さなリュックサックを背負った小学生たちが喧騒と共にバスから吐き出されてくる。二年生のリア充グループである葉山や由比ヶ浜たちが「こんにちはー!」と眩しい笑顔で迎え入れる中、俺は日陰の切り株に腰掛け、彼らの動線を確保するだけの生きた案山子と化していた。

 

バスから放出された彼・彼女らは、走る鉄の塊からの解放感や林間学校への高揚感を表現するように、熱狂を高める。そこには一体感の結実が存在していた。

 

 その時だった。

 

 騒がしい子供たちの群れから少し離れ、引率の教師からも死角になるような場所で、一人の少女が立ち止まっているのが見えた。

 

周囲の子供たちがグループを作ってはしゃぎ回る中、彼女だけがまるで自分の周囲に透明な壁を築いているかのようにひっそりと佇んでいる。何より俺の目を引いたのは、その瞳だった。期待も、失望も、怒りすらも通り過ぎた後の、絶対的な虚無。  

 

「……ああ、なるほど」

 

 俺は思わず呟いた。知っている。あの目は、かつての、あるいは今も鏡の中にいる、俺自身の目だ。

 

 左足が前に出る。その勢いのまま体が前に傾く。客観的に見れば歩行と言われるその動作は、しかし俺の脳が感知していないものであった。

 

「なんですか?」

 

彼女との距離が縮み、その知覚範囲に入ったようだ。静かに歩み寄る不審者に視線が向く。どこか見覚えのあるような長い黒髪と警戒心の強い目。

 

「……楽しいか」

 

 瞳孔が開かれ、明らかに機嫌を損ねた様子を見せる。固く結ばれた唇の代わりに、その瞳が俺に語り掛けた。

 

「比企谷八幡だ。名前は?」

 

「……鶴見留美、です」

 

 それから俺は彼女の状況を聞いた。どうやら、いじめを受けているらしい。同級生からの無視というのは、ある意味では嫌われるよりも不幸だ。言葉少なげな彼女に、支えにもならないフォローを投げ、背を向けて歩き出す。

 

「楽しい林間学校になるといいな」

 

 鶴見留美は、晴れた表情など見せずにそこに留まった。

 

「……比企谷君、あなたも気づいたのかしら」

 

 歩き回っているといつの間にか隣に立っていた雪ノ下が、鋭い眼差しでその少女を見つめていた。雪ノ下の瞳には、同情とは異なる、もっと義務感に近い強い色が宿っている。かつての誰かに、その姿を重ねているような遠い眼差し。

 

「彼女、孤立しているわね。周囲が意図的に彼女を『いないもの』として扱っている。……そんな空気が、あの子供たちの間にも流れているわ」

 

「……よく見てるな。まあ、子供の世界ってのは大人の世界の縮図だからな。残酷なまでに純粋なカースト制度だ」

 

「それは……解決すべき課題だわ。彼女をこのままにしておくことはできない」

 

 雪ノ下が断言した。その声には俺を更生させようとする時と同じ、強迫観念に近い正義感が滲んでいた。彼女にとって、目の前の不条理を見過ごすことはすなわち自分自身の倫理を汚すことに等しい。

 

「比企谷君、あなたもそう思うでしょう? 同じような痛みを知っているあなたなら、彼女を戻す方法を、私と一緒に――」

 

「……いや、思わねーよ。救いなんてない」

 

 俺は吐き捨てるように言った。雪ノ下は意外そうに眉を潜め、俺を真正面から見据える。その瞳には、私の正しさを否定されたことへの、静かな反発が灯っていた。

 

「救いがない……? あなたは、彼女がこのまま壊れていくのを黙って見ていろと言うの? それはあまりに無責任で、卑怯な考えだわ」

 

「責任だの卑怯だの、物差しをガキに押し付けんなよ。あの子は、あそこに自分の居場所がないことを、もう受け入れてるんだ。そこに無理やり『仲良しの輪』を押し付けるのは、ただの暴力だぞ。……おまえのその正しさは、時として本人にとって一番の毒になる。それは自分が一番、わかってるんじゃないか」

 

 雪ノ下の顔が、一瞬で凍りついた。彼女の抱く責任という名の救済。それは、俺のような捻じ曲がった人間にとっては、時として息苦しい正しさの押し売りに聞こえる。彼女の救いは、常に相手が自分と同じステージに上がってくることを前提としている。だが、あの子は、いや俺は、そのステージ自体を拒絶しているんだ。

 

「……私のやり方が、傲慢だと言うのね。あなたが一年間、失った場所へ戻ることを拒み続けているように、彼女もまた、そうあるべきだと?」

 

「……失った場所なんて、最初からねーよ。いいか雪ノ下、おまえが負い目を感じてる『俺の一年』なんて、せいぜいこの程度の不燃ゴミだ。おまえに救われて『元通り』になりたいなんて、これっぽっちも思ってねえはずだよ」

 

 俺と雪ノ下の間に、刺々しい沈黙が降りる。雪ノ下は、何かを言いかけ、けれど言葉を飲み込むように唇を強く結んだ。彼女の瞳は、怒りよりも深い、やり場のない悲しみに揺れているように見えた。

 

「……私は、諦めないわ。それが独善だとしても、見過ごすよりは、針を撒く方がまだマシよ。……行きましょう。プログラムが始まるわ」

 

 雪ノ下は冷たく言い放つと、俺に背を向けて子供たちの輪へと歩き出した。湿った風が、俺たちの間を吹き抜けていった。

 

 

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