同級生一色いろは、留年生比企谷八幡   作:10気筒VTEC

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毒入りパンケーキ

昼休み。それは高校という社会において、最も残酷に個人の価値が数値化される時間だ。  仲の良い友人と弁当を囲む者、購買のパンを求めて熾烈なレースを繰り広げる者、あるいは図書室の静寂に逃げ込む者。そのすべてが、自分がこのコミュニティにおいて「どこに属しているか」を再確認するための儀式に他ならない。

 

 比企谷八幡は、そのどれにも属さない。  窓際の席で、彩りのない弁当を咀嚼しながら、俺はただ一点、隣の席で繰り広げられている「女王の接見」を、網膜に焼き付けていた。

 

「……ねえねえ、いろはちゃん。今度の土曜、駅前に新しくできたパンケーキ屋、行かない? あそこ、マジで予約取れないらしいんだけど、俺の知り合いがバイトしててさ」

 

 声をかけているのは、F組の「中心」を自負しているであろう男、佐藤だ。  茶髪をワックスでツンツンに固め、制服のシャツをだらしなく開けたその姿は、いかにも「クラスの盛り上げ役」といった風情。その背後には、彼の腰巾着である田中と鈴木(多分)が、まるで虎の威を借る狐のごとき卑屈な笑顔で控えている。

 

 対する一色いろはは、箸を止めることなく、しかし完璧なタイミングで首を傾げた。

 

「えーっ、パンケーキ? すごーい、佐藤くん。あそこって、女の子同士でも並ぶの諦めるくらい人気なんだよね?」

 

 感嘆の溜息。少しだけ見開かれた瞳。そして、相手の能力、もとい些細なコネを過剰に肯定する言葉。  一色いろはの「あざとさ」は、今日も絶好調だ。

 

「だろ? いろはちゃんがいっしょに来てくれるなら、俺、マジで気合入れて席キープするし」

 

一色いろはは、おそらく乗り気ではない。ぼっちにはわかるのだ。 ソースは俺

…さあどうする。彼女がどのように対処するのか、なぜか無性に気になった。

 

「ふふ、カッコいいなぁ。……でも、どうしよう。私、土曜日はちょっとだけ用事があるかも……なんて。あ、でも佐藤くんがせっかく誘ってくれたのに、断るの申し訳ないなぁ……」

 

 ……出た。俺の隣で、またしても女王の作品が完成するのか。  

 

「用事がある」と断りの余地を残しつつ、「断るのが申し訳ない」という付け足しで、相手に「自分は行きたいのだが状況が許さない」という誤解を植え付ける。  

これによって、断った場合でも「一色は行きたがっていたが、運が悪かっただけだ」という好感度の保険が成立する。

 

 だが、今日の佐藤は、いろはの想定よりも少しだけバカで、強引だった。

 

「用事って、何時までだよ。夕方からでもいいしさ。つーか、いろはちゃんが来ないとなると、俺たちのグループの面目が立たないっていうかさぁ!」

 

 佐藤がいろはの机に身を乗り出す。  その瞬間、いろはの肩が、ミリ単位で強張るのを俺は見逃さなかった。  彼女の笑顔は崩れていない。だが、その瞳の奥にある「光」が、一瞬だけ消えた。それは、暗い海の底に沈んでいくような、強烈な不快感の色だ。

 

(……ほう。一色いろは、詰んだか)

 

 俺は卵焼きを口に運びながら、冷静に状況を分析する。  

 

佐藤の誘いは、もはや提案ではなく強要に近い。しかも、周囲には他の男子たちが「いいなー、佐藤」「一色ちゃん行けよー」と、無責任な野次を飛ばし始めている。  

 

ここでいろはが強く拒絶すれば、彼女がこれまで築いてきた「誰にでも優しくて少し天然な、みんなのいろはちゃん」という虚像が剥がれ落ちる。逆に、このまま押し切られれば、佐藤という面倒な男との「デートという名の接待」という地獄が確定する。

 

 さらに悪いことに、教室の反対側では、女子のグループが冷ややかな視線をこちらに向けていた。 「また一色が男を転がしてる」 「本当、あざといよね。ああやって思わせぶりな態度とってさ」  そんな無言の陰口が、空気の振動となって伝わってくる。

 

 一色いろはは、今、まさに針のむしろの上に立っている。  男子からの過剰な期待と、女子からの猛烈な嫉妬。  その両方を笑顔という仮面で受け止めながら、彼女の精神は、限界まで引き絞られた弓の弦のように震えているはずだ。

 

 ふと、いろはがこちらを向いた。  佐藤たちの視線から外れた一瞬。彼女の瞳が、俺を捉える。    

 

それは、助けを求めるような弱々しい色ではなかった。  むしろ、獲物を値踏みするような、あるいは「あんた、これを見て楽しんでるんでしょ?」と問い詰めるような、攻撃的な光だった。

 

「……ねえ、比企谷くん」

 

 唐突に、いろはが俺の名前を呼んだ。  佐藤たちの意識が、俺という「不気味な男」へと一斉に向けられる。

 

「比企谷くんも、パンケーキとか興味ある? ……あ、でも、比企谷くんは一人で静かに過ごしたいタイプ……だよね?」

 

 彼女は俺に話を振ることで、佐藤たちの独占状態を崩そうとした。  だが、その手口はあまりに露骨だった。  佐藤が、不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 

「あ? 比企谷? ……なんだよ、お前。一色に話しかけてんじゃねえよ。つーか、お前って一年遅れてるんだろ? なら大人しくしてろよ、先輩」

 

 佐藤の取り巻きたちが、クスクスと笑い声を上げる。  「先輩」という言葉に含まれた、明らかな嘲り。  留年生という立場は、こうしたカースト上位の人間にとって、格好の攻撃材料だ。

 

というか、誰だよ、ばらした奴。先輩として利用価値上がっちゃうじゃねーか。

これはレバレッジかけて爆買い間違えなしですね。

 

 俺は、食べかけの弁当箱をゆっくりと閉じた。  一色いろはの瞳が、俺を見つめている。

 

「利用できるなら、利用してやる」  彼女の目が、そう言っている。

 

俺がここで佐藤たちにやり込められれば、彼女はその隙に別の話題に逃げることができる。俺がもし反撃すれば、その騒ぎに乗じてこの場を離れることができる。  どちらに転んでも、彼女にとっては損のない賭けだ。

 

 ……実に、気に食わない。  自分の手を汚さず、他人の犠牲の上に自分の平穏を築こうとするその根性。  だが、それ以上に。 一年前のあの日、事故で止まってしまった俺の時間。  それを嘲笑うかのように、この教室に充満している「若さゆえの残酷さ」が、俺の逆鱗に触れた。

 

「佐藤」

 

 俺は、低く、しかし教室の隅々にまで届くような通る声で、その名前を呼んだ。  佐藤が、ギクリとしたように眉を跳ね上げる。

 

「……なんだよ、比企谷。なんか文句あんのか?」

 

「文句じゃない。アドバイスだ。……お前のその、中身のないパンケーキのような誘い。……見ていて、反吐が出る」

 

 教室の空気が、一瞬で凍りついた。  隣でいろはが、驚愕に目を見開く。    

 

俺は立ち上がり、ポケットに手を突っ込んだ。  死んだ魚の目を、佐藤の瞳の奥へと、真っ向から叩きつける。 ここから先は、俺の得意分野だ。  

 

嫌われ、忌避され、空気を壊す。  一色いろはという女王を守るためではなく、この不愉快な茶番を終わらせるために。

 

 俺は、自ら泥の中に足を踏み入れることを選んだ。そう、俺が選んだ。

 

静寂。 それは、音が消えることではない。周囲の人間が呼吸のタイミングを見失い、生存本能がこれ以上関わるなと警鐘を鳴らすことで生じる、耳が痛くなるような真空状態のことだ。

 

 俺が放った「反吐が出る」という一言は、昼休みの弛緩しきった教室に、冷水をぶっかける以上の効果をもたらした。

 

「……あ? んだよ、テメェ」

 

 佐藤の顔が、怒りでどす黒く変色していく。  彼は椅子の背もたれを蹴るようにして立ち上がった。体格は彼の方が一回り大きい。背後に控える二人の取り巻きも、援護のタイミングを窺うように俺を睨みつけている。

 

 隣の席では、一色いろはが息を呑んでいた。  彼女の計算高い脳内でも、俺がこれほど直截的な暴言で介入してくることは想定外だったに違いない。彼女は今、自分の身を守ることさえ忘れ、呆然と俺を見上げている。

 

「今、なんて言った、比企谷。……調子乗ってんじゃねえぞ、留年野郎が。一つ年上だからって、先輩面して指図すんのか?」

 

「先輩面? 勘弁してくれ。俺はただ、お前たちのその『薄っぺらさ』を指摘しただけだ」

 

 俺は一歩、佐藤の方へ踏み出した。  机を挟んだ至近距離。俺の死んだ魚の目は、濁りながらも鏡のように佐藤の醜い怒りを映し出している。

 

「佐藤。お前、さっきから一色が困ってるのに気づいてないのか? それとも、気づかないフリをして自分の欲求を押し付けてるだけか? どっちにしても、お前のやってることはナンパですらない。ただの『強要』だ」

 

「困って……? おい、一色、本当かよ。こいつが勝手に言ってるだけだろ?」

 

 佐藤の視線がいろはに向く。  彼女にとって、ここは最大の分岐点だ。  

ここで「はい、困ってました」と言えば、佐藤との縁は切れるが、クラスの男子を敵に回すリスクがある。逆に否定すれば、俺という盾を失い、佐藤の毒牙にかかることになる。

 

 いろはの唇が、わずかに震える。 彼女が選ぼうとしたのは、おそらく「曖昧な苦笑い」での逃避だった。 だが、俺はそれを許さない。

 

「一色に聞く必要はない。お前、自分がこのクラスで一番の『人気者』だと思い込んでるみたいだが、見てみろよ。周りの奴らがお前をどう見てるか」

 

 俺はあえて、教室内を大きく見渡した。  女子グループの冷笑。他の男子たちの「関わりたくない」という忌避感。

 

「お前が騒げば騒ぐほど、一色の評価は下がっていく。お前と一緒にいるだけで、彼女は女子から『男を誑かす女』というレッテルを貼られ、男子からは『攻略対象の景品』として見られるようになる。……お前が一色を誘うそのパンケーキ。それは彼女にとって、毒でしかないんだよ」

 

「……黙れッ!」

 

 佐藤が俺の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。  だが、俺はそれを避けない。むしろ、掴ませるように体を差し出した。

 

 ガクン、と首に衝撃が走る。  制服の襟が締め上げられ、苦しい。だが、俺の心は驚くほど冷静だった。 いや、高揚すらしていた。 

 

「暴力か? いいぜ、やってみろよ。……一年遅れで入学した留年生が、クラスの人気者から暴行を受ける。この話が職員室に届いたら、お前のその輝かしい『高校デビュー』はどうなるんだろうな? 佐藤、お前こそ、自分の立場を分かってないんじゃないか?」

 

「……っ!」

 

 佐藤の拳が震えている。  彼は今、猛烈な葛藤の中にいた。  目の前の不気味な男を殴り飛ばしたいという衝動と、ここで問題を起こせば自分の「カースト」が崩壊するという恐怖。

 

 俺は、さらに畳み掛ける。

 

「お前は一色が好きなわけじゃない。一色という『トロフィー』を手に入れて、自分の価値を証明したいだけだ。その卑しい欲望に、俺の隣の席を使うな。……不愉快なんだよ」

 

 俺は自らの手で、佐藤の腕を振り払った。  力は弱かったはずだが、佐藤はまるで汚らわしい何かに触れたかのように、たじろぎながら後退した。

 

 教室の空気は完全に死んでいた。  俺は正論という名の毒を撒き散らし、この場所を立ち入り禁止に変えてしまった。    

 

これでいい。  佐藤はもう、一色に声をかけることはできない。少なくとも、今日この場では。  そして、クラスの全員が、比企谷八幡という存在を地雷として認識した。

 

「……行くぞ、一色」

 

 俺は、呆然としているいろはの手首を、乱暴に掴んだ。

 

「え、あ……比企谷、くん……?」

 

「お前に用がある。……先生に呼ばれてるんだよ、二人で。ついてこい」

 

 嘘だ。先生なんて呼んでいない。 だが、今のこの状況を打破するには、有無を言わさぬ外部からの強制力が必要だった。    

 

俺はいろはを引きずるようにして、教室の出口へと向かった。  背後で、佐藤の取り巻きが「なんだよあいつ……」「マジでヤバいな、あの留年生……」と囁くのが聞こえる。

 

 女子たちの視線も、哀れみから軽蔑へと変わった。 一色いろはを助けたヒーロー?  そんな目では見られない。  今の俺は、クラスの平穏を乱し、言葉の暴力を振るい、強引に女子を連れ去る「最悪の異物」だ。

 

 

 

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