廊下に出ると、春の冷たい風が吹き抜けた。俺の手首に伝わる、一色いろはの肌の熱。彼女は、一度も抵抗することなく、俺の足取りに従っていた。
非常階段の陰。人気のない場所まで来ると、俺はようやく彼女の手を離した。
「……ここまで来れば大丈夫だろ。適当に時間を潰して、チャイムが鳴ったら戻れ。佐藤には俺が『無理やり連れて行った』ってことにしとけば、お前の面目は保てる」
俺は彼女の顔を見ずに、壁に背を預けた。 ヘイトを一手に引き受け、自己犠牲によって問題を解決する。 生まれてこの方、俺のやり方は何も変わっていない。……いや、磨きがかかってしまったとさえ言える。
しばらくの沈黙。 一色いろはは、うつむいたまま動かなかった。
「……ねえ」
不意に、彼女が声を漏らした。 それは、教室で聞いていた甘ったるいシロップのような声ではなかった。 どこか低く、温度のない、刃物のような声。
「……あなた、バカなの?」
ゆっくりと顔を上げた一色いろはの瞳には、感謝の欠片もなかった。 そこにあったのは、激しい怒りと、そして、俺という人間を初めて理解し、諦めたような昏い光だった。
非常階段の踊り場。コンクリートの冷たさが、制服越しに背中に伝わってくる。一色いろはの手首を見ると、そこには俺の指の跡が赤く残っていた。乱暴に扱ったつもりはなかったが、やはり力が入っていたらしい。
彼女は無言で、自分の手首をさすりながら俺を凝視している。 俺は視線を逸らし、踊り場の向こうに広がる、どこまでも無関心な青空を眺めた。
……なぜ、あんな真似をしたのか。 自分の立ち位置を悪化させ、クラスでの「平穏なぼっち生活」を自らドブに捨てるような真似を。 佐藤を罵倒し、教室の空気を凍りつかせ、女子たちの軽蔑を買う。その代償として一色いろはの「笑顔の仮面」を守ってやるなんて、合理的ではない。かつての俺なら、もう少しスマートに、あるいはもっと無関心に、ただ隣で弁当を食べ続けていたはずだ。
だが、この数日間、俺は隣の席で彼女を観察し続けてしまった。 それが間違いの始まりだった。
(……一色いろは。お前は、俺には一生できないことをやっているんだよ)
俺は、心の奥底でそう独白する。 彼女の「あざとさ」を、周囲の連中は天然だの性格の問題だのと片付けている。だが、俺の目には違って見えた。 彼女のそれは、血の滲むような努力だ。
誰にどの角度で微笑むか。どのタイミングで甘え、どのタイミングで引くか。グループ内の空気を読み、嫉妬を回避し、期待をコントロールする。それは、二十四時間休むことなく稼働し続ける、超高度な演算処理に他ならない。 彼女は、自分が望まれる姿を演じ続けるために、自らの本心を殺し、摩耗させ、神経を削り取っている。
俺には、それができない。 俺は周囲の期待に耐えられず、空気に馴染むことを放棄し、ぼっちという殻に閉じこもることを選んだ逃亡者だ。 だからこそ、あんなにも薄っぺらで残酷な世界の中で、全力で走り続け、自分の居場所を必死に守り抜こうとする彼女の姿に、俺は奇妙な尊敬を抱いてしまった。
あんな、パンケーキの誘い一つスマートに断れないほどの窮地に彼女を追い込んだ佐藤。 そして、彼女の努力を知ろうともせず、ただ「あざとい」と切り捨てる女子たち。 彼らが彼女の城を土足で荒らし、その努力を無に帰そうとした瞬間、俺の中にあった「何か」が弾けたのだ。
彼女が守りたがっている「一色いろは」という虚像。 それが、あんな低俗なやり取りのせいで、泥にまみれるのが我慢ならなかった。
「……おい」
俺は、視線を空に向けたまま口を開いた。
「さっきの佐藤への言葉は、全部俺の独断だ。お前が何かを頼んだわけでもないし、共謀したわけでもない。……お前はただ、俺という『異常な同級生』に無理やり連れ出された、哀れな被害者でいろ」
一色いろはは、まだ何も言わない。 だが、彼女の呼吸が少しずつ速くなっていくのがわかる。
「お前がこれまで積み上げてきたものが、あんな奴らのせいで壊れるのは、あまりにコスパが悪い。……お前の努力は、あんな場所で消費されるべきじゃないんだよ」
そう。俺がやったのは、彼女への「同情」ではない。 一色いろはという、俺とは正反対のやり方で戦い続けている戦士への、俺なりの「敬意」の払い方だ。 俺が悪者になれば、彼女は清潔なまま、またあの教室という戦場に戻れる。 俺は泥の中に沈み、彼女はその泥を足場にして、また高く跳べばいい。
「……比企谷くん、あなたさ」
ようやく、いろはの口から言葉が漏れた。 震えている。だが、それは恐怖ではない。 自分の中に隠していた、最も見られたくない「根源」を暴かれたことへの、剥き出しの困惑と憤りだ。
「……私のこと、全部わかってるみたいな言い方しないでよ。……あんなの、努力でもなんでもない。ただの、要領がいいだけ。……みんながそう思ってるし、私もそう思ってる。……なのに、なんで……」
「要領がいいだけで、あんな顔はできないだろ」
俺はゆっくりと首を巡らせ、彼女を正面から見た。 そこには、もう「あざとい新入生」の影も形もなかった。 ただ、自分の存在理由を必死に守ろうとする、少女の素顔があった。
「お前がどれだけ必死にその仮面を磨いてきたか、隣の席で見てればわかる。……お前は、すごいよ、一色。俺には逆立ちしても真似できない。だから、その価値を分からない連中に、お前の時間を安売りさせるな」
いろはの瞳に、湿った光がともる。 だが、彼女はそれを見せることを拒むように、強く目を閉じた。
彼女は理解したのだ。 この比企谷八幡という男は、自分の「あざとさ」を軽蔑しているのではなく、むしろその背後にある執念を肯定しているのだと。 そして、その肯定が、彼女にとってはどんな罵倒よりも恐ろしく、抗い難い共犯への誘いであることを。
俺の心臓は、重く、静かに脈打っていた。 自己犠牲。それは、俺にとって唯一にして絶対の方法。 誰かを救うことで、自分の存在を許されたいと願う、卑屈な傲慢さ。 けれど、この瞬間、俺が感じていたのは、そんな自己満足ではない。
一色いろはという、自分とは違う青春を目指して走る背中を、少しだけ支えてやりたい。 そんな、ガラにもない、春の陽気のせいにしてしまいたいほどの、小さな純粋さだった。
「……比企谷くん、最低」
いろはが、絞り出すような声で言った。
「……あんなやり方して、私に一生消えない『負い目』を作らせて。……もう、私のこと、利用するしかなくなっちゃったじゃない……」
彼女は目元を袖で拭うと、再び俺を睨みつけた。 その瞳には、すでに「一色いろは」の強さが戻っていた。 ただ、そこには、これまでの「あざとさ」とは違う、一筋の昏い光が宿っている。
「……責任、取ってもらうからね。比企谷くん。……あなたを、ボロボロになるまで使い倒してやるんだから」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ口角を上げた。 ああ、それでいい。 俺のようなゴミ溜めは、誰かの役に立って消費されるのが一番お似合いだ。
「……望むところだ。……ただ、高くつくぞ」
非常階段を吹き抜ける風が、二人の間の境界線をかき消していく。 比企谷八幡と一色いろは。 「留年生」と「女王」。 全く交わるはずのなかった二人の歯車が、最悪の形で噛み合い、回り始めた。
「……さてと」
一色いろはが、短く息を吐いた。その一音を合図に、彼女を包んでいた剥き出しの空気は霧散し、代わりに、見慣れた「一色いろは」という強固な装甲が再構成されていく。
彼女はスカートの皺を丁寧に伸ばし、乱れた栗色の髪を指先で整えた。ポケットから取り出した小さな手鏡で目元をチェックする。そこにはもう、涙の痕跡も、自分をさらけ出したことへの動揺も残っていない。
わずか数分。その短時間で、彼女は「自分」という名の商品を、再び市場価値のある状態まで修復してみせた。その見事な手際に、俺は皮肉な称賛を禁じ得ない。
「比企谷くん、顔。……そんなにジロジロ見られたら、私、変な勘違いしちゃいますよ?」
鏡をしまった彼女が、小首を傾げて微笑む。 先ほどまでの重苦しい告白が嘘のような、いつもの「あざとい」笑顔。だが、その瞳の奥には、俺だけが知る共犯の印が深く刻まれている。
「……勘違いされるような要素は一つもない。それより、本当にいいんだな? 教室に戻れば、俺は『一色を無理やり連れ出した狂犬』だ。お前はそれを最大限に利用して、清純な被害者を演じなきゃならない」
「わかってますよ。……比企谷くんが最悪な振る舞いをしてくれたおかげで、私は『怖い思いをした可哀想な女の子』っていう、最強の免罪符を手に入れたんですから。佐藤くんたちの誘いも、これからは『あの比企谷くんがまた来たら怖いから』って理由で、角を立てずに断れますし」
いろはは階段を一歩下り、俺の横を通り抜けようとして、立ち止まった。 彼女の肩が、俺の腕に微かに触れる。
「……最低な解決法。でも、私には一番都合がいい。……だから、あっちでは徹底的に嫌われてくださいね? 私が『比企谷くんって本当に酷い人だよね』って周りに合わせても、傷つかないでくださいよ?」
「傷つく心なんて、一年前の事故の衝撃で粉々になって、リハビリでも治らなかった。……気にするな。お前の平穏が守られるなら、俺の評価なんていくらでもマイナスに振り切れていい」
俺がそう告げると、いろはは一瞬だけ足を止め、何かを言いかけたように唇を動かした。だが、彼女はそれを飲み込み、前を向いて歩き出す。
「……行きましょうか。私の『お城』を取り戻しに」