予鈴が鳴る直前。俺といろはが教室に戻ると、室内は不自然なほどの静寂に包まれた。
佐藤は自分の席で、苦虫を噛み潰したような顔をして俯いている。取り巻きたちも、こちらと目を合わせようとはしない。クラス全体の視線が、俺という「不気味な異物」への恐怖と嫌悪、そしていろはへの「大丈夫だったか?」という心配に二分されていた。
「一色さん、大丈夫!? あいつ、何か……」
案の定、女子グループの一人がいろはに駆け寄る。 いろはは、少しだけ肩をすくめ、困ったような、それでいて怯えたような、絶妙な弱々しさで微笑んだ。
「……うん、大丈夫。ちょっと、怖いこと言われちゃったけど……平塚先生のところに行かなきゃいけなかったみたいで」
彼女がそう言うと、周囲の視線が一斉に俺に突き刺さる。 針の筵? いや、もはやそんな生易しいものではない。俺は今、このクラスという社会において、公式に「排除されるべき悪」として認定されたのだ。
俺は誰とも目を合わせず、自分の席に座った。 カバンから教科書を取り出す。その一連の動作さえも、周囲には不気味な威圧感を与えているようだった。
「(……信じらんない、あの人)」 「(留年生だからって、調子乗ってるよね)」
囁き声が波のように押し寄せる。 成功だ。 俺へのヘイトが溜まれば溜まるほど、相対的に一色いろはの「清廉さ」は際立ち、守られるべき対象として再構築される。 俺が築いたゴミ溜めの上で、彼女はまた、女王としての玉座を固めていく。
ふと、隣の席で、いろはが教科書を開く音がした。 彼女は正面を向いたまま、クラスメイトたちに囲まれ、再び中心へと戻っていった。
だが、その喧騒の合間。佐藤たちが別の話題に意識を逸らし、周囲の監視がふっと緩んだ、わずか一秒に満たない瞬間。
一色いろはが、こちらを向いた。
そこには、男を転がすための上目遣いも、自分を守るための困り顔も、女子の目を意識した天然の仮面もなかった。
「…………」
彼女は、声を出さずに笑った。 それは、いたずらに成功した子供のような、あるいは、信頼できる悪友に見せるような、一点の曇りもない、本当の笑顔に見えた。
計算も、あざとさも、生存戦略もそこにはない。 ただ、この最悪な世界で、自分を理解し、自分のために泥を被った唯一の隣人に対する、彼女なりの最大限の報酬。
(…………。……反則だろ、それは)
俺は慌てて視線を教科書に落とした。 心臓が、少しだけうるさく脈打つのを感じる。 一色いろはという少女が、一筋縄ではいかない劇物であることを、俺は改めて思い知らされた。
彼女は、俺を利用すると言った。 俺は、彼女のために消費されると言った。
その共犯関係の契約書に、今、彼女の本当の笑顔という名の、消えない刻印が押されたのだ。
「……比企谷くん、ノート。端っこ、折れてますよ? だらしないんだから」
いつもの、あざとい声。 俺は答えず、ただ無言でノートを直した。
教室に差し込む午後の光は、相変わらず不公平に二人を照らしている。 だが、俺の隣に座る少女の横顔は、朝よりも少しだけ、誇らしげに見えた。放課後の特別棟は、まるで時が止まったかのような錯覚を覚えさせる。 人影は疎らで、廊下の突き当たりから差し込む西日が、埃のダンスを黄金色に染め上げていた。
俺は、一階下の1年F組という「一色いろはの王国」から脱出し、この奉仕部へと辿り着いた。隣の席で繰り広げられるあざとい全方位外交と、それによって俺の背中に積み上がるヘイトの山。その重圧から逃れるには、この毒舌の鉄の処女が支配する部室の方が、まだ呼吸がしやすい。
「……遅かったわね、比企谷君。一年遅れた生活リズムが、まだ身体に馴染んでいないのかしら?」
扉を開けるなり、雪ノ下雪乃が文庫本から目を離さずに言った。
「馴染むも何も、俺の時間は去年の事故から半分フリーズしてるんだよ。……それより、部員が一人もいないのに『部』として成立してるのか、ここは」
「あら、部員ならここに一人いるわ。そして、もう一人、部員候補という名の不法投棄物が今入ってきたところよ」
雪ノ下は優雅に栞を挟むと、ようやくこちらを向いた。 その瞳には、相変わらず鋭い理知が宿っているが、俺を眺める視線のどこかに、一年前にはなかった「観察者」としての執着が混じっている。
「……座りなさい。あなたのその、無駄に広い歩幅で歩き回られると、空気が濁るわ」
「無駄に広くて悪かったな。……リハビリの先生には、これくらいが丁度いいって言われてたんだよ」
俺がパイプ椅子を引こうとした、その時だった。
コンコン、と控えめな、しかしどこか急いたようなノックの音が響いた。
「……どうぞ」
雪ノ下の許可を得て、扉がゆっくりと開く。 そこに立っていたのは、この静謐な部室にはおよそ似つかわしくない、陽だまりのような暖かさを纏った少女だった。
「……あ、あの、失礼しますっ! ……ヒッキー、やっぱりいた……!」
由比ヶ浜結衣。 二年生。去年の入学式の朝、俺の足と将来の計画をへし折った、あの「サブレ」という名の犬の飼い主だ。
彼女は俺の姿を認めるなり、ぱあっと表情を明るくさせた。 だが、その直後。彼女の瞳に、言いようのない切なさと、申し訳なさが濁りのように混じる。彼女が俺に向ける笑顔は、いつだって「罪悪感」というフィルターを通している。
「……由比ヶ浜さん。二年生の教室からは少し遠かったのではないかしら?」
雪ノ下が、わずかに声音を和らげて言った。二人は、病院の見舞いで話した仲である。
「あ、うん。ゆきのん、ごめんね。……どうしても、今日お願いしたいことがあって……」
由比ヶ浜は、俺の隣の席、正確には、俺のパーソナルスペースを侵さない程度の、しかし手が届きそうな距離に座った。
「……ヒッキー。足、もう本当に平気? 階段とか、辛くない?」
「……いつの話をしてるんだよ。もう一年経った。今は全力疾走以外なら普通にこなせる。……由比ヶ浜こそ、二年生になって一年生の棟に顔を出してると、変な噂が立つぞ」
「そんなの気にしないよ! 私……私、ヒッキーが学校に来れるようになるのを、ずっと待ってたんだから」
由比ヶ浜の声が、少しだけ震えた。彼女の向けた真っ直ぐな好意。
……けれど、俺はそれをそのまま受け取ることができない。 彼女の優しさは、俺を留年させてしまったという負い目から来る「償い」ではないのか。あるいは、自分を救ってくれた見知らぬ少年への、過剰な神格化ではないのか。
「……それで、依頼というのは?」
雪ノ下が、冷たくも温かい、絶妙なトーンで介入した。
「あ、えっとね。……私、クッキーを作れるようになりたいの」
由比ヶ浜は、自分の指先をいじりながら、少しだけ頬を染めた。
「ある人に、渡したくて。……その、お礼っていうか、ずっと伝えられなかったことがあって。でも、私すっごく不器用だから、自分一人じゃ絶対炭にしちゃうし……」
「……誰に渡すんだよ、そんなもん」
俺の問いに、由比ヶ浜は一瞬、俺の瞳をじっと見つめ、それから慌てて視線を逸らした。
「え、えっと、それは秘密……かなっ! でも、すっごく大切な人で。……その人が、ちゃんと前を向いて歩けるように、背中を押せるような、そんなクッキーが作りたいんだ」
(……大切な人、ね)
俺の捻くれた脳内回路が、即座に「それは俺のことか?」という可能性を演算する。
だが、次の瞬間にはその案を力一杯棄却した。 自意識過剰も甚だしい。彼女にとっての「大切な人」が、一年前の事故で助けただけの、今や一年遅れの不気味な留年生であるはずがない。おそらく、噂の葉山隼人のような人気者か、あるいは別の先輩だろう。
「……ふん。わざわざクッキーなんて手間のかかるものを焼くなんて、合理的じゃないな。コンビニのギフト用でも買っておけばいいだろ」
「ヒッキーは、相変わらずそういうこと言う……! ……でも、そういうところも、変わってなくて、ちょっと安心しちゃうかも」
由比ヶ浜は、クスクスと笑った。その笑顔には、俺への「甘え」が含まれている。 彼女は、俺が何を言っても自分を嫌いにならないと信じている。あるいは、自分が嫌われても構わないほどの献身を、俺に捧げようとしている。
「……いいわ。その依頼、奉仕部として引き受けることにしましょう」
雪ノ下が、凛とした声で宣言した。
「ただし、条件があるわ。……比企谷君。あなたもこの依頼に協力しなさい」
「……はぁ? 俺は食べる専門だぞ。料理なんて、一年の療養中に覚えたのはインスタントラーメンの待ち時間の管理くらいだ」
「あら、丁度いいわね。……由比ヶ浜さんのクッキーが、果たして人間が摂取しても問題ないレベルに達しているか、あなたのその鈍感な舌で判定してもらう必要があるもの」
雪ノ下は、俺と由比ヶ浜を交互に見た。 彼女の瞳には、微かな悪戯心が宿っていた。
「……由比ヶ浜さん。あなたはクッキーを作れるようになる。そして、比企谷君。あなたは、彼女のその想いを、真っ正面から受け止める練習をしなさい。……これが、今回の依頼の、私なりの解決策よ」
「ゆきのん……! ありがとうっ!」
由比ヶ浜が、雪ノ下の手を握る。 俺は、窓の外でオレンジ色に燃える夕日を見つめながら、これから始まる甘ったるい地獄を想像して、小さくため息をついた。
2年生の先輩としての、重すぎる罪悪感と好意を抱えた由比ヶ浜。 それを奉仕部の活動という大義名分で、俺に無理やり突きつけようとする雪ノ下。
俺の平穏なはずの午後は、どうやら誰かの焼いたクッキーのように、甘くて、不器用で、ひどく脆いものになりそうだった。家庭科室に漂う空気は、甘い香りというよりは、何かが終末を迎える直前の焦燥感に近いものだった。
ステンレスの調理台。並べられたボウルと泡だて器。その前に立つ由比ヶ浜結衣は、まるで爆弾の信管を取り除く作業に従事している兵士のような、悲壮な決意を顔に浮かべていた。
「……由比ヶ浜さん。さっきから言っているけれど、卵を割るというのは、殻を粉砕して中身に混ぜ込むという意味ではないのよ」
雪ノ下雪乃が、眉間を指先で押さえながら、氷点下の溜息をついた。 彼女はエプロン姿ですら、どこかの名門の令嬢が嗜みで料理をしているような、隙のない美しさを保っている。
「うぅ……ごめん、ゆきのん……。でも、なんか気合入っちゃって、力加減が……」
「気合を入れる場所が間違っているわ。料理は科学よ。感情を乗せすぎるから、あなたのボウルの中身は、さっきから形容しがたい不定形な物体に変質し続けているの」
雪ノ下は、俺の方を鋭い視線で射抜いた。
「……比企谷君。あなたも、そこで死体のように佇んでいないで、彼女の進捗を監視しなさい。何かあればすぐに平塚先生か、あるいは救急車を呼べるように準備しておくことね」
「俺を緊急連絡網のハブにするな。……大体、俺みたいな素人が口を出しても、混乱を招くだけだろ」
俺は調理台から少し離れた椅子に座り、彼女たちの作業を眺めていた。 由比ヶ浜結衣。 二年生の彼女が、一年生の棟にある家庭科室で、こうして不器用に格闘している理由。 それは、一年前のあの日、俺の前に飛び出したあの犬……サブレを助けた俺に対する、彼女なりの答えなのだと、頭では理解している。
病院で、包帯だらけの俺を前に、彼女は何度も頭を下げていた。 あの時の彼女の目は、今のように明るいものではなく、絶望に近い後悔に濡れていた。 だからこそ、今、彼女が俺に向けるこの献身的なまでの態度は、俺には眩しすぎて、直視できない。
「……ねえ、ヒッキー。ちゃんと見ててね? 私、絶対おいしいの作るから!」
由比ヶ浜が、頬に小麦粉をつけたまま、こちらを向いて笑った。 その笑顔には、先輩としての余裕など微塵もない。ただ、自分の失敗で誰かの時間を奪ってしまったという負い目を、どうにかしてプラスの形に変えようとする、必死な祈りが宿っている。
「……ああ、見てるよ。だから、その泡だて器を凶器のように振り回すのはやめろ。危ない」
「もー、ヒッキーはすぐそういうこと言うー!」
そんな軽口を叩き合えるほど、俺たちの距離は近くないはずだった。 見舞いに数回来ただけの関係。俺が留年し、彼女が一つ上の学年になったことで、その縁は立ち消えるはずだったのだ。 それなのに、彼女はこうして、俺を「ヒッキー」と呼び、自分の不器用さを晒してまで近づこうとする。
調理開始から一時間。 オーブンから漏れ出してきたのは、香ばしい匂いというよりは、炭鉱の深部から漂ってくるような、不穏な焦げ臭さだった。
「……完成、かな?」
由比ヶ浜が、おずおずと天板を取り出した。 そこに並んでいたのは、クッキーというよりは、太古の遺跡から発掘された、名もなき石ころのような物体だった。形は不揃いで、端の方は真っ黒に炭化している。
「…………これは、前衛芸術かしら? それとも、新しいタイプの建築資材?」
雪ノ下が、心底呆れたように呟いた。
「ゆ、ゆきのん、酷いっ! ……あ、でも、裏返せば……ほら!」
「裏返しても、絶望が反転するだけよ。……比企谷君。あなたの出番よ。毒見役としての名誉を授けるわ」
「名誉じゃなくて処刑だろ、それは」
俺は溜息をつき、立ち上がった。 由比ヶ浜が、その「石ころ」の一つを、震える手で皿に載せ、俺に差し出してくる。
「……あ、あのね。……ヒッキー。……見た目は、その、ちょっとアレだけど……私、ヒッキーのことを想って、一生懸命作ったから。……食べて、ほしいな」
彼女の瞳は、真剣だった。 一年前、俺に頭を下げていた時の、あの暗い影が、今の彼女の瞳にはない。 代わりに、そこにあるのは、俺に対して「何かを届けたい」という、真っ直ぐで、あまりに純粋な熱意だ。
一色いろはの「あざとさ」とは対極にある、剥き出しの真心。 それは、俺のような捻くれた人間にとっては、最も防御不能な攻撃だった。
「…………いただきます」
俺は、その黒焦げの物体を口に放り込んだ。 瞬間、ガリッという、歯が欠けるのではないかという衝撃と共に、暴力的なまでの苦みと、ジャリジャリとした砂糖の塊の甘みが、口の中で喧嘩を始めた。
「…………ごふっ」
「ヒ、ヒッキー!? 大丈夫!?」
「……ああ。……大丈夫だ。……死ぬほど、苦いけどな」
俺は、水を一気に飲み込み、ようやく一息ついた。 ……正直、味は最悪だ。料理と呼ぶのもおこがましいレベルだと言える。
けれど。 その苦みの奥に、ほんの少しだけ、温かい感覚が残った。由比ヶ浜結衣は、一年前の事故を、単なる「負債」として終わらせたくなかったのだ。俺を留年させてしまったという事実を、謝罪だけで終わらせるのではなく、俺という存在を肯定し、支えるための「理由」に変えたかったのだ。
(……お前、お人好しすぎるだろ)
自分の不器用さに涙目になりながらも、俺の反応を待っている彼女。俺は、彼女のその「不器用な優しさ」に、どうしようもなく好意的な感情を抱いてしまった。それは恋だの愛だのといった高尚なものではない。 ただ、この冷たい世界の中で、自分のために必死に手を動かしてくれる人間がいるという事実に、俺の凍てついた心が、ほんの少しだけ融解したのだ。
「……不味い。不味すぎて、一周回って笑えてくるレベルだ」
「えぇー!? そんなに!?」
「ああ。……でも」
俺は、残りのクッキーを一つ、手に取った。
「……想いだけは、伝わったよ。ご馳走様」
俺の言葉に、由比ヶ浜の顔が、火がついたように真っ赤になった。 彼女は、あわあわと手を振りながら、それから、今まで見たこともないような、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「…………っ、もう! ヒッキー、絶対リベンジするからね!」
彼女は、拳を握りしめて宣言した。
「今度は、ゆきのんに頼らなくても、私が一人で……ヒッキーが『おいしい』って言うまで、何回でも焼くんだから! ……覚悟しててね!」
雪ノ下は、そんな彼女を、どこか眩しそうな、温かい目で見守っていた。家庭科室に満ちた、炭の匂いと、微かな甘さ。 俺と、二人の先輩。 一年前のあの日、最悪の形で出会った俺たちは、今、この煙った空気の中で、ようやく本当のスタートを切ったのかもしれない。
……まあ、次に彼女が作るものが、食べられるレベルであるという保証は、どこにもないのだけれど。