同級生一色いろは、留年生比企谷八幡   作:10気筒VTEC

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債務履行

放課後の教室というのは、一種の祭りの後のような空虚さを孕んでいる。部活動へと急ぐ足音や、正門へ向かう喧騒が遠ざかり、残されたのは西日に照らされた無機質な机と、静かに降り積もる埃の気配だけだ。

 

 俺はカバンを手に取り、奉仕部という名の矯正施設へ向かおうとしていた。だが、その歩みは、隣の席から伸びてきた華奢な手に、制服の袖を掴まれることで強制的にストップさせられた。

 

「……あ、見ーつけた。比企谷くん、どこ行くんですかぁ?」

 

 耳を掠める、甘ったるいシロップのような声。  振り返らなくてもわかる。一色いろはだ。  彼女は周囲に誰もいないことを確認すると、袖を掴んでいた手を離し、俺の机の上にちょこんと腰を下ろした。短いスカートから伸びる脚が、西日に白く光っている。

 

「……見ての通り、下校の準備だ。あるいは、自分の存在の希薄さを噛み締めるための放浪の旅だな」

 

「何言ってるんですか、キモいですよ。……はい、これ」

 

 いろはは、手に持っていた数枚のプリントと、分厚い資料の束を俺の胸元に押し付けてきた。

 

「……なんだこれ。ゴミの回収日なら昨日終わったぞ」

 

「失礼ですね。先生から頼まれた、新入生アンケートの集計と、クラスの備品リストの照合ですよ。……比企谷くん、これ今日中にやっといてくださいね?」

 

 彼女は、小首を傾げて「えへへ」とあざとく笑ってみせた。  だが、その瞳の奥には「断る選択肢なんてないですよね?」という、有無を言わさぬ圧力が宿っている。

 

「……おい。お前、これは確かクラス委員の仕事だったはずだろ。俺はただの無役の留年生だぞ」

 

「いいじゃないですかー、比企谷くん。どうせ暇でしょ? 私、これから友達と買い物に行く約束しちゃってて。……それに、比企谷くんって数字とか細かーくチェックするの、得意そうですし」

 

「……お前、俺をなんだと思ってるんだ」

 

「え? ……『私のことがわかっちゃう、便利なお隣さん』?」

 

 いろはは、机の上で身を乗り出してきた。  至近距離で交差する視線。  彼女の纏う「あざとさ」は、もはや俺を騙そうとするためのものではない。自分の内面を隠すための鎧を、俺の前でだけは、あえて「飾り」として身に付けているような、そんな歪なリラックス感。

 

 彼女にとって、俺は自分の黒い部分を最初に見抜いた男だ。  だからこそ、他の男子のように機嫌を取る必要もなければ、女子のように顔色を窺う必要もない。  俺の前でだけは、彼女は最悪な「一色いろは」のままでいられる。

 

「……ふぅ。……お前、これ以上俺のヘイトを買ってどうするんだよ。佐藤たちの視線、まだ痛いんだぞ」

 

「いいじゃないですか。比企谷くんは元から嫌われ耐性100パーセントの鋼メンタルなんですから、ちょっとくらい増えても誤差ですよ、誤差」

 

「誤差で済まされる俺の人生って……」

 

 俺は呆れたように溜息をつき、押し付けられた資料に目を落とした。  ……全く。  文句を言いながらも、俺の体はすでに作業のために椅子を引き直している。  自分でも呆れるほど、俺はこの利用されている状況に、奇妙な安心感を覚えていた。

 

 雪ノ下や由比ヶ浜といった先輩たちは、俺に救いや更生を求めてくる。それは、俺にとってどこか息苦しく、身の丈に合わない光だ。  けれど、一色いろはが持ってくるのは、純粋な欲望と利用価値の提示だ。  この泥沼のような関係性の方が、俺にはずっと、呼吸がしやすい。

 

「……比企谷くん。……ありがと」

 

 不意に、いろはが小さな声で呟いた。  あざといトーンを脱ぎ捨てた、素の声。  彼女は、教室の窓の外を見つめながら、所在なげに足を揺らしている。

 

「……別に。お前に恩を売っておけば、後で高く売りつけられそうだからな」

 

「ふふ、やっぱり性格悪い。……でも、そういうところ、嫌いじゃないですよ。……みんな、私の表面しか見てくれないから」

 

 西日に照らされた彼女の横顔は、一瞬だけ、年相応の少女の脆さを覗かせた。  全方位に気を配り、完璧な可愛いを演じ続ける毎日。その防波堤が、俺の前でだけは、わずかに崩れるのを許している。

 

 俺といろは。  この放課後の静寂の中で、俺たちは共犯者という名前の、実体のない温もりに触れていた。

 

「……比企谷!」

 

 突然、廊下から凛とした、しかしどこか険しい声が響いた。  扉が開かれ、白衣をなびかせた平塚静が現れる。

 

「平塚先生……。なんですか、また説教なら後回しに……」

 

「貴様に新たな『案件』だ。奉仕部に由比ヶ浜が来ている。すぐに来い。……それと、一色。貴様もあまり比企谷をこき使うなよ。こいつのHPはすでにマイナスなんだからな」

 

「あはは、先生、人聞きの悪いこと言わないでくださいよー。私はただ、比企谷くんにお手伝いをお願いしてただけですっ」

 

 いろはは、一瞬で「愛想の良い新入生」の顔に戻り、手を振ってみせた。  

 

「……悪い、一色。続きは後でやっておく。……行ってくる」

 

 俺は資料をカバンに詰め込み、平塚先生の後を追うように教室を後にした。  由比ヶ浜。先輩。……また、あの甘い罪悪感に塗れた時間が始まるのか。

 

 教室に残された、一色いろは。  彼女は、俺が去った後の冷え切った空気を見つめ、そっと自分の胸に手を当てた。

 

「…………なにこれ」

 

 不意に訪れた、自覚のない「寂しさ」。  さっきまでそこにあった、自分の毒をすべて受け止めてくれていた、不気味で心地よい背中がいなくなっただけなのに。

 

「……さてと。私も、買い物……行くかな」

 

 いろはは、無理やり明るい声を出して立ち上がった。  だが、その足取りは、いつもの女王のような軽やかさを、ほんの少しだけ欠いているようだった。

 

 春の夕暮れ。  隣の席の距離が、今までで一番、遠く感じられた瞬間だった。

 

 

奉仕部の部室。夕日が沈みかけるこの時間は、オレンジ色の光が廊下から侵食し、室内の影をより深く、長く引き伸ばす。机の上には、可愛らしくラッピングされた小さな袋が置かれていた。  

 

かつての炭の塊からは想像もつかない、甘く香ばしい匂いが漂っている。由比ヶ浜結衣が、この数日間、どれほどの時間を家庭科室で費やしたのか。その答えが、この袋の中に詰まっていた。

 

「……できたよ。ヒッキー」

 

 由比ヶ浜は、パイプ椅子の背もたれをギュッと握りしめ、上気した顔で俺を見つめていた。  二年生の彼女が、一年生である俺の前に立ち、まるで告白を控えた少女のような瑞々しい緊張感を纏っている。

 

「……ゆきのんにも、いっぱい手伝ってもらっちゃったけど。……でも、これは、私がちゃんと全部、ヒッキーのことを考えて焼いたやつだから」

 

 俺は、そのラッピングされた袋をじっと見つめる。  由比ヶ浜結衣。  一年前の事故の当事者。俺を救い、そして俺を留年させてしまった彼女。  彼女の向けた視線には、もう申し訳なさだけでは説明のつかない、熱を帯びた何かが宿っていた。

 

「……食べても、いいのか」

 

「うん。……食べてほしい」

 

 俺は袋を開け、中からクッキーを一つ取り出した。  表面は滑らかで、程よい焼き色がついており、チョコチップの配置さえも丁寧だ。  一口噛むと、サクッとした食感と共に、バターの豊かな風味とチョコの甘みが広がった。  ……不覚にも、美味い。

 

「…………ああ。美味いな。普通のクッキーだ」

 

「……本当!? 良かったぁ……!」

 

 由比ヶ浜は、弾けるような笑顔を見せた。  その瞬間、俺の胸の奥に、甘ったるい泥のような感情が沈殿した。    これは、施しだ。  あるいは、慈悲だ。  事故で人生の歯車を狂わされた哀れな少年に対して、心優しい先輩が差し伸べてくれた、甘すぎる飴玉だ。

 

 俺は、その優しさに、無意識のうちに甘えていた。  由比ヶ浜結衣が、俺の隣で笑っていてくれること。俺を「ヒッキー」と呼び、まるで何の壁もないかのように接してくれること。それに、どこか救いを感じていた。  だが。  そんな甘えを許し続ければ、俺はいつか、彼女の優しさがなければ呼吸もできない怪物になってしまう。

 

「……ご馳走様。由比ヶ浜」

 

 俺は、残りの袋を机の上に置いた。

 

「これで、貸し借りなしだ」

 

 俺の冷え切った声に、由比ヶ浜の笑顔が凍りついた。

 

「え、……貸し借り、って……」

 

「クッキーの代金だ。俺がお前の犬を助けた対価として、お前は美味いクッキーを焼いた。……これで、一年前の事故の件は、すべて清算された。お前が俺に負い目を感じる理由も、わざわざ一年生の棟まで通う理由も、もうない」

 

「……待ってよ、ヒッキー。私は、そんなつもりで……」

 

「お前にそのつもりがなくても、俺にはあるんだよ」

 

 俺は立ち上がり、彼女から視線を逸らした。

 

「俺は、憐れみの目で見られるのが一番嫌いなんだ。……お前みたいな『優しい先輩』に構ってもらえるのは、確かに悪い気分じゃなかった。でも、それはただの麻薬だ。……もう、十分だよ。お前は、自分の学年の、自分の居場所に戻れ」

 

 残酷な沈黙が、部室を支配した。  由比ヶ浜の大きな瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。  彼女は、何かを言おうとして唇を震わせたが、結局、言葉にならずに俯いた。  俺が彼女の真心を、「貸し借り」というビジネスライクな言葉で踏みにじったからだ。

 

「…………」

 

 部室の隅で、それまで静観していた雪ノ下雪乃が、わずかに反応を見せた。  彼女は本を握る手に力を込め、何かを言いたげに、あるいは俺を軽蔑するかのように視線を動かした。  

だが、彼女もまた、俺と由比ヶ浜の間にある貸し借りに、部外者として踏み込むことはできなかった。 雪ノ下は、一瞬だけ俺と目を合わせ、それから悲しげにまつ毛を伏せた。それが、彼女なりの微かな、しかし精一杯の拒絶だったのかもしれない。

 

「……それじゃ、失礼します」

 

 俺は、泣きそうな由比ヶ浜の背中を無視して、部室の扉を開けた。  背後で、由比ヶ浜が鼻をすする音が、微かに聞こえた。

 

 廊下へ出ると、春の冷たい風が吹き抜けた。口の中に残るチョコの甘みが、今はひどく苦く感じられた。    

 

これでいい。由比ヶ浜結衣という光に、これ以上近づいてはいけない。俺は、俺だけの泥沼に戻らなきゃいけないんだ。    

 

俺は一人、薄暗い廊下を、重い足取りで歩き出した。ポケットの中には、一色いろはから押し付けられた雑用の資料が残っている。利用し、利用される。そんな歪な関係の方が、今の俺には、ずっと相応しい気がしていた。

 

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