昨日、俺は一つの関係を終わらせた。 由比ヶ浜結衣という、眩しすぎる光。それを貸し借りという冷酷な言葉で遮断し、俺は自ら選んで、再び暗い泥沼へと沈み込んだ。
放課後の1年F組。 喧騒が去った後の教室で、俺は窓の外を眺めていた。空は不気味なほど鮮やかな茜色に染まり、校庭を走る運動部の声も、今の俺には遠い異世界の音にしか聞こえない。
奉仕部には、行かなかった。 あそこに行けば、雪ノ下雪乃の軽蔑に満ちた瞳と、由比ヶ浜の泣き腫らした顔に直面することになる。それは、鋼のメンタルを自称する俺にとっても、少しばかり荷が重すぎた。
「……はぁ」
思わず漏れた溜息が、誰もいないはずの空間に溶ける。 俺は、自分が正しいことをしたと信じている。あいつの優しさに甘え続ければ、いつか俺は本当の意味で立ち上がれなくなるからだ。けれど、胸の奥に残るこの空洞は、一体何なんだろう。
「……なーに、たそがれてるんですか。キモいですよ、比企谷くん」
不意に、真後ろから声がした。 振り返るまでもない。この、糖分過多な癖に芯が冷え切っている声の主は、世界に一人しかいない。
「……一色か。お前、まだ残ってたのか」
「失礼ですね。私はクラス委員のお仕事をしてたんです。……比企谷くんこそ、奉仕部に行かなくていいんですか? 今日はなんだか、いつにも増して『お迎え』が来る気配がありませんけど」
一色いろはは、俺の隣の席に座り、机に頬杖をついて俺の横顔を覗き込んできた。 彼女の瞳は、相変わらず計算高く、そして鋭い。
一瞬、俺たちの視線がぶつかった。 いろはの瞳が、わずかに細められる。彼女は、俺の死んだ魚の目の奥にある、昨日まではなかった微かな揺らぎを、瞬時に見抜いたようだった。
(……あ、こいつ)
いろはの脳内で、高速の演算が行われる音が聞こえた気がした。 比企谷八幡、メンタル低下中。原因は不明だが、おそらく奉仕部の先輩たちとの間でトラブルがあった。今、こいつは拠り所を失い、脆くなっている。
彼女の唇が、わずかに吊り上がる。 それは慈悲ではない。弱った獲物を見つけた捕食者の、冷徹でいて、どこか楽しげな色。
「……ふーん。なるほど。……捨てられちゃったんですね、比企谷くん」
「……捨てられたんじゃない。俺が捨てたんだ」
「あは、言い張りますね。……でも、今の比企谷くん、放っておくと勝手にどっかの溝にでも落ちて消えちゃいそう。……そんなことされたら、私の『便利なお隣さん』がいなくなって困るんですけど」
いろはは椅子をガタつかせて立ち上がると、俺のカバンを勝手にひっ掴んだ。
「はい、お散歩の時間ですよ。比企谷くん」
「……は? 何を言って……」
「買い物。……クラスのレクリエーションで使う備品、今日中に買わなきゃいけないんです。重いし、一人じゃ無理だし、何より比企谷くん、暇そうでしょ?」
彼女は、あざとく首を傾げてお願いのポーズを作った。 だが、その瞳に宿っているのは、逃げ道を塞ぐための強い執着だった。 彼女は、俺の弱さを察知した。そして、その弱さを突いて、俺を奉仕部から、あるいは由比ヶ浜結衣という光から、強引に引き剥がそうとしている。
……利用。 そう、これが俺たちの契約だったはずだ。 温かいクッキーよりも、この冷たい利用価値の提示の方が、今の俺にはずっと……救いになる。
「……荷物持ちなら、他を当たれよ。佐藤あたりを呼べば、喜んで尻尾を振ってついてくるぞ」
「嫌ですよ。あんなの連れて歩いたら、私の『あざとい』のバランスが崩れます。……今の私に必要なのは、私を適度に罵倒して、でも絶対に裏切らない、影の薄い荷物持ちなんです」
いろはは俺の腕を掴み、グイと引き寄せた。 至近距離で交わされる呼吸。 彼女は、俺が拒まないことを確信している。
「……いいですよ。比企谷くん。今日だけは、私が、あなたの『居場所』を偽装してあげますから。……その代わり、私のワガママ、全部聞いてくださいね?」
彼女の言葉は、まるで毒を含んだ林檎のようだった。 俺は小さく溜息をつき、奪われたカバンを取り返すと、のっそりと立ち上がった。
「……せいぜい、高くつくぞ、一色」
「あは。領収書なら、後で奉仕部に切っておいてください」
茜色に染まった教室を出る。 一色いろはの弾むような足取りが、俺の止まっていた時間を無理やり動かしていく。 奉仕部でもない、家族でもない。 利用し合うだけの二人。 俺たちは、黄昏時の校舎を、並んで歩き出した。