「嘘でしょ? 信じられない、というか信じたくないわ。誰よ、私の衣装部屋を砂だらけにしたのは!」
その場に居たであろう怠惰な自分へ向け、私は私を怒っている。砂埃が床だけではなく家具の上、最悪な事に予備の制服にまで砂が付着していた。
「自業自得だろう、マスター」
淡々と分かり切った事を喋るおじいちゃんは、バツが悪そうに顔を掻いている。何故だろう、胸騒ぎがする。
左隣に席を置くおじいちゃんの視線が左に逸れて、真っ直ぐ――地面に落ちた窓ガラスの破片を再び見ている。
「……おじいちゃん、そう言えば」
「な、なんだ。マスター、我は無関係だぞ……」
真っ直ぐと注がれる赤が視界を埋め、ホトトギスの鳴き声が耳奥を震わせ、沈黙を誘う。
「ふーん、そうなのねぇー」
「あ、ああ。マスター、ところで学校の支度は……ホームルームとやらに遅れるだろう」
視線を右に傾けるおじいちゃんを凝視する。
普通、視線を合わせたくなければ、対象位置と逆方向を向くはず――
……キモ黒との対決時、おじいちゃんが握っていた武器は短刀ではなく、槍。
「ほらほら! 何も隠してはおらぬぞ、我は」
「おじいちゃん? 身に付けていた短刀は?」
――嘘を付いているわね、おじいちゃん。
「な、何のことだ、マスター。我の所持する武器は長槍のみ。他には……」
真顔で詰め寄る私と目を点にするおじいちゃん。
嘘つきの匂い、桜の甘い香りに織り交ざられた苦虫の異臭――私の鼻孔を印象強く抜け、声が怒りで震える。
……横目で見て分かった、左側に置かれた洋服掛け。
「ねぇ。コレは私の目が悪いのかしら? それ、とも……おじいちゃんの仕業だから、かしら?」
口に残った昨日の血が騒ぐ。
ボロボロだった、左から右斜め下へ――
「いや、それは……マスター? 随分と距離が近いのだが……」
「おじいちゃん、弁明……遺言はコレくらいかしら?」
――ハンガーに掛けていた洋服が無惨にも引き裂かれ、綿が床へ落ちていた。
下に落ちていた短刀を拾い、私はおじいちゃんに迫る。
「許してくれ、マスター。わざとじゃ……仕方のない事だったのだ、短刀を矢のように投げてしまったのは!」
「敵の攻撃で私物が壊されるのは、嫌だけど……百歩譲って許してもいい」
でも。
「なんで、刀を投げるのよ!」
アーチャーでもあるまいし、というか武士道に反していないのかしら、その行動は。怒りながらツッコミを入れる謎漫才をやらされた気分だった。
「あまりに闇と同化するので、印をつけてやろうと一振り……」
「成功したのかしら」
若干棒読みで、テンプレートに沿うような質問を一応、聞いてみた。
「無理だったな、マスター。敵の敏捷性が想像以上に高くて、な」
頭を掻きながらおじいちゃんは、分かりきった結末を話し、真っ青な空が見えているにも関わらず、雷に打たれたように私は声を張っていた。お気に入りの上着を手に抱えながら。
「いやぁぁぁぁぁぁ!」
「だ、大丈夫か? 病院、いや厄払いが先だろうか……」
短刀の落下音が混濁した周波数を一定に保ち。
「も、もう……いいわ……よ」
ギリギリのところで理性が維持される。
風船のようにしおれたギャップにたじろぐおじいちゃんが、マーモットみたいで可愛かった。
……ソレが救いだわ。
おじいちゃんに救われたことは確かで――短刀の件は終わりにするべきだと思う。
「ま、まあ。命と引き換えに二十着の上着が犠牲になったと思えば楽に……」
「マスター。明らかに引きずって……」
懐から純白の布切れを取り出し、私の目元に宛がってくれた。ポンポンと優しく触るおじいちゃんの姿は凛として。
「も、もういいわよ」
「マスター、熱か? 額が赤いぞ?」
「着替えたいの! 制服に……」
「空気を読めず……すまない、マスター」
背中にあった重圧が消え、おじいちゃんの呼び掛けがドアの向こう側に響き、私は胸をそっと撫で下ろす。
……危ない、恥ずかしさのあまり顔が赤くなっていた、なんて答えられないし。
「それよりも。まずは学校へ向かう準備が優先だわ……」
寝室から持ってきた全身鏡を見ながら、反転した頬の傷をそっと撫でる。
あの時、おじいちゃんが異変を察知しなければ私は死んでいた、昨日で二回も命を救われた。
……これが聖杯戦争、なのね。
衣服の重なり、摩擦が素肌を掠め、マイナスな感情を流していく。
「私は出来るわ。杏、アンタはおじいちゃんと約束したはずよ。聖杯を手に入れるって」
木製の縁を握り、鏡の向こうに居る私自身へ誓いを確認する――炎が宿った黒い瞳は消えていない。
……切られた恐怖を克服するのよ、私。
再び触れた切り口がヒリヒリと痛み、両手と意識が震える。
「強くなるのよ、杏。成長すればいいの……止まってはいけないわ、私」
日差しが注がれ、目の前が淡く煌めいた――素肌を埋める暖かさが恐怖を焼き切ってくれるようで、胸の詰まりが流れていくのを感じた。
一瞬。
ほんの少し、冷たい陰りがこめかみを突き抜けた気がした。
……そう言えば、見当たらないわ。
昨日変態サーヴァントと戦ったせいで衣装部屋は荒れに荒れ汚部屋化、砂を被った衣服達が床を舐めるように、そこら中で散らばっている。
「それにしたって、ソフトボールが見当たらないのは不思議だわ」
黒い霞が頭を巡りつつ、おじいちゃんコール。颯爽と、青白い粒子を放ちながら華麗に青い着物が顔を出す。
「ソフトボールの件か、マスター。確か置き場所は……右、透明な衣装ケースの後ろに隠しているはずだ」
人差し指が示す場所へ歩き、両手で透明ケースを右へ引きずり――
「これって……」
――埃が舞う中、見えてくる回答。
「え、ソフトボールは?」
何もなかった、その空間には埃と砂を被った木製の床と白い壁、沈黙だけが残っている。思わず振り返って、おじいちゃんの顔を伺うけれど。
「もう一度、よく探して欲しい。昨夜の戦いで何処かへ飛んだ可能性もある……我も探すぞ、マスター」
パンに味噌汁を合わせて食べる人間を見るくらい、おじいちゃんの見開いた眼と表情は有り得ないと伝えていた。
……私に言われても、無いモノは無いわけだし。
ひと匙の希望を掬い出すように、私の手と視界は周辺を探り動く。
「先の戦闘かーまあ、音だけ聞いていたけれど、激しかったし……離れた場所に落ちているかも。最悪、外に飛んだか」
可能性は箸でつまめるくらいだけど。
床に散らばった衣服を退かし。ハンガーラックに掛けたパンツを左右に動かし。監視カメラ付きハンドボールの居場所を探すが、丸い影一つない。
「右側。廊下に繋がる扉方面を調べてはいるが……無いようだ。マスターは、どうだ?」
「私も同じよ。まだ左側は未調査な箇所があるから、余力があるなら調べて来て欲しいの。多分、それで無ければ窓から外へ出た……」
朝食後に含んだコーヒーの苦味が不穏に喉元の唸りを誘い、全身に鳥肌が立つ。
可能性と言いたかったのに、おじいちゃんの言葉を待たずして予想できる文言。
「……可能性はゼロに等しい。ソフトボールが仮に窓を越えたとするなら、戦闘中の我でも忘れることは無かろう」
冷静に放たれる言葉が理性を更に滑らせ、焦りが脳内をジャンプしていく。
……見つからなければ、ハンドボール部の部長に詰め寄られる。
それだけじゃない、額を指で押しながら捻り出た最悪な答えも待ち構えていた。
「いや、でも……」
躊躇しかけて――
「マスター。我も……大体同じだ」
――ソフトクリームのように柔らかな声色が噤んだ口を走らせる。
「昨夜闘った、変態サーヴァントが、奪った……とか?」
それしか考えられない、頭から吐き出したいほどの予想だった。
「恐らくは……」
秒針が耳奥を静かに差し込み、可憐にコチラへ戻って来る顔面砂まみれのおじいちゃんが沈黙を呼び寄せる。
埃が立つ雰囲気が西部劇に出てくるガンマンのようで、変に恰好が付くのが苛立つところね。
……でも、ほぼ確実にソフトボールは奪われたと見た方が良いのかも。
「そう。なら、込み入った話をしたい所ね……今後の」
「意見には賛成だ、マスター」
その刹那、ドラマのワンシーンにカットが入るように、くぐもった鐘の音が耳奥を震わせ、鮮明な意識が刻まれる。
目の前の掛け時計は午前八時を示していた。
「あ、やらかした!」
驚愕が漏れ出る。
恐怖が滝のように理性の岩盤を削り、落ち着かない足元が自然と寝室へ流れていく。
「そうだった、平日だし……学校、登校日だし。なんで、おじいちゃん。教えてくれなかったのよ、こうなる前に!」
「我のせいでは無いぞ、少なくとも。マスターこそ、時間の管理が疎かではないか? 例えば朝食時間こそ……」
想像以上に――粉コーヒーを床に落としたくらい面倒な答えが返ってきた。
掛かる圧力を無視しながら自室の扉を叩き、リュックを背負い、玄関の鍵を閉め。
……流石に言い過ぎたかも。
左右に咲いた梅の甘酸っぱい香りが鼻孔を掠め、ホトトギスの心地よい鳴き声が胸の高鳴りを抑えた。
おじいちゃんが私と屋敷を守ってくれたから。
足元に映る自分の影が微かに動き、自身の闇を鏡のように反射しているようで、唇が震えた。
「ごめん、おじいちゃん……私、余裕がなくて……生きている事が当たり前の現象だと勘違いしていたの」
灰色の独白が零れる。
思い立って後ろへ全身を翻し、青い着物の揺らぎを前にして思う。
……もっと身も心も強くしなければ、私のせいでおじいちゃんは消えてしまう。
ピタリと両足を付け、顔を下げ、腰を折り――
「理性を上手く制御できず、当たってしまい……申し訳ありませんでした。今後は自分の身体や魔術だけじゃなくて、心も訓練します」
柔らかな春風がうなじを通り、固い沈黙が空間を抜ける。
重く飲み込んだ唾が氷のように冷たく、シャットダウンした視界は悪魔のように黒く、耳に入った羽ばたきがうるさい。
……許されようとは思わないわ、ただ自分の行いに対して責任を持ちたい。
「分かった……受け入れよう、その謝罪」
――私は静かに顔を上げた。
「マスター。分かっているな、この聖杯戦争……単純な能力差で勝てるほど甘くは無いこと……」
「ええ」
噛み締めながら問うおじいちゃんの真っ直ぐな瞳が、今の私には怖く思え、唇を深く噛む。
「マスターに足りていないのは冷静さ……それに尽きる」
確かに――昨夜の戦闘。
浅いモノだったが攻撃を受け、脳の処理と感情が追い付かず、結果的にはおじいちゃんに無駄な耐久を与えてしまった。
「ぐうの音も出ないわ。突然の攻撃に対しては、特に」
ヒリヒリと痛んだ頬の傷を優しく撫で、変態サーヴァントの真っ赤な眼が全身の骨を震わせてくる。
……透明で見えないのか、全身が黒で闇に紛れていたか。
「ああ、驚異的であり脅威でもあるな、マスター」
おじいちゃんの口角が少し上がり、それでいて凛々しい目元は餅のように伸び、満足そうな表情を湛えていた。
「……親父ギャグ」
ギャップ萌え要素がよりにもよって、滑る方向とは――美しい顔パーツが泣いていると思う、というか泣いて欲しい。
「なんだ、マスター? 喜ばないのか? テレビで親父ギャグ特集が組まれている程だが、な」
そんなに首を傾けられても、私がクエスチョンマークを奪い取りたいくらいだわ。
「まったく……でも、おじいちゃんらしいかも、ね」
プハッと含んでいた笑いが沸騰したお湯のように吹き出し、心地の良い春風が口元を通して肺に送られ、全身を巡る。
「その笑い……マスター、これは我のギャグが面白いという事だろうか?」
「いいえ、別……に。だ、けど……可笑しくってさ、この状況が……」
花見のように脳内のあちこちで花が咲いていく感覚。おじいちゃんは怪訝そうに眉をひそめているけれど、そこも面白い。
「まあ、笑ってくれるなら我は満足だ。ところで、マスター学校は?」
心配そうに私の腕時計へ視線を移すおじいちゃん――
「もう、遅刻は確定だし。ゆっくり歩いて行きましょう。一般人が多いと話しにくくなるから。この際、言葉を交えたいわ」
――左腕を後ろに隠し、ゆったりとおじいちゃんの前を歩く。
「了解した、マスター。だが気を付けろ、霊体化した状態では、我はマスターを守れない……」
「己の身は自分で守れ。そう言いたいのでしょう?」
振り返る視界。
吹き流れた青白い粒子が頭上を漂う雲に溶け、建物に潜んでいた影が沈黙に手を伸ばしている。
……また、消えたのね。
胸がキュッと詰まる。
冷たい恐怖が喉元を流れ、足裏に感じるタイルのざらつきが鑢のように理性を削っていく。
「おじ、いちゃん……」
黄金に輝いていた平常心のメッキがパリパリと音を立てて剥がれ落ち、ドス黒い死に張り替えられていく。
……負けてたまるか、畏怖してたまるか、私はおじいちゃんの子孫なのよ。
握った拳が確かな熱を帯びる。
「見ていてよ、おじいちゃん。私は今度こそ逃げずに戦って見せるから!」
口角を上げ、笑顔を作る。
踵を返す私は投げられたコインの表面のように、完璧美少女へチェンジ。
「あ、ああ……」
軽くステップを踏む私の背後で、一線を引いた声色が響いていた。
「私の高校って、海に面しているから人通りが少ないのよ。生徒の登下校が人口密度のピークと言っても過言では無いわ」
だから、霊体化状態のおじいちゃんと会話しても『頭のおかしいヤツ』のレッテル張りは回避できる。
それに――
「敵マスターの奇襲は……と思ったが、車の通行量は多いようだな。安心したぞ、マスター」
――右手に作られた車道は、漁港に繋がれた道路。
敵サーヴァントとマスターも襲ってくることは考えにくい場所に、私は裸の王様として君臨していた。
主要な武器は空気、頼れるのは自分の魔術と、貧相な脚力だけ。
「ちなみに、ここで他マスターあるいは敵サーヴァントの奇襲に遭えば、五割くらいの確率で死ぬかもしれないわね」
唇にひりついた潮のざらつきが心拍を上げていく。
頭上を泳ぐ空の青さが生意気な心を反射しているようだった――女子高校生だし、考え方も青いけれど。
……よくよく考えたら、この発言、フラグだよね?
砂山が一瞬にして崩れるくらいの恐怖が全身を巡り鳥肌を立たせる。身震いに腕を擦り付けながら、キョロキョロと周囲を見渡す。
「ど、どうした……マスター。忍者のように周囲を伺って……」
「嫌な予感がするだけよ、私には分かるの。こういう時って、奇襲とかありそうなのよね」
「例えば?」
「そうねぇー。地上や海よりも――」
バタバタと騒音をはためかせたソレは、白い影を見せながら太陽の光へ消え。
「うっ?」
――一瞬、死体でも落ちたのかと思った。
白い視界、温泉のように生温かい顔面。
「ヴェェェェェェ!」
立ち止まるほどの異臭が悲しみを貫通し、悲鳴を上げさせた。
卵の腐った臭いでもあって納豆と腐った魚を混ぜたようなドブ――
「助けてぇぇぇぇぇぇ! おじちゃん、どうすれば、透明化、か、解除して。取ってぇぇぇぇ!」
――理性という船が混乱の渦に呑み込まれた感じ。
「マ、マスター。落ち着け、我はサーヴァント。霊体化を解除できないぞ?」
「な、なんでぇ! お願い、取ってよ。私、どうしたらいいの⁉」
混濁した香りが強い腐乱臭を誘い、鼻孔を沈めに掛かっていた。
……さようなら、私の嗅覚。
潮の満ち引きの如く、同時に冷静さという砂浜が台頭してくる。
騒いだ己に対して、強い恥ずかしさを感じて耳がやかんのように熱くなっていく。
「マスター、取り敢えず……どうした、鳥の糞尿で具合が悪くなったか?」
おじいちゃんの純粋無垢な疑問が真夏の日差しのように痛い、皮膚が焼けるように、私の首元も熱を帯びる。
……恥ずかしさでね!
いつもの具合で反論を重ねたいところだけど、今は臭すぎる、この視界の処理を優先したい。
「い、一旦……下を向いて、糞を落としてみるわね」
落とそうと下を向きかけた――その背中から、嘲笑するような甲高い鳴き声が耳奥を劈き、冷たい理性の丈がスーっと抜けていくのが分かった。
……捕まえてやる。仲間達の前で見せしめに、あのカモメを丸焼きにして食ってやる!
「今に見ておけよ……人間の怖さを骨の髄まで分からせてやるわっ……ゲェェェェ」
「マスター、大丈夫か?」
排泄物、糞が入ったのだから。
「大丈夫なわけがないでしょう、ウェ……ゲェェェェ」
吐く行為だけは、乙女の沽券に関わるので絶対にやりたくない――臭いで思考と行動が止まる、いや吐き気が言動に挟まる方が正しい表記かもしれない。
「ハンカチで顔を綺麗にした方がいいぞ、マスター。真水は……見つからないようだな」
「洗うのは、学校の蛇口になり、そ……ゲェェェェ!」
このレベルの臭い会話が出来るとは思っていなかった。
制服の胸ポケットからハンカチを取り、目をつぶって糞をコンクリートへ落とす。
……早く、この気持ち悪さから解放されたいわ。
カモメが円を描くように私の頭上をクルクルと回り、凍てつく潮風が首筋をざらつかせ、ガムのようにへばりつく恨み言が太陽の光で焼き切られ、爽やかさが思考を覆う。
「一周回って冷静になってきたかも。しょうがない、物事は常に割り切り!」
「そうだな。流さなければ、いつまで経っても本題には入れないな」
糞が染み付いた腐乱臭ハンカチをビニール袋に包め。再び歩き出しながら、ふと左手の漁港が、目に付く。
日差しがまばらに波立つ海を白く煌めかせ、漁船の影が浮き立っていた。
「本題、ね。その前に……昨日はありがとうね。おじいちゃんが私を守ってくれなかったら、今の私……この景色を見られなかったかも、だから……」
立ち止まり――消波ブロックを打ち付ける波風が私の弱音を消し去る。ドロドロに錆び付いて言えなかった感謝が口元を緩ませていた。
「マスター。改まって、どうした? 何か……」
「変なモノを食べてはいないわよ。綺麗な海だったから、つい言葉が出てしまっただけよ。それに、感情の善し悪しに関わらず、思った事は吐き出したいのよ」
舗装されたコンクリート道のように頑固さは捨てたいと思っている、足裏に広がる冷たさを車のシャドーが私の人影ごと轢いていく。
そう言えば。
「おじいいちゃん? あの変態サーヴァントって、予告なしで私を襲ってきたわよね?」
「そうだな。我や予め設置されていた感知魔術も機能していなかったな……」
おじいちゃんの言葉には間が含まれているようだった、右隣で通り過ぎるトラックの排気音が私の中の予想紙を捲ってくるような。
絞った言葉が耳先をポタポタと掠め――
「であれば、あの甲斐性無しサーヴァントとそのマスターに我々の本拠地を知られた事にはなる」
――おじいちゃんの予想が素肌を冷たく湿らせた。
「ええ、多分……というか、残念ながら私達の拠点は、敵陣に分かってしまったわ」
幸か不幸か。
「未完成の拠点が襲われたわけだ、完璧な要塞に侵入されないだけマシかもしれないな」
「ええ、そうね。ただ、コレは生きていたから言えるのであって、致命傷を負った場合はどうなった事やら……」
揺ら揺らと上下する豆腐メンタルが冷水に揉まれ、水圧の前で崩れ、廃棄される。
……立ち上がれる気がしないわね。
「まあ。マスターなら、立ち直れなかったかもしれないな……」
「何よ、言い過ぎだけど? ぶっちゃけ過ぎるわよ」
「兎にも角にも、だ。ソフトボールの消失と例の甲斐性無しサーヴァントの間には因果関係が少なくともありそうだと踏んでいるが、マスター。どう思う?」
不安という苦いシロップが口内をドロドロに満たし、指先を震わせていく。
……もしかすれば、リオの身に何か起きている可能性もある。
「ええ、私もおじいちゃんと同意見ね。だけど、疑問も出てくるのよね。仮に聖杯戦争と関係があって、私達の居場所を特定したいなら……わざわざソフトボールに監視カメラを仕込む意味もないと思っちゃうのよね」
「マスターの言う通り。それに我々が回収しなかった場合、ソフトボールは学校の部室に放置されていただろう……」
二兎を追う者は一兎も得ず状態だわ、普通なら物事のメリットデメリットくらい考えて実行するはずだけど。
顎に手を当てる。日差しがスポットライトのように頬を焼き付け、アスファルトの臭いが鼻孔をくすぐる。
「なら。目的が違うとか? 回収される事や居場所を特定する事が前提ではない……別の何かが……」
「ふむ。想像が付かないな、マスター。それら二つを主としない目的とは……愉快犯を相手にしているのか、我々は」
真っ直ぐに飛ばない回答が歯痒い。
船の汽笛音が左耳を劈き、自動車のブレーキ音が右側で張り詰めた感情に待ったをかける。
「もう、学校の正門が見えて来たわね。おじいちゃん、ココからはお口チャックで頼むわね。今回の件に関しては、最後まで調べる価値がありそうかも」
足早に横断歩道を渡る。
校門と白い校舎が目に付き、歩みを加速させる。
「着いた、わ……早、く……顔を……」
膝に手を付き、周囲を見渡し蛇口を探す。
正直なところ、ドブのような泡立つ匂いが鼻だけではなく顔の皮膚にまで浸透しそうで、この不快感を速く解消したい思いで一杯だわ。
(あそこじゃないか? マスター、左手の校庭に)
「そう、ね……早く行きましょう」
前屈みの姿勢に芯を入れるように姿勢を整え、右足を踏み込み、歩く――
「何年何組の生徒さんですか?」
「えっ……」
――が、警備員に止められる。
突然の事だった、驚き過ぎて言葉が喉に引っ掛かって、上手く言葉が定まらない。
「全校集会が行われているので、体育館まで案内します。学年を……」
「二、二年三組……です、けど……」
「では。付いて来てください」
「あ、あの。顔を洗ってから行くので、少しだけ待機してもらえませんか?」
頷く警備員に背を向け、蛇口まで歩いていく。
モヤモヤが霞となって視界を灰色に染め、心拍数を上げる。
「何か、可笑しいわ」
(昨日とは大違いだな、警備員の態度は)
「ええ、そうね……」
蛇口を静かに捻り、顔に付いた汚物を落としながら冷えた思考で考えてみる。
……今日、全校集会は無かったはず。
だとすれば、緊急って事になるのだけれど。
ポタポタと零れる疑問が手洗器へ落ち、温かな春風が湿った頬を撫でていく。
……妙に胸騒ぎがするわね、昨夜の変態サーヴァントと戦ったせいかしら。
リュックからハンカチを取り出し、顔に宛がう。
鳥の鳴き声が耳奥をつっつき、薔薇の柔軟剤の匂いが鼻孔を満たし、緊張をほぐしていく。
「警備員の急な態度は引っ掛かるわね。まあ、最悪……ソフトボールの件が明るみに出たとかかしら」
ソフトボール一個は紛失したので、コチラとしては都合が悪いが。
(うむ。どちらにせよ、回答は現地に行かなければ分からない)
「早く行きましょう。あまり警備の人を待たせては、可哀そうだし」
ハンカチをビニール袋の中へ入れ、速足に、その場を後にした。
「先生方……後は宜しくお願い致します。警備に戻りますので」
「ご苦労様です。引き続き、遅れてきた生徒達の対応もよろしくお願いします」
互いに堅苦しい礼を重ね、警備員はその場を後にする。
堅い空気が抜け――
「杏が遅刻とは珍しいじゃない?」
「寝坊してしまって……すみません、石田先生」
――視線は自ずと体育館へ向かう。
「遅刻を怒るのは後。とにかく、今は急を要する話があるから。直ぐに体育館へ入ってちょうだい」
「は、はい」
石田先生に背中を押され、体育館の裏口から入り、静寂な空気に身を投じる。
霧のような薄暗さが視界を満たし、鋭い冷気が頬を掠め、重苦しい空気が喉元を絞るように唾を飲み込ませてくる。
「……えぇ。先のニュースを見た生徒は多いとは思いますが、改めて我々学校側の見解を説明させていただきます。全校生徒四十名が今朝方、行方不明になっていると各所から通報があり……調査中でございますが、経過としましては……」
手が震える、意識も自分の意思で掴めないほど朦朧と――
……まさか、聖杯戦争と関係が?
身をかがめ、狭まる視界と、頭痛を。
――心臓を掴みながら必死に抑え、冷静に考えようと努める。
「まだ……決まったわけじゃ」
「四十名に対しての共通点と致しましては、わが校の生徒であるという事のみ。学年やクラスにバラツキが多く、因果関係が測れないため……」
外部に原因がある事になりそうだわ。
しかも二日前のサーヴァント同士の戦いとソフトボールの件、例のサーヴァントの件と言い、いくらでも結び付けられてしまう。
「行方不明事件後の対応に関しましては、保護者様のご意見と生徒方の安全を考え、協議致したうえで……」
目の前の舞台に立ちながらマイクを通す校長先生は躊躇うように、咳払いを挟み、言葉を重ねる。
「……二週間の部活動の禁止、一週間の授業時間を午後二時に……定める、事を……全校生徒の皆様には、伝えたいと思います」
申し訳なさそうにマイクから離れる校長――沈黙が吹き出したマグマのように不満の声に変わった。
「えー部活禁止ってこと?」
「大会まで半年も無いぞ? ふざけるな! 責任取れよ!」
「てか、行方不明者が四十ならさ。いっその事、学校を休みにすればよくない?」
ガヤガヤと乱された空気が唇をヒリつかせ、指先の震えが骨を冷やし、最悪のシナリオを想像させてくる。
(マスター、大丈夫か? 手が震えているが……)
小さく頷き。
変な冷や汗が背中を伝う、その心地が予測に拍車をかけてくる。
……四十名の行方不明者と聖杯戦争には何らかの因果関係があると思う。
ピンポイントで集団行方不明だなんて、しかも普通の高校で、そんな事が起こるのだから、相手は私の居場所と立場を理解している。
(まるで公開処刑だな、この空気……)
威勢よく反抗していた生徒たちの中には、発狂や過呼吸、泣き出す生徒がポツポツと見受けられ、先生達は突発的な対応に追われていた。
「今回の集会はココまでとさせて頂きます。先生方は、全校生徒を速やかに教室へ戻していただくよう……指示を願います」
蟲毒のような艶めかしく青臭い匂いが鼻孔を鋭く劈き、薄暗い視界が更に濃く滲み、両耳は耳栓を付けられたように籠って音が響く。
……おじいちゃんの言葉って、何故こんなにも適切なのだろう。
この一連の流れが、私に対する挑戦のような気がしてならないわ。
長期的な目的、というより短期的な目的に近いかもしれない――
……例えば。
(例えばマスターの精神崩壊を狙ったか、あるいは……最終警告とか、か)
――充分にあり得る話だわ。
聖杯戦争は基本的に他者を巻き込んではいけないとされている。戦争と言っても、コレはある種の儀式だ、無関係の人間を巻き込むのはタブーなはず。
……ソレを無視するって事は、よっぽど危険に目を付けられたかもしれないわ。
無数の足音が円を描くように耳奥を振動させ、揺らぎが冷たい足裏を伝い、意図して避けていた問題を戻していく。
……でも、私が聖杯戦争に参加しなければ、あの四十名は行方不明にはならなかったはずだわ。
自責の念がじんわりと口内を苦く満たし、ゴムの臭いが鼻孔に絡みつき、つい嘔吐してしまいそうになる。
(……今日の行方不明者四十名と聖杯戦争の因果関係は、可能性の話に過ぎない。真実は未だ不明のままだ……それを忘れるな、マスター)
抜けていた力が少し入った気がするわ、ありがとうおじいちゃん。
「あ、杏……だよ、ね?」
暗闇から一筋の光が入ったように頭上から声が掛かり、私は重たい顔を上げる。
「……牡丹?」
眼鏡にボブショート――揺ぎなく牡丹本人だった。数十年来の友人に会ったような懐かしさを覚えてしまうのは、きっと昨夜の激しい戦闘のせいだと思った。
……いや、予測の範疇で蜘蛛のように暴れる不安が原因かも、ね。
「プッ」
「杏、いきなりどうしたの?」
「アハハハハ……」
「ちょっと! 友人が心配しているのに、いきなり笑うってどういう事⁉」
太陽のように変わらない姿勢を見せる牡丹は、両手を荒っぽく上下左右に動かし、私の言葉に抵抗を見せている。
……変わっていたのは私自身の気持ちかもね、他の要素は変わっていないのに。
温かな春風が鼻孔を甘く抜け、太陽の光が上窓から体育館へ注がれ、全校生徒の足音がいつもの学校を演出していた。
「だって、牡丹の動き――猫がボールにじゃれつくみたいなのよねぇー」
「私の事、バカにしているでしょ?」
「いやいや。牡丹が変わっていなくって、むしろ安心しているのよ?」
……たった一つの可能性だけで気分が落ち込んでいた私がバカみたいだわ。
体育座りの態勢から二本足で立ち、プクーと頬を膨らませる牡丹へ――
「ふーん、どうだか。杏って案外、私の事を過小評価していそうだし」
「……ありがとうね、元気出たわ」
――深呼吸を挟み、感謝を伝えた。
「杏らしくないなーもしかして。私の重要性を今頃、理解したいのかなー?」
昭和のおばちゃんのように笑いながら右肩を叩く牡丹に、私は本音という刀で切り裂いていく。
「多分、そうかも」
「えっ……ほ、本気……でっ?」
急にもじもじと塩らしい態度を見せる牡丹。デレという血液が切り口から飛び散り、私の視界を赤く染めていく。
……相変わらず、褒められる事に耐性が無いところが可愛いわね。
「そうか……」
顎に手を当て、走馬灯のように脳内を巡った牡丹の態度を思い返して見る。一年以上の付き合いだから牡丹のテンションの差異や理由くらい理解できた変化。
……人見知りしないで私と関わっていたわね、この子。
顎から手を離し、牡丹の元へ接近していく――真正面から。
「な、なに……杏?」
「牡丹。今日、公表された四十名行方不明者についてだけど……公開されていない情報の一部を、アナタは認識しているわよね?」
「な、なぜ……ソレを……」
目の焦点が定まらず、声と手元が震え、明らかに牡丹は動揺している。
「私に……付いて来てちょうだい!」
絞り出された牡丹の驚愕が耳奥を震わせ、確信に変わった私の意識が自然と彼女の手を握り、体育館上に繋がる階段へ向かわせた。
「そ、それ、で……話って、なに?」
二十段ほど登った辺りで、先頭の牡丹は振り返っていた。
言葉を絞るように伝える牡丹の小心的態度はいつも通りだが、コチラを射抜くような双眸からは、ライオンのように猟奇的な圧を感じる。
……何も言わずに連れ出せば、誰でも、このような反応になるわよね。
桜の花びらがコンクリートの階段に連なり、その重なりが沈黙を刻むように春風の甘い匂いを誘い――
「ごめんなさいね、急に。でも、本当に知りたいのよ……今朝、何があったのかって……早く知りたいの」
――謝罪という苦味が口から吐き出される。
斜めに差し込んだ光が牡丹の足先を照らし、緩んだ可愛い口元が開けられ。
「違う。私が何故怒っているのか……ソレはね、杏に関わって欲しくないからだよ」
涙に溜まった目元が日差しで露に。
「友達として。忠告するよ……この件を聞いちゃ、知っちゃ……ダメ。絶対に……」
横から吹き抜ける春風が牡丹の涙を取り、制服が揺れる。
気持ちは汲みたいけど、私には知る必要があるのよ、行方不明者四十名の詳細を。
……私が聖杯戦争に参加する限り。
呑み込む決意が生温かく喉を唸らせ、握る掌が熱くなる――階段に足を踏み込む。
「それでも、私は知りたい……把握する義務があるのよ!」
ジェットコースターのように口調が上がりかけ、指先の震えが目に入った事で。やっと敷かれたレールが平面だったことに気が付いた。
「ごめんだけど、教えて欲しいの。何があったのか……」
胸を強くポンっと叩き、牡丹の顔を真剣に見つめる。
……牡丹が怖がるから、口調は優しくしなきゃいけない。
口籠る牡丹を見つめ、歯痒い沈黙が流れ――
「わ、分かった……言う、よ……でも、本当に危険な事はしないで……特に、独自で調査をするような、真似……だ、けは」
――間を縫うように小さな文言が耳奥で響く。
「ええ。無茶はしない……約束するわ」
「その言葉、信じるよ」
手招きされ、後を付け、足早に体育館裏へ場所を移動する。
込み上げてきた苔臭さと雑草の青臭さが鼻孔を突き刺し、靴底に触れるドブが足裏を冷やし、思わず顔をしかめてしまう。
「辛抱して欲しいな、杏。この話は誰の耳にも届いて欲しくないの」
「え、ええ……なら早速話してちょうだい、行方不明者四十名について……アナタが分かること全て、ね」
狭い体育館裏。
冷たい風が頬を掠め、黒く霞かかった視界が心拍音を耳奥まで響かせる。
「この四十名について、だけどね。今日の行方不明者って全体だと百名以上いるらしいのよね。某掲示板サイトの投稿者も行方不明になってしまって、ね……」
「そう」
「ええ、学校という枠組みを超えて行方不明者は多くなっているらしいの。その人達に共通する点……何だと思う?」
いじらしく、乾いた問いかけが首筋を冷たく流れていく。
「……分からない、わ」
地面に染み付いたぬめりが心の奥底で抱いた予想を湿らせ、頑固な感情を少しずつ濡らしていく。
何となく分かっていた、かもしれない予感。
「なら教えてあげる……彼らの共通点はね、二日前の空中CGの動画を拡散した人達なの」
言葉が溺れるように上手く捻りだせない、出かかった文字が渦潮に呑み込まれたみたいに。
冷たく鳥肌が腕を流れ、鼓動を早くする。
「多分、行方不明騒動の首謀者の心理的には、目立ちたいよりも……証拠を隠蔽したいって感じかも。だから、例の動画を拡散するのは、やめっ……」
腕をガッチリと掴み――
「牡丹……今後一切、この話題には足を突っ込まないで!」
「えっ……」
――近付いて、言葉を強める。
牡丹目線だと私は般若のように怖い表情を見せているかもね。
……けれど、コレでいい。
真実が隠れるくらい出来のいい面を付けたって、良いと思う。強張るくらいが丁度いい、震えるくらいが普通の反応で。
「ありがとうね、牡丹。教えてくれて……」
「杏、く、首は……つ、突っ込まない……よね?」
安心して踵を返せるのだから。
「ええ、大丈夫よ。危険なマネは、いくら私でもしないって」
太陽の余熱で消えるアスファルトの足跡が、私の代わりに嘘を消してくれているようで嬉しかった。
微笑み、手を振る私を牡丹は不安げな表情で見つめているようだった。
(マスター、本当に良いのか?)
「んー、何を?」
(牡丹という友人について、だ……お節介だと思われても仕方が無いが、一応。マスターが気にしない分、我がその役目を担おうと……)
照らす朝日が耳奥で正論の音色を響かせ、私を焼こうとしてくる。
「やらなくていいわよ、おじいちゃん。それよりも、四時間目が終わったら学校も終わるわ。牡丹の聞いた噂が正しいか否か、調べないといけないから」
(理解したマスター。それはそれとして……)
「今の私は牡丹と何ら関係ないのよ。やるべき事や考察、予測や作戦立も多いし……意識が回らないわ」
照り付ける日差しを躱すように歩きを強め、コンクリートのざらつきが引っ掛かる心の縁を触れるようで気持ちが悪い。
(しつこく言葉を投げて仕様が無い……けれど、マスターよ。友情とは何でも言い合える仲でこそ、真価を発揮するモノ)
「切り捨てる覚悟くらい持てなくて、どうするの?」
階段を降りながら、心のナイフで飛んでくる正論を切り裂いていく。白く温かな光が素肌を焼き、甘酸っぱい気持ちが目頭を熱くする。
(マスター)
「分かっているわよ……でも、拒絶しなきゃ」
牡丹が聖杯戦争に巻き込まれ、死んでしまうかもしれない。
広げた掌が血のように赤く染まり、黒い影に落ちていく――
「縁を切らなきゃ……聖杯戦争とは向き合えない」
――手摺の冷たさが左手を振動させ、鉄臭さが口内で引っ掛かる。
本音を吐露したい気持ちを錆び付いた鉄の棒で貫くように。ソレは私の中でドロドロの液体と化し、気持ち悪く胸に流れていく。
(マスターの後悔が無いように……)
「後悔なんて、私がどれだけ経験していると思っているのかしら……」
「先生……呼んでいたわよ」
階段を降り、一息ついたところで保険医の先生が腕を組みつつ左から現れた。
「そうですか。すみません、遅くなってしまって……帰るのが」
「私に対しては謝らなくていいよー。この感じだと、深くは追及しなくて良いだろうし……」
場面が凍り付く――一体なにを言っているのだろう、この先生は。
……もしや、おじいちゃんとの会話を聞いていた?
疑心というスパイスが鼻孔をくすぐり、首筋が熱くなっていく。恐怖よりも恥ずかしさが勝っている状況。
……実態が無いおじいちゃんとの会話は、傍から見れば誰も居ない空間に語り掛けているやべー奴だ。
それに私は高校二年生の女子高生、中二病は過去の産物と化しているのだから。
余計、恥ずかしい。
「せ、先生……ちょ、ちょっと聞いても良いですか?」
「んー。私に協力できることなら……」
氷が張った湖を渡るような慎重さで喋ったのだが、意外にも先生は協力的だった。
……保険医として、精神的な人を落ち着かせるための常套手段とか。
どちらにせよ、橋は渡り切ったので――
「あ、あの……私の独り言って聞いて。ました、か?」
「んー。何のことかな?」
――橋ごと爆破された感じだ。
杞憂というか、勘違い。
春風が冷めた額に触れ、地面に落ちた桜の花びらが渦を描くようにクルクルと上昇し、私の前髪をなびかせた。
(自然にもバカにされているな、マスター)
「も、もういいです。私……失礼しますので!」
意外な奇襲に、怒り心頭――恥ずかしさとの二刀流で。ボールが流れれば、今にもホームランを打ちそうなくらい感情が高ぶっている。
「え……おーい。どこへ行くのさー?」
「教室へ……戻りますので!」
早歩きで向かう。
……踏みつけたい、殴りたい気分だわ。
上にも下にも通れない、マグマみたいな気持ちが足裏を抜け、コンクリートにベクトルが伝わり――揺らぎとなって、地面を蹴り上げていた。
地団駄を踏む。
……その行為に、どれだけの人間が救われたか。
「彼氏と喧嘩中かー。私に相談しなよー」
耳奥で響いた勘違い。振り返れば、保険医の先生は片手を振っていた。
「ち、が、い、ます、か、らっ!」
(湯気が出ているが。大丈夫か、マスター?)
「……おじいちゃんの、せい、でしょうが!」
頬に吹き付けた春風は、真夏のように暑くて、しつこかった。
「座れ。まあ、校長の話を聞いた通りだな。今後、三週間くらいはこの調子だろうな……」
「って事はさ、授業も四時間しかないだろう? 神だぜ、学校はよぉー!」
「そうだよね? むしろ学校って行かなくても問題なくねぇ?」
教室内はテーマパークではしゃぐ子供の巣窟だった。立ち上がり叫ぶ男、はしゃいで授業内容をSNSで拡散する女など。
とにかく、狂喜乱舞――ゴールテープの花びらやラッパ音が聞こえそうなくらい、耳元が騒がしかった。
「静かにしろ! 授業が四時間で終わるだけだぞ、午後五時以降の外出も自粛、その間は宿題が山ほどだ。ふふっ、残念だったな……お前達」
ニタリと毒のような笑顔を振り撒き生徒を黙らせる先生。
嵐前の静けさの如く、耳奥で響いていた声は綺麗に止まり、ぼやけた視界が鮮明に戻っていく。
「は? いやいや、話が違うって先生! マジで待って」
「何を待てと? 学生という時間は、待ってはくれないからな。お前達、大学受験期に突入するまで一年も無い、自覚しろ。ココでやらずして、いつ勉強するつもりだ?」
美しい華には棘があると言うけれど、先生の行動は棘を飛ばしているハリネズミのようで。
……むしろ生徒のやる気を削いでいるような感じだけど、な。
火に油、ならぬ生徒に受験勉強だった――血の鉄臭さが鼻孔内を巡り、背中を震わせていく。
確かな、視線を感じた。
「なあ、杏。そうは思うだろう?」
教室中の視線がコチラに集約され、毒蛇と遭遇したような緊張が口内を苦く満たし、空気を鈍くする。
突き刺さった言葉が、回答まで制限していく。
……どちらかが不幸になる選択だわ。
「遅れて来た立場で、まさか……擁護なんてしようとは……思うまいね?」
スーツの揺れが乱れた私の心を映しているようだった。
……完全に遅れを根に持たれたわね。
廊下側から吹く冷たい風が精神的な折り合いを調整し、口元の湿りと凍てつくような視線が現実を突き付けてくる。
板挟みの状況下――やるしかないわね。
「どっちもどっちですね。私達からすれば一年後の受験は考えたくないですし。先生方からすれば、学習時間が減る訳ですし……学習時間を保ちたい。私は立場上、生徒なので学習時間を増やされたくはないですが……」
「同情とは……情けない。学生の主は勉強だ、ソレを忘れるなよ」
ポツポツと失笑が漏れている。
……即死は免れただけ偉いのかもしれないわね、前向きに考えましょう。
向かっていた視線と言葉、ヘイトが桜餅の葉のようにぺりぺりと剥がれ、また口酸っぱく言われる。
「もう一度言うからな、学生の本文は、勉強だからな!」
気の抜けた、気だるい声が教室に反響し、静寂が再び空間を包む。
掛け時計の分針が十二を指そうとしている。
「まあ、いい。とにかく……物騒な事件が起こった訳だし、自分の身は自分で守ることだな。分かったか?」
落ち着いて頷くクラスメイト達。
秒針の息遣いが先に待っている放課後、幸福を煮詰めているようだ。沸騰した液体が溢れないように――先生の怒りが湧きたたないように、火力を調整している。
……怒りに触れれば、ホームルームが長引くだろうし。
戦争の如く緊迫した空気感が太ももを冷たく流れ、唾を飲み込む音でさえ胸に響いていく。
……なんか、色々と今日は疲れたわ。
心も身体も揉まれ、もはや三色団子のように私の意識はネバつき、余韻が口内を駆けだしていく。
踊り出せば、鯉のぼりだったかもね。
……私は一体、何を言っているのだろう、自分で考えたのに鳥肌が立つほどの発想だわ。
「なら、先生からの話は終わりでいいな。お前達、じゃあな……元気で居ろよ。私は、これから会議だよ、ちくしょう!」
煙草に火を付けながら、先生は自ら教室を出ていく。
「いまどき、ヤニカスとかモテねーよ。アイちゃん」
「それなー」
「うっせぇな。コレの方が楽だからよぉ。世間に合わせてたまるかよ」
右手に見えている扉が震え、アイちゃんの睨み顔がヤニ煙と共に浮かび、居なくなる。
一瞬、凍り付いた教室は再び解凍され、競りのような賑わいを見せる。各々が談笑し、チャイムの音を今か今かと待っていた。
……どうしようか。
クラスで唯一話せる友達とは、体育館裏の件で口も聞けないし、かといって教室で騒げないし退出する勇気もない。
……まあ、最悪の時間ね。
掛け時計の分針は五十五分を指している、カップ麺よりも二分余計で、動画サイトの長尺動画を再生しようにも足りない時間。
……得た情報を整理しつつ、今日やるべき事をまとめておくって事にする方が良いわね。
効率厨に染まりたくは無いけれど、今できる暇つぶしはこれくらいしか無いわ。
道化師だらけの空間に考える人が配置されたような教室内ギャップを感じつつ、銅像のように顎に手を当て、思考を始めていく。
……この学校内だけで四十名の生徒が、一夜にして行方不明となっている。
彼ら間における外的共通点は今のところは無くて、動機も不明。
教室内の音が歪曲し、籠り、黒い空間だけが広がり私という人間にスポットライトが当たったような感覚に落ちていく。
……私って、多分、集中しているのかもしれないわ。
俯瞰しかけた意識を綱で引くように戻し、深度を下げていく。
報道機関でも今日は各地で行方不明者が相次ぎ、百名以上に上るらしい。
……二つの事例との関連性は高そうかも。
牡丹が話してくれた掲示板サイトの件『行方不明者は空中CGを拡散した人間』の発言が、聖杯戦争に参加する私には大きく見えてしょうがなかった。
……ネットで一度、探りを入れてみようかしら。
現実世界の情報も重要だが、空打ちはパンチングボール――インターネットだけで充分だわ。
構築された筋肉が使えるか、否かは試合前に確かめなければ。
……この話にサーヴァントが関与しているなら、聖堂教会の神父に連絡を入れなければならないわけだし、ね。
スポンジに水を含ませるように、自分の決意を浸透させていく。
覆って見えた黒い視界が奈落のように広がり、恐怖が顔を出し始め、腕の痺れが肩まで伸びる。
……また、危険と隣り合わせなのね。
分かってはいたけれど、覚悟はあったけど、どうも耳に入る外音が横に伸びて不快だわ。
意識が溺れた子供のように籠り、冷たい空気が足を掴んで下へ引っ張ろうともがいている。
……死と隣り合わせの状況は、いつまで経っても慣れないわ。
そもそも、慣れてはいけないモノだと思う。
時計の秒針が心拍数と重なりかける状況が不愉快だった、無機物が人間という意思と同化しようと頑張っているようで、気味が悪い。
……日常を汚染していく聖杯戦争と同じかもしれないわね。
唇に付いた湿気が白布を濡らし、毛玉のようにくっ付く黒い不安が、気分を沈めていく。取りたくても静電気――恐怖が走りそうで、躊躇してしまう。
……春服なのに、着られないなんて。
人を助ける行為が、こんなにも勇気がいるなんて。
……信じられない。
震える足元と顔の輪郭をなぞるように流れる汗が、正義という純白の着用を、手を滑らせている。
……どうしたら、勇気が湧いてくるの。
桜の花びらを支える枝があるように、私が今やろうとしている事、守る事は自分だけではなくて、他人も居るという事と同義。
……失敗すれば、私だけじゃなくて他の人も犠牲になるかもしれない。
汗ばむ右手――
(民草を守る事こそ、上に立つ者の役割。その震えが恐怖ではなく、誇りに満ちたモノへ変わらん事を)
――一瞬、ふわりとした温もりが通り抜けた気がする。
「……そうね」
闇から顔を出し、微笑みが零れる。
……私はおじいちゃんの子孫よ、誇りを持って全力で立ち向かうべきだわ。
どんな結果が突き付けられようとも、私は埃で汚れた制服は着ないわよ。
跳ね上がった心臓に空気が流れ、黒いカーテンで塞がれていた視界に光が注ぎ、生徒の笑い声とチャイム音が耳奥で跳ねていた。
「帰ろうか」
左手に塗られた日差しのベールが、透明な心を白く染めている。
……おじいちゃん。
天井の虚空を見つめ、リュックを背負う。
その重みが、少し心地よく感じた。
急に文字数が増えたり、減ったりして申し訳ございません。
投稿予約を切りのいい二章最後まで載せる為、こういう形になりました。
三章からも、ストーリーはもちろんありますが、二月に投稿しますので暫しお待ちを。