レゼ、日本にはこういう言葉があるんだ
「かわいそうはかわいい」
校門を乗り越え、誰もいない校舎へ忍び込む。
夜の学校は静かだった。
昼間は生徒たちの声で満ちているのだろうが、今は月明かりが白く照らすだけだ。
コツ、コツ……2人の足音がやけに響く。
「マキマちゃん怖くないの?」
「怖いというか…なんだか変な感じ、かも」
「なんじゃそりゃ」
くすっと笑ってから、レゼは少しだけ声色を甘くする。
「…私は少し怖いから、手繋いでていい?」
「いいよ」
2人並んで月明かりの差す廊下を歩く。
綺麗な手のひらからマキマの体温が伝わる。
実のところレゼが「怖い」と言ったのは演技だ。
非日常を演出して親密度を上げるための嘘だ。
独特の雰囲気だとは思うけれど、怯えているわけじゃない。
あと照れくさいとか、そんなこともない。ないったらない。
「じゃあ授業しまーす」
空いている教室へ適当に入り、授業の真似事を始めた。
教師役のレゼがチョークを持ち、黒板にいくつかの足し算を書く。
1+1=
5+16=
123+456=
あえて一桁から三桁までレベル別に分けてみた。
マキマは教育の機会に恵まれなかっただけで、地頭はそれほど悪くない。
しかし……いや、だからこそか。
マキマは自らの実力が、周囲から過剰に低く見積もられるのを嫌っている節がある。
それはまるで、大人に近づきたくて背伸びをする子供みたいな。
レゼがとうの昔に通り過ぎてしまった思春期。
「ではこの3つの問題解ける人!」
「上から2、21、579」
「正解! 天才!」
「昔から足し算と引き算はやってたから」
涼しい顔で言うマキマ。
けれど褒められた喜びが透けて見える。
その様子が可笑しくて、レゼはしたり顔で次の問題を書いた。
今度は英単語だ。
Apple
Japan
Philippines
「アップル、ジャパン……なにこれ…ぴ、ぴひ…?」
「正解はフィリピン、日本の南にある島国だよ」
「へえ……」
マキマが少し悔しそうに口を尖らせる。
カフェで見た憂うような表情とは違う、年相応の反応にレゼは妙に安心した。
「学校ってこんな感じなんだね、ちょっと分かってきた」
「……マキマちゃんって本当に小学校も行ってないの?」
「うん」
「それってさ……なんか、ダメじゃない?」
「ダメ?」
「ダメっていうか……おかしい」
それは
16歳はまだ子供だ。
勉強して、部活して、友達と遊んで。
それから恋をしたり、将来に悩んだりする年齢だろう。
それなのにマキマはデビルハンターとして働いている。
悪魔と戦う中で、痛くて苦しい目に遭うことだって沢山あったはずだ。
……やはり支配の悪魔に執着しているのか。
あるいは既に支配されているのかもしれない。
それでも言わずにはいられなかった。
「今いる公安って場所は本当に良い場所なの?」
「うん、良い所だよ。1日3回お腹いっぱい食べられるし、温かいシャワーも毎日浴びられる」
淀み無い返答に、レゼの表情が歪んだ。
「それって日本人として最低限の──」「それに」
「公安にはデンジさんがいるから」
そう言って微笑むマキマは本当に幸せそうで、レゼの胸の奥がじくじくと痛んだ。
マキマの価値観には、支配の悪魔が深く深く食い込んでいる……それが憎くて仕方がない。
しかし同時に、自分の言葉もまた価値観の押し付けでしかない……自覚したレゼは虚しくなった。
ソ連に連れ帰ってチェンソーの心臓を抜き取り、人間の心臓を移植する。
そして田舎で平穏に暮らす……
それがマキマの幸福になると信じていた。
今思えば、下衆な男どもに嬲られていたミラと、マキマを重ねていた。
しかし今、その正当性が大きく揺らいでいる。
「レゼ、どうしたの?」
「あ〜〜……考えすぎて頭熱くなってきちゃった」
「そう? なら冷やしに行こうか」
マキマに手を引かれるまま校舎を抜け、辿り着いた先で、レゼは思わず目を瞬かせた。
「……プール?」
水面は月明かりを反射しながら揺らぎ、 フェンス越しに夜風が吹く。
「冷たっ」
マキマがしゃがみ、指先を水へ浸してすぐに引っ込めた。
「私泳げないから、レゼ教えてよ」
「えっ?」
振り返ったマキマは、当然のようにワイシャツのボタンを外し始める。
「ちょ、待っ───」
するり、とシャツが落ちた。
レゼは慌てて視線を逸らす。
「なんで脱ぐの!?」
「服着てると沈んじゃうから」
「いやそういう問題じゃなくて……!」
マキマは不思議そうに、こてんと首を傾げる。
……いや彼女は間違っていない。
同性同士ならば全く問題ない……でも今日の距離感は流石に近すぎないかなあ!?
マキマの行動にレゼはすっかり翻弄されていた。
2人が出会ってからの期間はそう長くないが、レゼにとってマキマは大きな存在になっていた。
ミラにすら向けなかった感情を抱いた。
自分で作り上げた非日常に舞い上がり───本来なら容易に察知できたはずの、いくつもの違和感を見落とした。
「……レゼ?」
「いや、うん、分かったから! 教える! 教えるからちょっと待って!」
結局2人とも衣服を脱ぎ、一気に全身を冷水に沈めた。
熱を持った思考と体が急速に冷えていく。
「レゼ」
水から顔を出すと、少し離れた場所でマキマが両腕を差し出している。
その姿を見た瞬間、なぜか胸騒ぎがした。
蜘蛛の巣へ絡め取られていく蝶を幻視した。
この心臓の高鳴りは高揚か、不安か。
分からないままにレゼは手を伸ばした。
水を掻き、マキマへ近づく。
差し出された両手をレゼが掴むと、マキマが強く握り返した。
そして真っ直ぐにレゼを見つめながら、淡々とした口調で言った。
「プリンシさん、“呼んで”ください」
唐突に景色が切り替わった。