朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない   作:灯火011

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クリームパンと呼ぶには凶器すぎる、その手

 ガン ガン ガン

 

 頭蓋骨の裏側で、解体工事の削岩機がフル稼働しているような頭痛で目が覚めた。二日酔いかと思ったが、いや、そんなことはない。

 

 昨夜の記憶は鮮明だ。残業帰りにコンビニで「大盛りペペロンチーノ」と「から〇げクン」を買い込み、缶ビールを一本煽って、録画しておいた深夜アニメを消化して泥のように眠った。それだけだ。たかだか350mlのビールのアルコールで翌日に響くほど、俺の肝臓はヤワじゃない。現場監督という仕事柄、付き合いの酒席で鍛え上げられた内臓だ。

 

 だというのに、今のこの感覚はどうだ。

 

 全身が鉛のように重いようで、同時に羽毛のように軽いという矛盾。そして何より、うるさい。何がって、世界全てがうるさいのだ。冷蔵庫のコンプレッサー音がジェットエンジンのように聞こえるし、窓の外を走る車の走行音が、まるで耳元で鳴らされているかのように鼓膜を叩く。

 

「……あー? んだよ、うっせぇな……」

 

 俺の口から漏れたのは、自分でも聞き覚えのない、鈴を転がしたような掠れ声だった。違和感に眉をひそめる間もなく、枕元のスマホが設定時刻を告げるアラームを鳴らし始めた。

 

ピピピピ、ピピピピ。

 

 普段なら気だるげに手を伸ばして止めるだけの電子音が、今の俺には脳髄に突き刺さる警報音のように響く。

 

「うあぁ、止めろ……!」

 

 俺、犬飼剛(いぬかい つよし)、32歳。独身。建設会社勤務。

 

 朝は早い。現場の朝礼は8時からだが、監督である俺は6時半には詰所を開けなきゃならない。こんなところで寝ぼけている暇はないのだ。俺は閉じた瞼の裏でチカチカする光に悪態をつきながら、慣れた手つきでスマホの画面を叩きに行った。

 

ポフッ。

 

 それは少なくとも、硬質なガラス面を指先で叩く音ではなかった。

 

 何か、分厚いクッションかゴムまりを押し付けたような、間の抜けた鈍い音がしただけだ。アラームは止まらない。狙いが外れたか。俺は舌打ちをし、今度はさらに力を込めて、掌底を叩きつけるように腕を振った。

 

ボドムスッ!

 

 やはり、感触がおかしい。スマホの硬さを感じない。俺の手とスマホの間に、分厚い緩衝材が挟まっているような感触。俺はようやく、重い瞼をこじ開けた。

 

「……あ?」

 

 視界に入ったのは、見慣れた俺のゴツゴツした日焼けした手――ではなかった。

 

 そこにあったのは、白と茶色の毛がまだらに混ざった、丸っこい物体だ。例えるなら、極上の高級クリームパン。あるいは、焼きたてのマシュマロを三つくらい束ねたもの。

 

 俺が呆然としながら「指」を動かそうと意識すると、そのクリームパンの先端が、グパァ、と開閉した。

 

 中央には、桃色の柔らかな弾力を誇る、特大の肉球。その周囲を囲むように配置された、四つの小さな肉球。

 

「なんだこれ、手袋……?」

 

 寝ぼけてドン・キホーテで買った着ぐるみパジャマでも着て寝たのか?俺は反対側の手で、その物体を触ってみた。

 

 プニプニとした、吸い付くような手触り。温かい。血が通っている。そして、触れている側の手にも、触れられている側の手にも、確かな触覚があった。

 

 ――俺の手だ。このふざけたクリームパンは、間違いなく俺の両手だった。

 

「……は?」

 

 思考がフリーズする。俺はガバっと上半身を起こした。視界が高い……いや、低い。いつもより天井が高い。部屋が広く見える。

 

 俺は慌てて掛布団を跳ね除けた。

 

 いつものグレーのスウェット上下。だが、サイズ感が狂っている。襟元はダルダルで、片方の肩が完全に露出していた。そこから覗く肌は、現場仕事で焼き込んだ小麦色ではなく、病的なまでに突き抜けるような白磁の肌。

 

 そして。ダブついたTシャツの胸元には、控えめながらも、重力に逆らって自己主張する二つの膨らみがあった。

 

「おいおいおい、嘘だろ……夢だろこれ」

 

 口から出る声は、やはり高い。アルトボイスだ。ハスキーで、どこか艶のある女の声。

 

 俺はベッドから転げ落ちるように飛び出した。ドサッ、と着地する。足の裏にも違和感がある。フローリングの冷たさが直接伝わってこない。視線を足に向けてみれば、これまたクリームパンのようになっている。しかも、脚の裏にも肉球があるのだ。加えて、爪先立ちをしているような、脚からは妙なバネを感じる。

 

「なんだ、なんだこれ、どうなってやがる」

 

 俺は洗面所へ走った。走るたびに、バランスを取るように尻のあたりから「何か」がニョロリと伸びて、空気を薙ぐ感覚がある。振り返りたくない。だが、その質量は確実に俺の尾骨から生えている。

 

 洗面所の鏡の前に立つ。そこに映っていたのは、くたびれた32歳のおっさんではなかった。

 

 茶色のショートカット。少しハネた毛先。切れ長の瞳がつり上がった、不機嫌そうな美少女。鼻筋は通り、顎のラインはシャープで、黙っていればファッション誌の表紙を飾れそうなクールビューティーだ。

 

 だが、その頭頂部には、髪の毛と同じ色の三角形の獣の耳が生えており、俺の動揺に合わせてピコピコと痙攣していた。

 

「猫……かよ……」

 

 呆然と呟くと、鏡の中の美少女も唇を動かす。俺は自分の頬をつねってみた。鋭い痛みが走る。ただつねっただけではない。クリームパンのような指先から、カシャンという小さな音と共に鋭利なフック状の爪が飛び出し、白い頬に一筋の赤い線を作ったのだ。

 

「いったぁっ!?」

 

 叫ぶと同時に、頭の上の耳がペタンと後ろに倒れ、背後で長い尻尾がボワッとタワシのように膨らむのが鏡越しに見えた。感情と身体反応が直結しすぎている。

 

 夢じゃない。

 

 俺は、猫になっていた。いや、猫人間?獣人?とにかく、人間としての俺は死んだらしい。

 

「……落ち着け。まずは状況整理だ。俺は現場監督だぞ。工期の遅れも資材の誤発注も乗り越えてきた男だ」

 

 深呼吸をする。肺に入る空気がやけに旨い。加えて、嗅覚が鋭敏になっているせいなのか、洗面所のカビ臭さと、置きっぱなしの石鹸の香りが強烈に鼻をつく。

 

「……む」

 

 尿意を感じた。極めて人間的な、いや、動物的な生理現象だ。俺はトイレに入り、便器の前に立ち――そして、絶望的な事実に直面した。

 

「……どうやって、すればいいんだ?」

 

 中身は男だ。習慣として、俺は立って用を足そうとした。だが、今の俺には「ホース」がない。それどころか、スウェットのズボンを下ろそうにも、この肉球の手ではゴム紐に指をかけることすら難儀なのだ。

 

「いや、いやいや。あ、いや。とりあえずズボンを脱がねぇと………!」

 

 爪を立てて引っ掛け、なんとかズボンと下着を下ろす。そして、俺は屈辱に顔を歪めながら、便座に座った。その瞬間、背後の尻尾が便座と背中の間に挟まり、なんとも言えない不快感が走る。

 

「邪魔だなぁっこの尻尾ぉ!!」

 

 俺は尻尾を太ももの上に巻き付けるようにして避難させ、ようやく用を足した。そして、トイレットペーパーを巻き取る動作一つとっても、爪が紙を切り裂いてしまい、ボロボロになった紙屑が床に散らばる。

 

「……尊厳が、死んでいく」

 

 トイレを出た俺は、リビングで項垂れた。時間は7時を回っている。会社に連絡を入れなければならない。

 

 だが、『すいません、朝起きたら猫耳美少女になったので休みます』と言って『了解、お大事に』と返す上司ではない。あの鬼部長なら『寝言は寝て言え、今すぐ現場に来い』と怒鳴り散らすだろう。だが、この姿で現場に行けるわけがない。ヘルメットを被ろうにも、この耳が邪魔で浮いてしまう。安全靴も履けないだろう。

 

 俺はスマホを手に取った。まずは部長に電話だ。『高熱が出て動けない』と嘘をつくしかない。嘘ではない。今の俺の平熱は、猫並みだとすれば38度はあるはずだ。

 

 画面をタップしてロックを解除――

 

ボフッ

 

 反応しない。そうだ、さっきもそうだった。静電容量方式のタッチパネルは、微弱な電流の変化を感知して反応する。だが、この分厚い肉球の皮膚は、電気を通さないのか、あるいは接地面積が広すぎるのか、スマホは頑として俺の指を受け付けない。

 

「マジかよ……文明の利器に見放されたか」

 

 俺は焦った。爪の先でカチカチと叩いてみる。画面に傷がつくだけだ。強化ガラスでよかった。指の隙間にある、わずかな皮膚を使おうと試みるが、指自体が短く太くなっており、狙った場所が押せない。

 

 格闘すること数分。最終手段として、俺はスマホに顔を近づけ、湿った鼻先で画面を突いた。

 

ピロン♪

 

 ようやくロックが解除された。美少女が鼻でスマホを操作する図。鏡を見なくてもわかる、地獄絵図だ。誰にも見られていないのが唯一の救いである。

 

 電話アプリを起動し、部長の番号を呼び出す。そしてまた、鼻を使って発信。

 

プルルル、プルルル。

 

『はい、大都建設工事部です』

 

 事務員の女性が出た。俺は喉を整え、できるだけ低い声を出そうと意識する。

 

「あー……おはようございます。二課の犬飼です」

『え? はい? すみません、どちら様でしょうか?』

 

 ダメだった。自分ではドスの利いた声を出したつもりだったが、電話口の向こうには「風邪気味の女性」の声として届いたようだ。

 

「犬飼です、犬飼剛。ちょっと喉をやられてて……」

『犬飼さんの……ご家族の方ですか? 携帯からですよね?』

 

 事務員さんの声が訝しげになる。無理もない。登録されているおっさんの携帯から、知らない女の声がするのだ。浮気か事件か、というところだ。

 

「……いや、本人です。本当に。ちょっと風邪で声変わりしちゃって」

『えぇ……?あ、はい。少々お待ちください、部長に代わりますね』

 

 保留音。メロディが流れる間、俺はこめかみを肉球で押さえた。説明できる気がしない。

 

『おう犬飼! 朝っぱらから女に電話かけさせるとは何事だ!』

 

 部長の怒鳴り声がスピーカーから響く。鼓膜が痛い。猫の聴覚には殺人的な音量だ。俺は耳を伏せてスマホを離した。

 

「部長、俺です。犬飼です」

『あ?誰だ君は。犬飼の携帯だろ?』

「だから俺ですって!高熱で喉が腫れて変な声になってるんです!関節も痛いし、なんか手足も浮腫んでクリームパンみたいになってるし、今日は休みます!」

 

 一気にまくし立てた。部長は数秒沈黙した後、

 

『……お前、なんか変なクスリでもやってんのか?』

 

 と低い声で言った。

 

『まあいい。現場は佐藤に行かせる。病院行けよ。ま、いつのも仕事ぶりに免じて休みにはしないでやるから、あとで診断書持ってこい』

「……すいません、失礼します」

 

 通話終了ボタンを鼻先で押し、俺はソファーに沈み込んだ。診断書……どうするんだ。「病名:猫化」なんて書く医者がどこにいる。獣医に行けばいいのか?

 

「元気なメス猫ですね、避妊手術の予定は?」

 

 ……とか言われたら立ち直れないぞ。

 

 グゥゥゥゥ……ルルル。

 

 同時に、腹の虫が鳴った。思考よりも先に、強烈な飢餓感が襲ってくる。人間だった時の『あー腹減ったな、なんか食うか』という理性的な空腹ではない。胃袋が内側から暴れだし、脳髄に直接『カロリーをよこせ、肉をよこせ』と命令してくるような、野生的で暴力的な食欲だ。

 

「腹が減っては戦ができねぇ……まずは飯だ」

 

 キッチンへ向かう。足音はしない。まるで忍者のようだ。冷蔵庫を開ける。独身男の荒んだ食生活が露呈する。飲みかけのペットボトル、賞味期限ギリギリの納豆、そして棚の奥に転がる『ツナ缶』。

 

―――ツナ缶。

 

 その銀色の円柱を見た瞬間、俺の瞳孔がキュッと収縮したのがわかった。ゴクリ、と喉が鳴る。今までツナ缶を見て、これほど魅力的に感じたことがあっただろうか?いや、ない。今の俺には、それが最高級A5ランクのステーキに見える。いや、それ以上だ。漂ってくる微かな金属臭すらも、食欲をそそるスパイスに感じる。

 

 俺は震える手でツナ缶を掴み、テーブルに置いた。プルタブに指をかける。しかし。

 

カシュッ、ズルッ。

 

 開かない。丸い肉球の指では、薄いプルタブの隙間に指先が入らないのだ。爪を立ててみる。カチカチと滑るだけで、プルタブを持ち上げられない。

 

「……ふっざけんなよ」

 

 俺は32歳だぞ。重機を操り、足場を組み、コンクリートを流し込んできた現場の男だぞ。それが、たかが缶詰一つ開けられないのか。目の前にご馳走があるのに。この薄い鉄の皮一枚の向こうに、至高の楽園があるのに!

 

「開け……開けよクソがッ!」

 

カチャカチャカチャ!

 

 焦れば焦るほど、肉球が邪魔をする。手汗で滑る。空腹感が理性を削り取っていく。視界が赤く染まるような錯覚。俺の中の「猫」が、痺れを切らして囁いた。

 

 ――道具なんて使うな。お前には牙があるだろう?

 

「にゃあぁぁぁっ!!」

 

 思わず叫んだ声は、情けない猫の威嚇音になって部屋に響いた。

 

 そして結局俺は缶詰を床に叩きつけた。

 

 四つん這いになり、両手両足で缶をガッチリとホールドする。今の俺は、人間・犬飼剛ではない。飢えた獣だ。俺は大きく口を開け、プルタブの根元に犬歯を突き立てた。

 

ガチンッ!

 

 硬い感触。だが、今の俺の顎の力は異常だった。首を激しく振る。

 

ベリベリベリッ!

 

 強引に鉄の蓋が捲れ上がる音。プシュッ、と音がして、油漬けのマグロの香りが爆発的に広がった。そして、すぐさま齧り付く。スプーンを使うのも忘れていた。俺はめくれ上がった蓋の縁で舌を切らないように気をつけながら、顔を突っ込んでむさぼり食った。

 

「……うめぇ」

 

 塩気。油のコク。魚の旨味。脳内で快楽物質がドバドバと分泌される。夢中で舐めとり、最後は指についた油まで丁寧に舐めとった。

 

 ハッ、と我に返ったのは、缶が空になり、床に転がった時だった。

 

 リビングの床で四つん這いになり、空き缶を舐めるショートカットの美少女。口の周りは油でテカテカだ。俺は毛が生えている手の甲で口元を拭い、天井を仰いだ。

 

「……終わってんな、俺」

 

 だが、腹は満たされた。満たされた途端、次は強烈なグルーミング欲求――顔を洗いたい、毛づくろいをしたい――が襲ってくるが、それは理性で抑え込む。

 

 俺は立ち上がった。鏡を見る。口の周りが汚れた、不機嫌な猫耳の女が睨み返してくる。とりあえず、顔を洗おう。そして、考えよう。

 

 このふざけた体で、どうやって家賃を払い、どうやって生きていくのかを。まずは、この肉球でも使える特大キーボードを〇mazonで注文するところからだ。……その注文操作をするのに、また鼻で画面を突かなきゃならないとしても。

 

 俺の、人間としての尊厳を取り戻す戦いは、まだ始まったばかりだ。

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