朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
パトカーのサイレンが遠ざかっていった。佐藤がドアの隙間から
「すみません、カップル喧嘩です!誤報です!」
と警察官に頭を下げて追い返してくれたおかげで、最悪の事態(身分証確認=研究所送り)は回避された。
静寂が戻った六畳一間のアパート。壊れたドアチェーンがぶら下がる玄関。
俺と佐藤は、部屋の中央で向かい合って座っていた。
俺はソファに胡坐(あぐら)をかき、腕組みをしている(萌え袖で)。佐藤はフローリングに正座し、神妙な面持ちで俺を凝視している。
「……整理させてください」
佐藤が重い口を開いた。
「ある朝起きたら、そうなっていた。原因は不明。以来、ここから一歩も出られず、僕が持ってきた図面を修正したり、メールを送ったりしていた……と」
「そうだと言ってるだろ。何度言わせるんだ」
俺は不機嫌に尻尾をパタンパタンと振った。この尻尾の動きも、自分の意思とは関係なく感情に連動してしまうのが腹立たしい。
佐藤はゴクリと喉を鳴らした。
「信じられません……。でも、あのメールの文章。図面の赤ペン。そして何より、僕の秘密(パスワードと片思い)を知っていること。状況証拠は、あなたが犬飼先輩だと示している」
「だから俺だっつってんだろ。中年太りとか言いやがって」
「すみません……」
佐藤は恐る恐る手を伸ばしてきた。
「あの、先輩。確認、いいですか?」
「あ?何だ」
「その……耳。カチューシャじゃないんですよね?精巧な特殊メイクとかでもなく?」
こいつ、まだ疑ってやがるのか。俺はため息をつき、頭を突き出した。
「ほらよ。引っ張ってみろ。痛いから手加減しろよ」
「し、失礼します……」
佐藤の手が、震えながら俺の猫耳に触れた。ビクリ、と俺の体が反応する。根元を触られると、変な感覚が背筋を走るのだ。
「うわっ、温かい……。毛並みがすごい柔らかいです。え、これ、神経通ってるんですか?ピクピク動いてますよ」
「当たり前だ。そこら辺の神経は敏感なんだよ、触るな変態」
俺は佐藤の手を払いのけた。佐藤は自分の手を見つめ、呆然と呟いた。
「本物だ……。じゃあ、本当に先輩が、猫耳美少女になっちゃったんですね……」
ようやく実感が湧いてきたらしい。佐藤は頭を抱えた。
「どうなってるんですか、日本の建設業界は……。過労ですか?ストレスですか?現場の呪いですか?」
「知るか。俺が一番聞きてぇよ」
俺はテーブルの上のマカロン(残り一つ)を口に放り込んだ。佐藤がそれを見て、不思議そうな顔をした。
「先輩。それ、マカロンですよね?先輩、甘いもの嫌いじゃないですか。なんでまた、そんな有名店の高いやつを……」
「ああ、これか。もらいもんだよ。押し付けられたんだ」
「もらいもの?誰からですか?妹さんとして、誰かから貰ったんですか?」
「違う。俺がコンビニに行った時だ。なあ佐藤、お前、最近ネットでバズってる『コンビニの妖精』とかいう動画、見たことあるか?」
佐藤はきょとんとした。
「え?あー……なんか、クロックス履いた猫耳の女の子が爆走するやつですか?SNSのトレンドに上がってたのは見ましたけど……」
佐藤の顔色が、徐々に変わっていく。俺の顔と、脱ぎ捨てられたクロックス(偽)を交互に見る。
「……ま、まさか。あのアクロバティックな動きをしてたの……先輩ですか?」
「そうだ。で、その動画には映ってないが、俺が店を出たところで、あるおっさんに呼び止められてな。『お礼だ』って、これを渡されたんだよ」
俺はテーブルの端にあった一枚の名刺を、指先で弾いて佐藤の方へ滑らせた。
「中身を見ろ。腰抜かすぞ」
佐藤は怪訝な顔で名刺を手に取り――そして、文字通り腰を抜かしかけた。
「……えっ!?た、高田部長!?元受けの……北関東支店の!?」
「ビンゴだ」
俺は、若干の自虐的な感情と共に、ニヤリと笑った。
「笑えるだろ?俺が助けた『おっさん』は、ウチの会社の元請けの偉い人だったってわけだ。雲の上の元請け様が、下請けのおっさん(俺)にマカロン貢いで、名刺まで渡して『困ったら連絡しろ』だとさ。世間は狭いなんてもんじゃねぇよ」
佐藤の手が震えている。名刺を持つ手が小刻みに震えている。
「わ、笑えませんよ……!これ、とんでもない爆弾じゃないですか!もしバレたら……いや、逆にコネに使えれば……いやいや、でも……」
佐藤はパニックになりかけていたが、ふと俺の顔を見て、表情を緩めた。
「……先輩。今まで一人で、こんな秘密を抱えてたんですか?姿が変わって、元請けに絡まれて、誰にも言えずに……ずっと不安だったんじゃないですか?」
「……ッ」
不意打ちだった。俺は言葉に詰まった。
不安?当たり前だ。
朝起きて化け物になっていて、社会から消えて、声も出せない。強がってはいたが、内心はずっと張り詰めていた。
「……バーカ。俺を誰だと思ってんだ。現場監督だぞ。想定外のトラブルなんて日常茶飯事だ」
俺は顔を背けた。こいつ、マジで良い奴だ。しかも現場では、俺の助言を聞きながらメキメキと成長してやがる。少しだけ、目頭が熱くなった気がした。
そんな俺を知ってか知らずか、佐藤は優しく微笑んだ。
「そうですね。先輩は最強の監督ですから。……でも、これからは一人じゃありません。僕がいます」
佐藤は正座を崩さず、深く頭を下げた。
「買い物でも、会社への根回しでも、何でも言ってください。僕が先輩の手足になります。だから……もう一人で抱え込まないでください」
こういう時だけは男を見せやがって。俺は鼻をすすり、ぶっきらぼうに言った。
「……おう。頼むわ。とりあえず、肉だ。コンビニのサラダチキンじゃ飽きた。焼肉弁当を買ってこい。特上のやつだ」
「はい!喜んで!」
佐藤は弾かれたように立ち上がった。そして、玄関のドアノブに手をかけ、振り返った。
「先輩。このことは、まだ誰にも言わない方がいいですよね?」
「当たり前だ。鬼瓦のハゲになんかに知られたら、『化け物はクビだ』とか言われかねねぇ。……いや、むしろだ。すぐさま研究所に売られるかもしれん」
「分かりました。会社には『重度の感染症で隔離が必要』とでも伝えておきます。診断書の件も、僕が適当に言い訳して引き伸ばします。……でも、いつまでも隠し通せるもんじゃありません」
佐藤の表情が引き締まる。
「なので、僕に一つ、考えがあります。会社の中に、一人だけ……話が通じる人がいますよね?」
俺は眉をひそめた。話が通じる?あの大都建設の下請けで、ブラックな労働環境の弊社に、そんなまともな上司がいたか?
「誰だ?」
「坂本(さかもと)課長です。今は隣の県の現場に行ってますけど、来週戻ってくるはずです。あの人なら、先輩の腕を誰よりも買ってますし、何より……」
佐藤はニヤリと笑った。
「面白いことが大好きですから」
坂本。
その名を聞いて、俺は納得した。そうだ。鬼瓦部長とは犬猿の仲で、俺をこの業界に引きずり込んだ張本人。型破りで、豪快で、そして誰よりも現場を愛する男。
「……あいつか。確かに、あいつなら『猫になっちまったもんは仕方ねぇ、で、図面は描けんのか?』とか言いそうだな」
「ですよね。僕から、うまく根回しして連れてきます。それまで、先輩はこの部屋で英気を養ってください!」
佐藤は敬礼し、元気よく部屋を出て行った。壊れたドアチェーンが揺れている。
俺は一人残された部屋で、大きく息を吐いた。
孤独感は、もう消えていた。俺には共犯者がいる。そして次は、さらに強力な味方を引き入れる計画だ。
俺は自身の肉球を見つめた。プニプニのピンク色。これで現場復帰?
まったく、バカな話だ。だが、不思議とワクワクしている自分がいた。
「……上等だ。今の建設業界は人手不足。それも、とびきりのな」
俺はニヤリと笑ってやる。すると、体は勝手に尻尾をピンと立てた。
「猫の手も借りたいって言うなら、貸してやろうじゃねぇか。最高級の『猫の手』をよ!」
現場監督・犬飼剛の逆襲が、ここから始まる………はずだ。
はずだよな?はずであってくれ。……いやぁ、でも、この手足と耳なぁー。
……正直、不安しかねぇや。