朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
「鉄筋組み直し騒動」の興奮が冷めやらぬ、翌日。現場の休憩所で、佐藤が不思議そうな顔で俺の手を見ていた。
「……先輩。ひとつ聞いていいですか?」
「にゃーんだよ」
「昨日、権田さんの前で結束線を縛り直してましたけど……その手、大丈夫だったんですか? スマホのフリック入力もできないのに、あんな細い針金、よく扱えましたね」
佐藤の視線は、俺の指先にあるピンク色の肉球に向けられている。確かに、一見すると邪魔なだけの物体に見えるだろう。俺はニヤリと笑い、自分の手のひらを開いて見せた。
「いや、それがな、佐藤。スマホが反応しないのは、肉球が画面に触れて誤作動するからだ。静電容量方式のタッチパネルとは相性が最悪にゃんだよ。だがな……『物理的な道具』を使う時は話が別でにゃ?」
俺は腰袋からドライバーを取り出し、軽く握ってみせた。
「見ろ。この肉球の弾力と摩擦係数。ゴム張り軍手なんか目じゃないぜ。『天然の超高性能ノンスリップグリップ』だ。慣れちまえばさ、ハッカーみたいな回転工具を握るには、むしろ人間の手より都合がいいんにゃ、これが」
「は、はぁ……なるほど。滑らない、と」
「そうだ。昨日の結束も、このグリップ力のおかげで、握力不足をカバーしてガッチリ締め上げられたってわけだ。……ま、細かい作業をする時に、爪が引っかかって邪魔にゃのは否定しねぇがな」
俺はカチャカチャと爪を鳴らした。この体、現場仕事には意外と向いているのかもしれない。
………スマホさえ使わなければ、な?
■
さて、肉球自慢はこれくらいにして、仕事の時間だ。
躯体(くたい)工事が一通り落ち着いた現場は、今まさに「仕上げ」の段階に入っていた。騒音は消え、代わりに紙を裁つ音や、刷毛(はけ)が走る音が支配している。
俺(キャット・ワン)は、佐藤を連れて別階の内装エリアへ足を踏み入れた。ここから先は、埃一つ、傷一つが許されない世界だ。
部屋に入ると、一人の男が脚立の上で作業をしていた。内装職人・鹿島(かしま)。神経質そうな細身の男で、金縁の眼鏡をかけている。この道30年、クロスの継ぎ目(ジョイント)を見せないことにかけては右に出る者がいない、「仕上げの鬼」と呼ばれる男だ。
俺たちが部屋に入った瞬間、鹿島の手が止まった。彼はこちらを振り向きもせず、背中越しに冷たく言い放った。
「……出て行け」
挨拶もなしか。佐藤が慌てて声をかける。
「お、お疲れ様です鹿島さん! 検査員のキャットさんをお連れしました……」
「聞こえなかったか? 出て行けと言ったんだ」
鹿島は脚立を降り、神経質そうに眼鏡の位置を直しながら、俺を睨みつけた。その目は、汚物を見るような目だった。
「猫耳? ふざけるな。ここはな、神聖な仕上げの現場だ。そんな毛の生えたもんをブラブラさせて入ってくるな。獣の毛一本でもクロスに入り込んだら、全て貼り直しになるんだぞ」
なるほど。ごもっともだ。
内装屋にとって、異物の混入は死活問題。特に静電気を帯びやすい猫の毛など、彼らにとっては天敵だろう。だが、俺は引き下がるわけにはいかない。
「ご安心を。ブラッシングは完璧です。毛は一本も落としません」
俺はポケットからコロコロ(粘着ローラー)を取り出し、自分のオーバーオールを入念に転がしてみせた。鹿島は鼻で笑った。
「フン。口だけは達者だな。だが、俺の仕事に検査なんて必要ない。俺が貼ったクロスは完璧だ。お前のような素人の小娘に、アラ探しなんてできるわけがない」
「……完璧、ですか」
俺は部屋の中を見渡した。壁一面に貼られた、高級感のある幾何学模様のクロス。確かに美しい。継ぎ目など、肉眼では全く分からないレベルだ。普通の検査員なら「合格」を出して帰るだろう。
だが、俺の目と、自慢の「肉球」が、ある違和感を捉えていた。
「本当に?」
俺はその違和感を確かめるために、壁に近づいた。鹿島が
「触るな!」
と叫ぶより早く、俺は手袋を外し、素手(肉球あり)で壁を撫でた。
―――プニッ。
敏感な肉球が、わずかな「凹凸」を感じ取る。そして、動体視力に優れた目が、模様の微細なズレを捉えた。
「……鹿島さん。ここのコーナー(角)の処理、甘くないですか?」
俺は壁の角を指差した。
「は? 何言ってんだ。定規を当ててカットしたんだ。真っ直ぐだろ」
「真っ直ぐですけど、『柄(がら)』が合ってません」
俺は顔を壁に近づけ(猫耳が壁に触れそうだ)、一点を指し示した。
「この幾何学模様、リピート(繰り返しの間隔)は30センチですよね。でも、この角を境にして、右と左で柄の高さが0.5ミリずれてます。神経質なクライアントなら、一発アウトです」
鹿島が息を飲んだ。
「0.5ミリだと……? そんなもん、人間の目じゃ分からねぇよ!」
「判る人には分かりますよ。遠目で見ると、ここだけラインが歪んで見えます。それに……ここ、下地のパテ処理も手抜きしましたね?」
俺は肉球で壁の一箇所を軽く押した。
「他の場所より、反発が柔らかい。石膏ボードのビス穴(ネジの頭)を埋めるパテが、痩せて(乾いて凹んで)ます。今はいいですが、半年後にはここにポコッと凹みが浮き出てきますよ。そうしたら、よりメンドクサイ再施工が待っています」
鹿島は顔を真っ赤にして壁に駆け寄り、ルーペを取り出して確認し始めた。そして、呻いた。
「……馬鹿な。ビス穴のパテ痩せなんて、指で触っただけで分かるわけが……」
「分かりますよ。こちとら『肉球』ついてるんで。人間の指より数倍、感度が良いんです」
俺は得意げに肉球を見せつけた。さっき佐藤に説明した通りだ。道具のグリップ力だけでなく、この「触覚センサー」としての機能もまた、肉球の強みなのだ。
「それに、今日の湿度は60%です。さっき見させていただきましたけど、この糊(のり)だと、オープンタイム(糊を塗ってから貼るまでの待ち時間)をあと3分短くしないと、乾きが早すぎて接着不良を起こしますよ」
こればっかりは猫の能力ではない。俺の長年の経験則だ。一か月ぐらいすっと剝がれてくるんだよな。そう思いながら、鹿島に視線をやる。すると――。
――鹿島はガクリと膝をついた。
「……パテの痩せに、柄のミクロン単位のズレ、さらに糊の乾き具合まで……。なんだ、あんた……。人間じゃねぇ……」
「人間じゃないですね。派遣の猫耳教徒です」
俺はヘルメットを被り直した。
「全部やり直しとは言いません。ただ、この角の処理と、ビス穴のタッチアップだけはお願いします。他の部分の施工は完璧です。だから、信頼して言います。―――鹿島さんの腕なら、部分補修でも分からなくできるでしょ?」
俺がニヤリと笑うと、鹿島は眼鏡を押し上げ、深くため息をついた。
「……参った。俺の負けだ。猫耳だか何だか知らねぇが、あんたの目と指は本物だ」
鹿島は立ち上がり、新しいクロスを裁断し始めた。
「おい、そこの坊主(佐藤)! 糊を持ってこい! キャットさんの検査に合格するまで、今日は帰れねぇぞ!」
職人の目に、再び「鬼」の火が灯った。俺は満足して、尻尾を揺らした。
■
内装屋の親方を陥落させ、俺の現場での地位はある意味で不動のものになった。ここら辺を押さえておけば、まぁ、あとは何とかなる。
「先輩、すごいです。グリップ力にセンサー機能、肉球って最強の工具ですね」
佐藤が感心したように俺に言葉を投げてきた。
「だろ? まあ、慣れちまえばこんなもんにゃ。スマホのロックはいまだに解除できにゃーけどな?」
「ですね。っていうか、にゃーっていうのは、口癖ですか?」
「……あー、そうにゃんだよ。意識して出さにゃ……いようにしてんだが、にゃ……クソッ、なんか出ちまう」
俺たちは笑いながら現場事務所に戻ろうとした。このまま平穏に現場が終われば、俺はこの姿でも生きていけるかもしれない。
そう思っていた矢先。事務所の方から、坂本課長が血相を変えて走ってきた。
「おいキャット! 大変だ! 緊急事態だ!」
「……なんですか、また。今度は床屋とペンキ屋が喧嘩でも?それとも、大工がへそ曲げました?」
俺がのんきに振り返ると、課長は息を切らしながら、絶望的な一言を告げた。
「業者じゃねぇ! 元請けだ! さっき元請けの本社から連絡が入ったんだ!お前をご指名でな」
「本社? ご指名? どういうことですか?」
「高田部長だ! 『現場に猫耳の妖精がいると聞いた。あれは間違いなくコンビニの彼女だ! 明日の午後、直々に会いに行く!』だとさ!」
俺の手から、軍手が滑り落ちた。
「……は?」
「あのおっさん、お前に会う気満々だぞ! 『あの時のマカロン、口に合ったかどうか心配でね。感想を聞きたいし、改めてあの日のお礼もしたい』とか張り切ってるらしい!」
俺は目の前が真っ暗になった。マカロンおじさん(元請けの偉い人)が、俺(猫耳少女)に会いに来る。しかも「個人的なお礼」だと?
正体がバレるバレない以前の問題だ。現場で、部下たちの前で、元請けの部長から個人的なアプローチ(善意100%の推し活)を受ける。……地獄か。公開処刑だ。
「……課長。明日は休みます。宗教上の理由で」
「ダメだ! 部長がお前目当てで来るんだぞ! お前がいなかったら、機嫌を損ねて俺たちの査定が下がる!」
「知ったことか! 俺は帰る!」
「逃がすかこの猫娘!」
現場に俺の悲鳴が響き渡った。平穏な現場生活は、唐突に終わりを告げようとしていた。
……いや。そもそも、平穏ではないか。こうなったら、受けて立とうじゃねぇの。いや、っても、やっぱり……目立ちたくはねぇーなー。
次の投稿は少し日が空きます。
「元請け部長と現場のかくれんぼ」
金曜日(2月6日)、夜九時ごろに投稿致します。