朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
午後1時。
現場事務所の窓から、黒塗りの高級車が入ってくるのが見えた。元請けの北関東支店、営業部長の高田。
通称「マカロンおじさん」の到着だ。
俺(キャット・ワン)は、窓枠に手をかけ、舌打ちした。
「チッ、本当に来やがった……」
隣で佐藤がオロオロしている。坂本課長は、面白そうにタバコをふかしながら言った。
「どうするキャット。ここでおとなしく『検品』されるか?」
「冗談じゃないですよ。あのおっさんの『推し活』の相手なんて御免です」
俺はヘルメットのあご紐をきつく締め直し、覚悟を決めた。
「隠れるだけじゃジリ貧だ。あのおっさんは俺に会うまで帰らないでしょう。かといって、ここで待ち伏せされたら逃げ場がない。……現場に出ます」
「現場に?」
「現場は広いっすからね。入り組んだ足場、積み上げられた資材、無数の死角がある。検査業務を遂行するフリをして動き回れば、捕まらずに時間を稼げるはずだ。この『現場の迷路』を利用して、あのおっさんを煙に巻いてやりますよ!」
「そううまく行きゃ良いけどな?ま、好きにやってみろや、犬飼」
意味深に言う坂本課長を尻目に、俺は窓枠に足をかけ、身軽に外へ飛び出した。作戦名『現場猫(リアル)のかくれんぼ』、開始だ。
■
数分後。
高田部長は、坂本課長の案内で現場に入ってきた。手にはしっかりと風呂敷包み(手土産)を持っている。その顔は、遠足に来た小学生のように輝いていた。
「やあ坂本くん! 活気があるねぇ! で、例の妖精さん……キャットさんはどこかな?」
部長はウキウキと周囲を見回す。坂本課長は、わざとらしい仕草で現場の奥を指差した。
「あー、彼女ならさっきまでここにいたんですが……。なんでも『3階の配管が気になる』とかで、急行しましたよ」
「ほう! 仕事熱心だねぇ! よし、3階だね。行ってみよう!」
部長は意気揚々と仮設階段を登り始めた。その背中を見送りながら、坂本課長はニヤリと笑い、無線機のスイッチを入れた。
『……おいキャット。部長が3階へ向かったぞ。せいぜい逃げ回れよ。俺は部長に「あっちに行きました」ってナビゲートしてやるからな』
『裏切り者ォ!!』
俺の悲鳴(無線)は、現場の騒音にかき消された。
■
3階、配管シャフト前。俺は、配管工の兄ちゃんを壁際に追い詰めていた。逃げている最中でも、不備を見つけると体が勝手に動いてしまう。現場監督の悲しい性だ。
「おい。この貫通処理、耐火パテが薄いぞ」
「えっ、いや、規定量は入れましたよ?」
「甘い。奥まで詰まってない。表面だけ綺麗にして誤魔化したろ? 肉球で押せば感触で分かるんだよ。今すぐ詰め直せ。……来るぞ」
「へ? 誰が?」
「マカロンが来る。急げ!」
俺は配管工の尻を叩き、すかさずその場を離脱した。配管シャフトの裏側、狭い点検用スペースに身を滑り込ませる。
直後、階段の方から部長の声が聞こえてきた。
「キャットさーん! どこにいるんだーい!」
……完全に不審者だ。部長が配管シャフトの前を通り過ぎる。
「おや? いないな……。お、君。ここで猫耳の検査員を見なかったかい?」
部長が、さっきの配管工に話しかけた。配管工はパテ埋めに必死になりながら、びくびくして答える。
「あ、これはこれは、元請けさん。えーと、キャットさんですか?さっきまでそこで怒鳴ってましたけど……『次は4階のサッシを見る』って言って消えました」
「なんと! もう移動したのか! 噂通りの仕事熱心さ、素早いなぁ!」
部長は感心しながら、再び階段へと向かっていった。チョロい。俺は物陰から這い出し、ホッと息をついた。
「……ふぅ。危ないところだった」
だが、ここで安心してはいけない。坂本課長が誘導している以上、通常のルートでは追いつかれる。俺はすぐに単管パイプをよじ登り、吹き抜けを利用してショートカットを敢行した。
常に「直前までそこにいた気配」だけを残し、実体は掴ませない。ある意味、現場監督の必須スキルだ。余計な仕事をしないためのな。
■
それから1時間。現場では奇妙な追いかけっこが続いていた。
4階サッシ周り。
「おや、ここもいない。……お、このコーキング、打ち直してあるぞ。まだ乾いていない……さっきまで彼女はここにいたんだな!いやはや、見事見事」
5階内装エリア。
「キャットさーん! ……ん? この壁紙、メモが貼ってある。『糊不足、やり直し』……厳しいなぁ! 素晴らしい!」
屋上防水エリア。
「はぁ、はぁ……屋上にもいないのか……。彼女は忍者か何かかい、坂本くん?」
坂本課長は笑いを堪えながら答える。
「いやぁ、彼女は『現場の妖精』ですから。働き者の前には現れますが、サボってる奴の前からは消えるんですよ。部長、まだまだ信心が足りないんじゃないですか?」
「なんと! 私はまだ働きが足りないということか! よし、もう一度2階から探し直しだ!」
部長の体力とモチベーションが底なしだ。勘弁してくれ。俺は屋上の給水塔の裏で、へたり込んでいた。
「……しつこい。あのおっさん、体力オバケかよ」
ゼェゼェと息切れしている俺の隣で、佐藤がスポーツドリンクを差し出した。こいつだけは味方だ。
「先輩、水分補給してください。……でも、すごいです。逃げ回りながら、指摘事項がもう15件を超えてますよ。現場がピカピカになっていきます」
「うるせぇ。目に入っちまうんだよ、粗(あら)が」
俺はドリンクを一気飲みした。もう限界だ。これ以上逃げ回っていたら、仕事にならないし、俺の足(肉球)が悲鳴を上げる。
そろそろ、どこかの空き部屋に隠れてやり過ごすか……。
その時だった。現場全体に、スピーカーからチャイムの音が響き渡った。
ピンポンパンポーン♪
午後3時。建設現場における絶対的な聖なる時間、「一服(いっぷく)」の合図だ。
ガガガガ……ウィーン……。
ドリルの音が止む。職人たちが一斉に手を止め、道具を置く。そして全員が、ある場所へと向かい始める。「1階休憩所(ピロティ)」だ。
俺は凍りついた。
現場のルールとして、休憩時間は全員が休憩所に集まり、点呼と安全確認を行うことになっている。
派遣の俺だけが「行きません」とは言えない。となれば、あのおっさんも間違いなくそこへ来る。
「……詰んだか。つーか粘り過ぎたあのおっさん」
「どうします? 先輩」
「どうするってお前……」
逃走劇の強制終了だ。現場という広大なフィールドが、「休憩所」という閉鎖空間に限定される。もう、逃げ場はない。
そして、間髪入れずに坂本課長の無線が入った。勝ち誇った声だ。
『おーいキャット。3時だぞ。まさか休憩をサボるようなブラックな働き方はしねぇよな?ジュース買って待っててやるから、早く降りてこい』
「……クソが。ま、仕方ねぇ、腹くくるにゃ」
俺は重い腰を上げ、とぼとぼと階段を降り始めた。処刑台に向かう囚人のような足取りで。
観念するしかない。ついに、マカロンおじさんとの直接対決だ。