朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
午後3時。
現場の1階ピロティ(休憩所)は、職人たちの紫煙と缶コーヒーの匂いで満ちていた。
俺(キャット・ワン)は、階段の陰からこっそりと様子を窺っていた。
人だかりの中心には、新品のヘルメットを被った高田部長がいる。
彼はキョロキョロと周囲を見回し、少ししょんぼりとした様子だった。
「いやぁ、いないねぇ。妖精さんはどこに行っちゃったのかなぁ」
その姿は、デパートで迷子になった子供のようで、妙に哀れを誘う。……くそっ、罪悪感を刺激しやがって。
「よし、佐藤。みんなが部長に注目している隙に、俺たちは裏口からこっそり撤収するぞ。今日はもう『直帰』扱いに……」
「待て待て、どこへ行くんだキャット」
背後から、太い腕が伸びてきた。
ガシッ。
俺のオーバーオールの首根っこ(と、尻尾の付け根あたり)が掴まれた。
「……課長」
振り返ると、坂本課長がニヤリと笑っていた。その目は、獲物を捕らえた肉食獣のそれだった。
「逃がすかよ。部長がお前を探して、さっきから休憩所でウロウロしてんだぞ。ここで会わなきゃ、男……女か?が廃るってもんだろ」
「嫌ですよ! 離してください! あのおっさんの相手にゃんて業務外です!」
俺はジタバタと抵抗したが、課長の握力は万力並みだ。
「バカ言え。これも大事な『営業活動』だ。元請けの偉い人がお前を気に入ってるんだ。このコネを使わない手はねぇ。お前がニコッと笑って『部長~♡』って言えば、面倒な追加工事の承認だって一発で降りるんだよ」
「俺を枕営業みたいに使うな!」
「人聞きの悪いこと言うな。ただの『推し活ファンサービス』だ。ほら、行くぞ!」
ズルズルズル……。俺は抵抗虚しく、休憩所のど真ん中へと連行された。佐藤が
「先輩、諦めてください……」
と手を合わせている。ちくせう。裏切り者め。
■
坂本課長が、俺の背中をバンと叩いた。
「おーい、部長! 捕まえましたよ! 屋上でサボってました!」
現場の空気が一変した。休憩中の職人たちが一斉にこちらを見る。高田部長が振り返り、目を見開いた。
「ああっ!!」
部長の顔が、一瞬でパァァァッと輝いた。まるで後光が差しているようだ。
「いた! キャットさん!」
部長が小走りで駆け寄ってくる。もう逃げられない。俺は覚悟を決め、ヘルメットの鍔(つば)を少し下げて、ハスキーな声で挨拶した。
「……お疲れ様です。キャット・ワンです」
部長は俺の前で立ち止まり、まじまじと俺の顔(と埃まみれのオーバーオール)を見つめた。そして、深く頷いた。
「いやはや……。まさか、あのコンビニの妖精さんが、ウチの現場で働いていたとは。世間は狭いねぇ!」
部長は心底嬉しそうに言った。
「あの夜、君に助けてもらった後、ずっと気になっていたんだ。マカロンを渡せたとは言っても、ちゃんとした形でお礼が出来ていなかったらね。こんな形で再会できるなんて、やはりご縁があるんだなぁ」
純粋だ。あまりにも純粋な善意と好意。これが、俺が普段知っている「鬼の高田部長(査定に厳しい)」と同じ人物だとは信じがたい。
俺は毒気を抜かれ、少しだけ姿勢を正した。
「……こちらこそ。先日は、突然すみませんでした」
「いいんだいいんだ! ……あ、そうだ! これを!」
部長は大事そうに抱えていた風呂敷包みを差し出した。
「これ、よかったら食べてくれ。前回のマカロン、君には少し甘すぎたかなと心配でね。 今回はさっぱりした『千疋屋のフルーツゼリー』を持ってきたんだ。……あ、マカロンが嫌いだったわけじゃないよね?」
部長が不安そうに上目遣いで聞いてくる。周囲の職人たちが
「部長、恋する乙女かよ……」
「完全にデレてるな……」
とヒソヒソ話しているのが聞こえる。公開処刑だ。だが、この純粋な瞳を見てしまったら、嘘をつくのは罪悪感がある。
俺は心の中でため息をつき、正直に答えることにした。
「……いえ。別にマカロンは嫌いじゃありませんよ」
「え?」
「あのマカロン。仕事で疲れた体には、あのくらいの甘さが丁度よかったです。特にピスタチオのやつ。……美味かったですよ」
部長の目が点になった。そして次の瞬間、涙ぐんだ。
「ほ、本当かい!? よかったぁ……! 口に合ったか心配で、昨日は夜も眠れなかったんだ!」
大袈裟だろ。でも、部長は本当に嬉しそうにガッツポーズをした。
「ありがとう! その言葉が聞けて安心したよ! いやー、君は本当に素晴らしい! 仕事も熱心で、気遣いもできて、マカロンの味も分かる!」
部長は感極まった様子で、俺の手(軍手着用)を握ろうとして、寸前で止めた。セクハラにならないよう自制したらしい。紳士か。
「坂本くん! 聞いたかね! 彼女は我が現場の宝だ! 丁重に扱うように! 何か困ったことがあったら、私の決裁で何でも通すからな!」
坂本課長がニヤニヤしながら敬礼する。
「へいへい、承知しました。キャットさん、よかったな。部長のお墨付きだぞ」
こうして、俺は「元請け部長公認」のポジションを確立してしまった。
部長はその後も、
「ゼリーは冷やして食べてね」
「困ったことがあったら私の直通携帯にかけていいから」
と世話を焼き、上機嫌で帰っていった。
■
嵐が去った休憩所。俺はゼリーの箱を抱え、ベンチにへたり込んだ。
「……どっと疲れた」
だが、不思議と悪い気分ではなかった。少なくとも、この現場にいる間は、俺の身分は安泰だ。坂本課長の「悪巧み」のおかげで、最強の盾を手に入れたと言ってもいい。
坂本課長がニヤニヤしながら、俺の隣に座った。
「よかったな、キャット。部長は相当お前に入れ込んでるぞ。『彼女はダイヤの原石だ』なんてベタ褒めしてたしな」
「……買い被りすぎですよ。俺はただ、現場を回したいだけです」
「ま、その意気込みがあれば大丈夫だろ。このまま竣工まで、俺の右腕として働いてくれよ」
課長は気楽に言っているが、俺は一抹の不安を覚えていた。
高田部長の、あのキラキラした瞳。ただの「お気に入り」で済めばいいが……あの熱量は、何か別の形に暴走しそうな予感がする。
俺の尻尾が、予期せぬトラブルを感知して、ピクリと揺れた。
この出会いが、俺の運命(と戸籍問題)を大きく狂わせることになるとは、この時はまだ知る由もなかった。