朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
高田部長の「休憩所襲来」から数日後。俺(キャット・ワン)の現場生活は、驚くほど順調に回っていた。
元請けの部長に気に入られた「派遣の猫耳検査員」。その噂は現場中に広まり、俺は一種の「アンタッチャブル(触れてはいけない聖域)」な存在になりつつあるようだった。
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午前10時。俺は3階の足場の上で、鉄筋班長・権田と図面を広げていた。
「なぁ、キャットさん。ここ、どうすりゃいい?」
あの頑固な権田が、揉み手をしながら俺の顔色を窺っている。俺は図面を一瞥し、即座に指示を出した。
「設計図の納まりが悪いですね。D19をダブルで並べて、かぶり厚を確保しましょう。あとで俺……私が、元請けの監督に承認取っておきますから」
「さすがだ! 姉ちゃんが言ってくれれば、元請けも一発でOK出すから助かるぜ!」
そう。俺のバックには「高田部長(元請けの偉い人)」がいる。本来なら通すのが面倒な設計変更も、俺が口を添えるだけで「キャットさんが言うなら」とスムーズに通るのだ。下請けの現場監督(中身)としては、これほど仕事がやりやすい環境はない。
佐藤も小声で囁く。
「先輩、最強ですね。下請けの立場なのに、現場を完全に支配してますよ」
「支配じゃねぇよ。円滑にしてるだけだ」
俺は満足して尻尾を揺らした。このまま派遣スタッフとして、坂本課長の下で働き続けるのも悪くない。元請けの威光を借りて、現場を快適に回す。これが俺の新しい生き方かもしれない。
……そう思っていた矢先だった。
「おーい、キャット! 事務所に戻ってこい! 元請けの部長がいらしたぞ!」
坂本課長の、普段より一段緊張した声が無線から響いた。
え?マジ?また来たのか、マカロンおじさん。
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現場事務所に来てみれば、普段は坂本課長が座る上席に、高田部長がドカッと座っていた。坂本課長はパイプ椅子で小さくなっている。
完全なる「元請け」と「下請け」の構図だ。
「やあ、キャットさん! 仕事中すまないね!」
部長は俺を見るなり、満面の笑みで手招きした。今日は作業着ではなく、ビシッとしたスーツ姿だ。
「……お疲れ様です、部長。 本日はどのようなご用件で?」
俺はヘルメットを脱ぎ、下請けらしく恭しく頭を下げた。部長は居住まいを正し、真剣な眼差しで俺を見つめた。
「今日は視察じゃないんだ。個人的に、君に提案があってね」
提案? 俺はチラリと坂本課長を見た。課長は「俺も聞いてない」という顔で冷や汗を拭っている。
すると、このマカロン部長は、なかなか大きな爆弾発言を投下した。
「単刀直入に言おう。キャットさん。今の派遣会社を辞めて、ウチの『正社員』にならないか?」
……は?
事務所内の空気が凍りついた。佐藤が持っていたお茶のペットボトルを落とした。坂本課長が椅子から転げ落ちそうになった。
「……そちらの……つまり、元請けの、正社員ですか? 私が?」
「そうだとも! 君なら自信を持って推薦できる!」
部長は熱弁を振るう。
「この数日、君の働きぶりを見て確信した! 的確な判断力、職人掌握術、そして品質へのこだわり。君のような逸材が、下請けの派遣スタッフ(使い捨て)で終わるのは、建設業界の損失だ!」
部長は身を乗り出した。
「ウチに来れば、待遇は今の倍……いや、3倍は保証する! ボーナスも満額だ。それに猫耳教も認めさせよう! どうだ? 悪い話じゃないだろう?」
悪い話どころではない。
「下請けの派遣バイト」から、「スーパーゼネコンの正社員」への引き抜き。建設業界においては、まさにシンデレラストーリーと言えるレベルのお話だ。俺が普通の監督なら、土下座してでもしがみつくオファーだ。
だが。今の俺にとっては「死刑宣告」に等しい。
元請けの建設会社に入社するということは。厳格な身元調査がある。戸籍、住民票、マイナンバー。その全てにおいて、俺(キャット・ワン)はこの世界に存在しないのだから。
それに、もし俺が大都に入ったら……。俺は「坂本課長(元上司)」の「お客さん(発注者)」になってしまう。むしろ、そっちのほうが数段恐ろしい。正直、そんなことができるか!ってのが本音だ。
「あ、あの……部長。身に余る光栄なんですが、私はその……坂本課長の現場が好きというか、今の気楽な立場が合っているというか……」
俺は必死に断ろうとした。だが、部長は「遠慮」だと受け取ったようだ。
「何を言ってるんだ! 坂本くん! 君も彼女の背中を押してやってくれ! 彼女の才能を、君のところで飼い殺しにする気かね?」
元請けからの圧力。坂本課長の顔色が青から白に変わる。下請けとして、元請けの部長に「No」とは言えない。だが、俺の事情(身元不明)を知っている課長としては、入社させるわけにもいかない。
「い、いやぁ部長……。彼女は確かに優秀ですが、まだ現場に入って日が浅いですし……いきなり元請けさんのような大企業では、彼女も萎縮してしまうかと……」
「大丈夫だ! 私が面倒を見る!」
部長は聞く耳を持たない。鞄から、分厚い封筒を取り出した。
「ほら、これが入社書類一式だ。特例で、一次試験は免除にした。とりあえず、身分証明書のコピーと、履歴書だけでいい。あとは私が人事部にねじ込んでおくから!」
目の前に置かれた、〇〇建設のロゴ入り封筒。それは、普通の派遣社員ならば喉から手が出るほどに欲しい招待状であり、しかし、俺の破滅への招待状でもある。
そんな俺の気持ちも知らず、部長はニコニコしながら、ボールペンを差し出してくる。
「さあ、まずはここに名前と住所を書いてくれればいい。遠慮はいらないよ。君を『こちら側(元請け)』に迎える準備はできている!」
悪気ゼロの笑顔。俺の手(肉球)が震える。書けない。書いたら終わる。でも、元請けの部長の顔に泥を塗って断れば、坂本課長の立場まで危うくなる。
(どうする……!? 書くフリをするか? それとも仮病で倒れるか!?)
俺がパニックになりかけた、その時。
スッ……。
横から伸びてきた手が、俺の目の前の書類をそっと押さえた。先ほどまで顔が白黒していた坂本課長だ。
「……部長。少し、落ち着きましょう」
「ん? どうしたんだ坂本くん。君も彼女の出世を喜んでくれるだろう?」
「ええ、もちろんです。ですが……見てください、彼女の手を」
課長は俺の手を指差した。……気づかなかった。震えてやがる。
「彼女、こう見えて『あがり症』なんです。急に〇〇建設さんのような雲の上の会社から誘われて、パニックになってます。野良猫を急に座敷に上げようとすると、逃げ出すのと同じですよ」
野良猫扱いか。だが、ナイスフォローだ。俺はコクコクと頷き、小動物のように震えてみせた。
「そ、そうなのか……? すまない、私が急ぎすぎたか……」
部長が狼狽する。課長はすかさず畳み掛けた。
「ここは一つ、彼女に『持ち帰り』させてやってくれませんか。家でじっくり考えて、心の整理がついたら提出させる。その方が、彼女も覚悟を決めて、大都さんの看板を背負えるはずです」
さらに、ダメ押しの一言。
「それに、派遣会社との契約の兼ね合いもあります。仁義を切らずに引き抜いては、部長の顔にも傷がつきますから」
さすがベテラン現場監督、俺の上司。「相手(部長)のメンツ」を守りつつ、時間を稼ぐ完璧な言い訳だ。
部長は「うむ……」と唸り、納得したように頷いた。
「確かに、君の言う通りだ。無理強いして、彼女を怖がらせては本末転倒だな。すまなかった、キャットさん」
部長は書類を俺に持たせた。
「分かった。書類は預けておくよ。期限は……そうだな、来週の月曜日まで待とう。強制はしないが……キャットさん、良い返事を待っているよ!」
部長は爽やかな笑顔を残し、颯爽と帰っていった。嵐は、去った。だが、事務所には、重苦しい沈黙と、一枚の入社書類だけが残された。
「……助かりました、課長」
俺はその場にへたり込んだ。正直、寿命が3年は縮んだと思う。
「礼を言うのは早ぇぞ、キャット」
坂本課長はタバコに火をつけ、渋い顔で煙を吐き出した。
「単なる時間稼ぎだ。期限は来週の月曜。それまでに……どうにかしてこの状況を打破しなきゃならん」
俺はちゃぶ台に置かれた書類を見つめた。
正社員になれば身元がバレる。
断れば坂本課長の顔も潰すことになるだろう。それに、「何かやましいことがあるのか」と怪しまれるかもしれない。何より、仕事がやりにくくなるのは御免こうむりたいってのが、監督の立場の本音だ。
かといって、真実を話せば部長の夢を壊すだろうし、そもそも、話がもっとややこしくなるだろう。
八方塞がりだ。俺たちは一体、どうすればいいんだ。