朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
その日の夜。
俺(犬飼/キャット・ワン)のアパートの狭い一室で、緊急対策会議が開かれていた。
参加者はもちろん俺、佐藤、そしてコンビニでビールと柿ピーを買い込んで上がり込んできた坂本課長の3名だ。
ちゃぶ台の上には、高田部長が置いていった「正社員登用試験申込書」が、まるで時限爆弾のように鎮座しているわけで。
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「……さて、どうするか」
坂本課長がビールをあおりながら、重い口を開いた。
「事実だけを確認する。期限は来週の月曜。そして、犬飼。お前がこの『悪魔のオファー』をどう処理するか」
「判っています、現実的な選択肢は三つ、ですにゃ……ね?」
「ああ、その通り」
課長は指を折って提示した。
1.断固拒否する。
2.全てを告白して、部長に相談する。
3.身分証を用意して、入社手続きを進める(フリをする)。
俺は頭を抱えたまま、呻くように言った。
「1番が理想ですけど……断り切れますかね?」
「まず無理だろうな」
課長は即答した。
「今の部長は『無敵の人』状態だ。『君の才能を埋もれさせたくない!』という善意100%で動いている。下手に拒絶し続けると、『何か言えない事情があるのか? なんなら、俺が力になるぞ!』と、逆に距離を詰めてくるタイプだ。適当な嘘をついても、解決しようと奔走するだろう」
佐藤が手を挙げた。
「じゃあ、2番目の『部長に本当のことを話す』はどうですか?部長、あんなに先輩のことを気に入ってるじゃないですか。事情を話せば、『君が犬飼くんだったのか!』って……」
「……それが一番の博打なんだよ、佐藤」
俺はため息をついた。
「あのおっさんは、俺(キャット)に『理想の現場女子(妖精)』というファンタジーを見てるだろ」
「そう、ですかね?」
「そうだろ。あんだけはしゃぐおっさん、なかなか見れるもんじゃない。……そこにだ。
『実は中身は、君の下請けで顔見知りの、脂ぎった38歳の中年男性でしたー!』なんてカミングアウトしてみろ」
坂本課長が真顔で引き取った。
「笑って許してくれるかもしれない。だが、ショックで寝込むかもしれない。あるいは……『私の純情を弄んだな!』と逆上して、俺たち全員を懲戒解雇にするかもしれない。あの人の純粋さは、時に狂気と紙一重だ。反応が全く読めねぇんだよ」
俺の生活がかかっている以上、勝率のわからないギャンブルには出られない。
「……とまぁ、こう考えていくと……、3番。『入社手続きを進める』というのが一番マシに思える」
俺は申込書を見つめた。佐藤と課長は、首を小さく振っていた。
「だけど、これが一番ハードルが高い。俺には『戸籍』がない。『住民票』もない。現代社会で、戸籍がない人間は『存在しない』のと同じだ」
「つまり、こう言う事ですか、先輩。どうにかして、来週の月曜までに時間を稼ぐ……」
佐藤は眉間に皺を寄せる。現実的ではないと思っているようだ。続けて、坂本課長も腕を組んで、天を見上げた。
「あるいは「身元確認」をのらりくらりと躱す方法を考えるしかない……だろう。いやしかし……そうなると、『まだかい?』とか言いながら部長が暴走すっかもしんねぇしなぁ」
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俺たちが頭を抱えていた、その時。坂本課長のスマホが震えた。
――ブブブッ、ブブブッ。
課長が画面を見て、眉をひそめた。
「……げっ」
「課長、どうしました?」
「総務の松田からだ。いやな予感がしやがる」
室内の空気が凍りついた。こんな夜に、総務から電話?
課長は「シーッ」と俺たちを黙らせ、スピーカーモードにして通話ボタンを押した。
「……お疲れ様です、坂本です」
『夜分に恐れ入ります、坂本課長。総務の松田です。そちらにいらっしゃる派遣社員、キャット・ワンさんについて連絡事項があります』
スマホから響く声は、事務的で、感情が読み取れない冷ややかな声だった。怒っているわけではない。ただ、淡々と業務を遂行する声だ。
『先ほど、高田部長から連絡がありまして。「キャット・ワン氏の採用は社長決裁案件として通すから、最優先・最短ルートで手続きを進めろ」との指示が降りました』
げ、坂本課長の心配が現実になりやがった。社長決裁を取り付けたのかよ部長。どんだけ俺を登用しようと張り切ってるんだよ!
『つきましては、通常の採用フローを飛ばして、明日中に人事データを登録する必要があります。明日、朝一番で彼女の「身分証明書のコピー」と「基礎年金番号」を送ってください』
……終わった。来週の月曜どころじゃない。明日だ。明日には嘘がバレる。
「あー、いや松田さん。彼女、ちょっと事情があって、書類が手元になくて……」
『事情?課長。まさかとは思いますが、身元確認もせずに現場に入れていたわけではありませんよね?』
声の温度が2度下がった。
『もし書類がないなら、私が明日、直接現場へ伺って確認します。不法就労や反社会的勢力の関与がないか、コンプライアンス室としてチェックさせていただきますので』
――プツッ。ツー、ツー、ツー……。
電話が切れた。俺たち3人は、しばらく動けなかった。
「……どうするんですか、課長」
俺の声は震えていた。
「どうするもこうもねぇだろ。こうなったら」
課長は空になったビール缶を握りつぶした。
「高田部長のせいで時間切れだ。部長の善意が暴走して、松田といううちのコンプライアンス『管理マシーン』を起動させちまった。明日、松田が来る事実はもう変わらねぇ。――そこでまともな回答ができなきゃ、犬飼、お前は『正体不明の不審者』扱いだ。最悪、現場への立ち入り禁止と、警察への通報が待ってるぞ」
詰んだ。身分証なんてない。あるのは、この猫の体と、現場監督としての記憶だけだ。
すると、佐藤がおずおずと口を開いた。
「せ、先輩……。誰か……誰かいないんですか?先輩の身元を、証明してくれるような人は……」
俺は天井を仰いだ。古い蛍光灯がチカチカと点滅している。
身元を証明できる人間か。そんな都合のいい人間がいるわけがない。俺はもう、どこからどう見ても、犬飼剛ではないのだから。
「……いねぇよ」
俺は絞り出すように言った。
「俺はもう、この世のどこにも存在しないんだ」
アパートの一室に、絶望的な沈黙だけが降り積もっていった。明日の朝、俺の「キャット・ワン」としての生活は終わる。
そう確信するしかない夜だった。