朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
翌朝、午前9時。現場事務所。
そこには、処刑台のような重苦しい空気が漂っていた。
俺(キャット・ワン)は、パイプ椅子の端に座り、膝の上で手を組んでいた。震える肉球を、もう片方の手で必死に抑える。隣には、顔面蒼白の佐藤。そして正面には、腕を組み、仁王立ちする坂本課長。
昨夜、高田部長は「私が守る!」と力強く言ってくれた。だが、相手はあの松田だ。部長の情熱だけで、本当に止められるのか?
カツ、カツ、カツ……。
外から、正確無比なリズムを刻むヒールの音が響いてくる。死神の足音だ。その音がドアの前でピタリと止まり、ノックもそこそこにドアが開いた。
ガチャリ。
「おはようございます。総務の松田です」
現れたのは、黒のパンツスーツに身を包んだ、冷徹な美貌の女性。その手には黒いバインダー。目には一切の笑みがない。室内の温度が、体感で5度は下がった気がした。
松田は一直線に坂本課長の前へ歩み寄った。
「坂本課長」
「お、おはようございます……!」
課長が直立不動で迎える。松田はため息をつくように、短く言った。
「……どういうことですか?」
怒っている。だが、その怒りの矛先は、俺たちではないようだった。
「今朝6時。高田部長から電話がありました。すごい剣幕で、私の安眠を妨害しましてね。『キャットさんは国の宝だ! 戸籍という紙切れで彼女を測るな! 私が全責任を持つから、特例でパスさせろ!』……と怒鳴られました」
松田はこめかみを指で押さえた。頭痛を堪えているようだ。
「正直、意味が分かりません。ですが、『社長決裁案件』として処理しろとの業務命令です。私の権限では、これを拒否することはできません」
……通った!!昨夜の根回しと、部長の暴走が完璧に機能している!俺と佐藤は顔を見合わせ、テーブルの下で小さくガッツポーズをした。
松田は深呼吸をして感情をリセットし、俺の方を向いた。
「あなたが、その『特別な事情』をお持ちの方ですね」
「……は、はい」
俺は昨夜の「悲劇のヒロイン」設定を思い出し、俯き加減で答えた。
「部長の話では、『無戸籍』のご事情があるとのこと。出生届が出されないまま育ち、身分を証明する術がない……と」
松田の目が、俺を観察するように細められた。嘘を見抜こうとしているのか、それとも単に憐れんでいるのか。俺は必死に、震える手(演技ではない)を膝に置いたまま耐えた。
「……分かりました。部長が『私が彼女の身元引受人になる』と仰っている以上、会社としてはそれを担保とします。今回は、『就籍許可申立中(戸籍作成準備中)』の特例扱いとして、仮登録を行います」
「あ、ありがとうございます……!」
助かった。首の皮一枚繋がった。これで晴れて、俺は元請けの(仮)社員として、この現場にいられる。
松田はバインダーを閉じ、帰ろうとした……かに見えた。だが。
「ただし」
その一言で、空気が再び凍りついた。松田は鞄から、銀色のケースを取り出した。
「紙の書類は部長権限で免除できても、『現場の安全管理』は譲れません」
「……え?」
「あなたは法的・社会的に『存在確認』が取れない状態です。万が一、現場で崩落事故に巻き込まれたり、意識不明の重体になった際、あなたの身元を確認する手段がありません。指紋データも、歯型データも、警察にはないわけですから」
松田は淡々と言った。正論だ。あまりにも正論すぎて、反論の余地がない。「安全第一」を掲げる建設会社として、譲れないラインなのだ。
「ですので……最低限の『生体データ』は登録していただきます」
松田はケースを開けた。中に入っていたのは、滅菌パックされた綿棒のようなキットだった。
「DNAサンプルの採取です。口腔粘膜をいただきます。これなら、戸籍がなくても『あなた』という個体を識別し、万が一の際の照合に使えますから」
俺は凍りついた。
DNA。
今の俺は、猫耳が生え、尻尾が生え、肉球がある。見た目は人間(美少女)に近いが、中身はどうなっている?もしこれを分析されて、「ヒトとネコのキメラ」だなんて結果が出たら……。
無戸籍どころの騒ぎじゃない。研究機関送りだ。
「さあ、口を開けてください。……まさか、これも拒否されるわけではありませんよね?」
松田の目が光る。部長という盾があっても、これだけは回避できない「実務的な壁」。 ここで拒否すれば、「やはり何か隠している(犯罪者か?)」と怪しまれ、特例も取り消されるだろう。
坂本課長も固まっている。これは完全に想定外だ。部長の「感情論」ではカバーしきれない、「科学と安全」の領域だ。
「ど、どうしました? ただの綿棒です。痛くも痒くもありませんよ」
松田が怪訝な顔で、綿棒を俺の唇に近づける。逃げ場はない。
(……やるしかないのか)
俺は観念して、小さく口を開けた。
「……あーん」
松田の手際よい動きで、綿棒が俺の頬の内側を数回擦った。ほんの数秒の出来事。だが、それは俺にとって「パンドラの箱」が開く音だった。
「はい、採取完了です」
松田は綿棒をケースに収め、パチンと蓋をした。
「検査結果が出るまで、一週間ほどかかります。それまでは『仮採用』ということで。……何かデータに異常があれば、即刻契約は破棄させていただきますので」
松田は一礼し、カツカツとヒールを鳴らして去っていった。嵐は過ぎ去った。だが、俺たちの手元には、得体の知れない爆弾(DNA検査待ち)が残された。
俺はその場にへたり込んだ。
「……助かった、のか?」
坂本課長が、額の脂汗を拭いながら震える声で言った。
「おい、キャット……。お前、中身は人間だよな? ……DNAも、元の人間のままだよな?」
「そんなの、分かりませんよ」
俺は自分の肉球を見つめ、プニプニと押してみた。感触は完全に猫だ。鋭い爪も出る。
「心は人間(おっさん)ですけど……細胞レベルでどうなってるかなんて、考えたこともなかった」
もし、検査結果に「異常あり」と出たら。「人間ではない」と判定されたら。部長の「私が守る」という言葉も、虚しく響くだけになるかもしれない。
「……大丈夫か、これ」
俺は誰にともなく呟いた。一難去ってまた一難。身元保証を手に入れた代償に、俺たちは「科学の審判」を待つことになったのだ。