朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
バタン、ガチャリ。玄関のドアを閉め、鍵をかけた。金属のラッチが噛み合う乾いた音が、これほどまでに心地よいものだとは知らなかった。俺にとってこの音は、外敵と自分を隔てる鉄の結界が完成した音そのものだ。
その瞬間、俺の体から、魂が抜けたように力が消えた。膝から崩れ落ちるように、その場にへたり込む。
「……生きて帰ってきたぞ……」
たかがコンビニ往復15分。距離にして数百メートル。だが、その疲労感は真夏の炎天下で、コンクリート打設工事を一日中指揮した後のようだった。肉体的な疲れというより、精神的な摩耗が激しすぎる。
俺は震える手(萌え袖状態)で、深く被っていたパーカーのフードを掴み、乱暴に引き剥がした。
ボヨヨン。
帽子によって無理やり頭部に押し付けられていた猫耳が、弾力を伴って勢いよく立ち上がった。血流が戻るような感覚と共に、耳が勝手にピクピクと動き、部屋の中の環境音――冷蔵庫のブーンという音や、時計の秒針の音――を拾い始める。
「あー……うっるせぇー……でも、良い、解放感だ……」
次に、ズボンの中に無理やり押し込んでいた尻尾だ。俺は立ち上がり、スウェットの腰回りを緩め、お尻に空けた穴から尻尾を引き抜いた。圧迫から開放された長い尻尾は、まるでそれ自体が意思を持つ生き物のように、空中で大きくしなり、ブンブンと左右に振られた。別に俺は喜んでいるわけではない。凝り固まった筋肉をほぐしているのだ。
俺はサンダルを足先で引っ掛けて蹴り飛ばし、リビングへと向かった。歩く気力すらない。フローリングの上を、四つん這いになって這っていく。人間としての尊厳? 知ったことか。今の俺にとっては、二本足でバランスを取って歩くことすら、余計なカロリー消費なのだ。
リビングのテーブルに辿り着き、戦利品の入ったレジ袋をぶちまけた。カランカランと軽い音がして、中身が転がり出る。
ツナ缶(5缶パック×3)。
そして、スマホ用タッチペン(導電繊維タイプ)。
俺はソファによじ登り、拝むような気持ちでタッチペンのパッケージを手に取った。「開け口」と書いてあるが、肉球ではフィルムが剥がせない。俺は迷わずパッケージの端を奥歯で噛み切り、ペッ、とビニール片を吐き出した。野蛮極まりないが、これが最適解だ。
出てきたのは、なんの変哲もない銀色の棒だ。100円ショップの文具コーナーの隅にぶら下がっているような、安っぽいアルミと繊維の塊。だが、今の俺には、岩に突き刺さった伝説の聖剣に見える。
俺は肉球でしっかりとペンを握りしめた。鉛筆持ちはできない。肉球の厚みが邪魔をする。マジックペンを握りしめる幼児のように、五本の指(肉球)でガシッと掴む。不格好だが、固定はできた。
テーブルの上に放置していたスマホを手に取る。サイドボタンを、肉球で押し込む。画面が点灯する。無情な「ロックされています」の文字。俺は深呼吸をし、タッチペンの繊維質のペン先を、画面に触れさせた。
―――スッ。
滑らかだ。まるで氷の上を滑るように、ペン先が画面を移動する。指紋も、鼻の脂もつかない。
パスコード入力画面。トン、トン、トン、トン。リズミカルなタップ音とともに、ついに。
ピロン♪
ロックが解除された。ホーム画面のアプリアイコンたちが、俺を歓迎するかのように並んでいる。
「……すげぇ……!」
俺は思わず声を上げた。文明だ。俺は今、人間としての権利を取り戻したのだ。たかだか100円の棒切れ一本で、俺は再び「情報の海」へ漕ぎ出すためのオールを手に入れた。もう、店員に見られながらスマホにキスをするという辱めを受けなくて済む。
安堵すると同時に、強烈な空腹感が舞い戻ってきた。緊張の糸が切れたせいで、胃袋が暴動を起こしている。
俺はツナ缶のパックを引き裂いた。プルタブにタッチペンの尻(プラスチック部分)を引っ掛けて持ち上げ、最後は指で引き剥がす。学習能力の勝利だ。カトラリーなど出している余裕はない。俺は行儀悪く、缶に直接口をつけた。
「……んぐ、ふぅ……」
オイル漬けのマグロの身が、舌の上で解ける。美味い。異常なまでに美味い。人間だった頃もツナは好きだったが、ここまで脳髄に響く旨味ではなかったはずだ。
猫の味覚は甘味を感じない代わりに、アミノ酸や脂肪分に対する感度が鋭敏だという話を聞いたことがある。今の俺にとって、この油ギトギトの魚肉は、三ツ星レストランのメインディッシュに匹敵するご馳走だった。
一缶目を瞬殺し、二缶目を開ける。無心で食らう。汁まで丁寧に舐めとる。三缶食べ終えたところで、ようやく人心地がついた。
「……ふぅ。食った」
満腹感と共に、今度は抗いようのない波が押し寄せてきた。睡魔だ。人間の時の「あー、昼寝したいな」というレベルではない。脳のブレーカーを強制的に落とされるような、生物としてのシャットダウン信号だ。
冬の午前の日差しが、レースのカーテン越しにリビングに降り注いでいる。その光の暖かさが、罠のように俺を誘っていた。
「あ、これ……ダメだ……」
思考が泥の中に沈んでいく。俺はソファの上で丸くなった。無意識のうちに、一番体温を逃さない姿勢――アンモナイトのような形状へと体を折りたたむ。自分の尻尾を抱き枕のように抱え込むと、極上の安心感に包まれた。
仕事のこと?
これからの生活のこと?
そんな複雑な処理は、今の脳みそには重すぎる。寝る。ただひたすらに、寝る。俺の意識は、瞬く間に温かい闇へと溶けていった。
◆
ふと、目が覚めた。
意識が浮上する感覚は、水面から顔を出すように唐突だった。目を開ける。部屋は暗かった。カーテンの隙間から、街灯のオレンジ色の光が僅かに差し込んでいる。
「……ん」
体を起こし、大きく伸びをする。背骨がありえない角度まで反り、全身の関節がパキパキと小気味よい音を立てる。手足の爪がグワッと広がり、また収まる。
時計を見る。壁掛け時計の針は、19時30分を指していた。朝の9時頃に寝落ちしたから、かれこれ10時間以上も気絶していたことになる。
「寝すぎだろ……」
呆れたように呟くが、体は驚くほど軽かった。頭痛も、倦怠感もない。完全にチャージ完了だ。そして奇妙なことに、暗い部屋の中がよく見えた。家具の輪郭、床に落ちているツナ缶の空き容器、空気中に漂う微細な埃まで。
すべての光量が増幅され、モノクロに近いが鮮明な映像として視界に飛び込んでくる。猫の夜目というやつか。
――静かだ。世界から取り残されたような静寂。俺はソファの隙間に落ちていたスマホを拾い上げた。
「さて、十時間も寝たからな。浦島太郎の時間だ」
タッチペンを握り、画面をタップする。情報収集のためにSNSアプリを開く。俺のアカウントは鍵付きの見る専アカウントだ。フォロワーは数人のリアル知人のみ。通知なんて来ているはずがない。
タイムラインには、いつものようにアニメの実況感想や、政治への文句、美味しそうな飯の画像が流れている。平和だ。俺が猫になろうが、世界は何一つ変わらず回っている。
「……ん?」
トレンドワードを眺めていた俺の手が止まった。見慣れない単語が、上位を独占している。
1. #コンビニの妖精
2. #マトリックス美少女
3. #猫耳パーカー
4. 反射神経
5. 異次元の動き
……なぁーんだこれ?
実に嫌な予感がする。現場で「図面と現況が致命的に合わない」と気づいた時と同じ、背筋が凍る感覚。冷や汗が毛穴から噴き出すような焦燥感。俺は震えるタッチペンで、一番上のタグをタップした。
画面が切り替わる。一番上に表示された動画は、すでに240万再生を超えていた。投稿時間は、今日の午前10時頃。俺が泥のように眠りこけている間に、何かの動画が拡散され、まとめサイトに転載され、海外のインフルエンサーに引用され、完全に「祭り」になっていたのだ。
じとりとした背中を意識しながらも、再生ボタンを押す。音が出る。コンビニの環境音。画角からして、店内にいた客がスマホで隠し撮りしたものだろう。手ブレがひどいが、被写体ははっきりと捉えられている。
映っているのは、グレーのパーカーを目深に被り、サンダルを履いた不審者――明らかに、俺だ。レジ前で、サラリーマンが小銭入れをぶちまける。ジャラララッという、けたたましい音がする。
その瞬間。画面の中の俺が、消えた。
いや、消えたのではない。速すぎるのだ。黒い残像となって床を滑走し、独楽(コマ)のように回転し、バネ仕掛けの人形のように跳躍する。人間離れした……というより、完全に獣の動き。全てのコインを制圧し、静止するまでの数秒間が、克明に記録されていた。
『はっや!?』
『CG乙。これ合成だろ』
『いや、影の処理とか完璧すぎる。マジ映像か?』
『重心移動が完全に四足歩行動物のそれなんだが』
『五輪選手? それともパルクールの達人?』
コメント欄が滝のように流れていく。俺の必死の回収作業が、スローモーション再生付きで詳細に検証され、物理演算の解説までついている。
「……マジかよ」
さらに、動画のラスト。俺が顔を上げて、サラリーマンに小銭を差し出すシーン。フードがずれて、その下の顔が露わになる瞬間。
画質は荒いが、そこには不機嫌そうに目を細める美少女の顔と、フードの中で押し潰されかけていた猫耳の先端が、チラリと見えていた。
『顔面偏差値高すぎワロタ』
『ここ!この一瞬見える耳!コスプレか?地毛か?』
『サンダルなのが逆に強キャラ感ある』
『最後のお辞儀の無愛想さがクールすぎて惚れる』
『推せる。誰これ?特定班はよ』
「……」
俺はスマホをソファに放り投げた。頭を抱える。肉球がこめかみに当たってプニプニする。暗い部屋の中で、スマホの画面だけが青白く光り、コメントが次々と更新されていくのが見える。
「なんだよ『強キャラ感』って……ただ金がなくてサンダル履いただけだぞ……やめてくれ」
まぁ、端的に言えばバズっていたわけだ。
俺が気絶するように眠っている間に、俺はネットのおもちゃ……いや、謎のカリスマ・アイドルに祭り上げられていた。「クール」「ミステリアス」「身体能力おばけ」。並ぶ単語はどれも、中身の「32歳・腰痛持ち・現場監督」とは乖離したものばかりだ。
幸いなのは、誰もこれが「病欠中の犬飼剛」だとは気づいていないことだ。当たり前だ。まさか、あのアラサーのおっさんが、こんな美少女に変身しているとは、神様でも想像つくまい。
だがこれは、マズいことになった。もし俺がまた外に出て、同じような動きをしたら?特定班に住所を割られたら?会社にバレたら?
「…………どうすりゃいいんだ」
俺は暗闇の中で立ち尽くした。外の世界は、俺を知らないまま、俺の虚像で盛り上がっている。この部屋の中だけが、世界の喧騒から切り離されたエアポケットのようだ。
「……そうだ。俺みたいなことになった奴は……?」
一縷の望みをかけて、SNSの検索欄に「猫になった」や「獣人化」など、思いつくばかりの単語を入れてみる。だが。
「そりゃ、そうか」
ヒットはゼロ。―――孤独だった。人間だった頃の孤独とは違う、種族レベルでの孤独。俺は、人間社会のルールからはみ出してしまったのだ。
グゥゥゥ……。
俺の絶望とは裏腹に、腹の虫が鳴いた。あれだけ食べたのに、もう腹が減っている。この体の燃費はどうなっているんだ。
「……とりあえず、残りのツナ缶を食うか」
俺は独りごちた。今は考えるのをやめよう。これ以上画面を見ていたら、胃に穴が空きそうだ。俺はスマホを裏返しにして置き、キッチンへと這っていった。
―――その背後で。裏返されたスマホが、通知の振動で、ブブッ、ブブッと微かに震え続けていたことを、俺はまだ知らなかった。