朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
スマホをソファに放り投げた時には、時刻は20時を回ろうとしていた。19時30分に起きて、ツナ缶を貪り食い、ネットで自分の動画がバズっているのを確認した。そこまではよかった。
問題は、その後だ。やることがない。
体はたっぷり寝たせいでエネルギーに満ち溢れているのに、発散する先がない。昨日までは、明日の工程表を確認し、業者の手配をし、図面をチェックするというルーティンがあった。だが今は、ただの「病欠中の社員」であり、社会的に何者でもない。
「……明日の打設、雨予報だったな。シート養生、足りてるか?」
独り言が漏れる。現場に行けない自分がもどかしい。俺は暗い部屋の中、四つん這いでウロウロと歩き回り、意味もなく、そして無意識下で通販のダンボール箱を爪でバリバリと引っ掻いた。……本能だろうか?なんだか、虚しい。
その時。ソファに投げ出したスマホが、ブブッ、ブブッ……と震えた。着信だ。画面を見る。
着信:佐藤(新人)
職場の部下だ。真面目だが、少し要領の悪い若手だ。なぜこの時間に?何か現場でトラブルか?それとも、まさか心配で見に来てくれたとか?確かに、寮として使っているアパートは歩ける距離だ。
……出たい。電話に出て「どうした?」と聞きたい。だが、今の俺の声は、どう足掻いても「酒焼けしたハスキーな美少女」の声だ。電話に出た瞬間、俺の社会人人生は終わる。
ブブッ、ブブッ……プツッ。着信が切れた。ふぅ、と息を吐き出した瞬間。
ピンポーン。
部屋の空気が凍りついた。無機質なチャイムの音が、静寂を引き裂く。まさか。
俺は忍び足でインターホンのモニターの前へ移動し、下から覗き込んだ。そこに映っていたのは、作業着姿の佐藤だった。コンビニの袋と、厚い茶封筒を提げ、不安そうな顔でドアの前に立っている。
「……マジかよ。来てんのか」
アポ無しの見舞いか。昭和か。いや、あいつのことだ。重要書類を届けるついでに、食料でも買ってきたのだろう。居留守を使うか?だが、部屋の電気はついている。外から見れば在宅はバレバレだ。
佐藤が再びインターホンを押す。そして。
チャリッ。
鍵束を取り出す音が聞こえた。俺の全身の毛が逆立った。そうだ、あいつは俺の部屋の合鍵(緊急用)を持っている。先月、俺が過労(という名の二日酔い)で倒れた際、部長に命令されて渋々預けたのだ。
「犬飼さーん、入りますよ?倒れてるかもしれないんで……」
ガチャリ。鍵穴に金属が差し込まれる音。終わった。ドアが開けば、そこには猫耳パーカーの美少女(中身はおっさん)がいる。言い訳不可能。社会的な死だ。
「……開けるなッ!」
俺は叫んでいた。思考するより先に、モニターの通話ボタンを肉球で叩き潰していた。
『うわっ!?』
スピーカー越しに佐藤の驚く声が聞こえる。
『え、だ、誰ですか?女の人……?』
……やってしまった。俺は口元を手で覆ったが、もう遅い。完全に「女の声」で叫んでしまった。心臓が早鐘を打つ。どうする?連れ込み女だと思われる?いや、それならまだマシだ。猫耳がバレるよりは。
俺は深呼吸をし、腹を据えた。やるしかない。俺はできるだけ不機嫌そうに、気だるげな演技でまくし立てた。
「……あー、あんたが佐藤さん?兄貴から聞いてるわ」
『あ、兄貴?えっと、犬飼さんの……?』
「妹よ。兄貴、高熱で死んでるから。私が看病に来てんの」
苦しい嘘だ。犬飼剛に妹はいない。だが、佐藤は俺の家族構成まで知っていただろうか?数秒の沈黙。
『あ、そうだったんですか!すみません、一人っ子だと勝手に思ってて……。はじめまして、部下の佐藤です』
勝った。佐藤の純朴さに救われた。
「……どうも。で、何か用?」
『あ、はい。現場の修正図面と、あとゼリーとか買ってきたんで。お渡ししたいんですが』
「今は無理。兄貴、薬飲んでやっと寝ついたところだから。起こさないでやって」
『わかりました。じゃあ、ドアノブに掛けておきます』
ガサゴソと袋を掛ける音。佐藤が立ち去ろうとする気配がする。俺は、ふと思いついて呼び止めた。今後のために、釘を刺しておかねばならない。
「……あ、ちょっと待って」
『は、はい?』
「兄貴、かなり辛そうなのよ。正直、数日で戻れる状態じゃないわ。もしかしたら、しばらく休むことになるかも」
『……!そんなに悪いんですか……』
「ええ。だから、会社の方にはそう伝えておいて」
『わ、わかりました!部長には「当分安静が必要です」って報告しておきます!』
頼もしい返事だ。だが、次の言葉が、俺の胸に小さく刺さった。
『現場のことは俺たちがなんとかするんで!心配しないでって、お兄さんに伝えてください!では、失礼します!』
ダダダと階段を降りる足音が遠ざかる。俺はその場にへたり込んだ。正直、寿命が三年は縮んだと思う。
◆
数分後。俺はドアを少しだけ開け、佐藤が置いていった荷物を回収した。リビングに戻り、物を確認する。
まずはコンビニの袋。そこには、ゼリー飲料が10個入っている。部長からのメッセージだろうか?『ゆっくり休めよ』と、メモも入っている。普段は厳しいが、こういう時は実に有難い。そして、同伴されていた茶封筒を開ける。中から出てきたのは、A3サイズの施工図面だ。
広げてみる。そこには、戦場のような赤ペン修正と、佐藤の悲痛なメモ書きがあった。
『設備業者ともめてます』
『A案だとダクトが梁に当たります』
『B案だと天井高が足りません』
『どうすればいいですか?』
図面を見た瞬間、俺の中でスイッチが入る。瞬時に脳内で3Dモデルを構築する。確か、あのあたりは確かに取り合が難しい。なんども図面屋から修正が入ってきて喧嘩になっていたし、構造屋や施主からも色々と言われていた場所だ。だが、佐藤は大切なことを忘れている。
A案?
B案?
馬鹿野郎、どっちも違うだろう。これはC案――「ダクトをS字に振って、梁のスリーブ位置をずらす」のが正解だ。佐藤のやつ、テンパって過去の議事録を見落としてやがる。
「……俺がいねぇと、やっぱりダメじゃねぇか」
『現場のことは俺たちがなんとかする』
さっきの佐藤の言葉を思い出す。さっそく、何とかできてないじゃないか。
◆
さて、では、これを早めに教えてやらなきゃ、現場が止まる。明日の朝から間違った工事が始まってしまう。俺はテーブルに向き直った。とは言っても、電話はできない。この手じゃあメールもまともに打てない。視線が、図面の横に転がっていた赤ペンに止まる。普段、俺が使っているものだ。
「……書くか。直接」
俺は震える手(クリームパン)を伸ばした。赤マジックを掴む。キャップを外すのに苦戦し、勢い余って部屋の隅へ飛ばす。俺はマジックを両手で挟み込むように持った。鉛筆持ちは不可能だ。幼児のような「グー握り」。だが、インクは出る。
俺は図面の上に覆いかぶさった。
キュッ、キュキュッ。
線が震える。ミミズが這ったようなヨレヨレの線。だが、魂は込めた。ダクトのルートを書き込み、余白に指示を書く。
『スリーブ イチ ヘンコウ』
『ギジロク サンショウ』
画数の多い漢字は書けない。俺はカタカナとひらがなを駆使し、まるで脅迫状のような筆跡で、修正指示を書き殴った。
「……よし。これで通じる」
書き終えた図面を見て、俺は考え込んだ。これを佐藤が見れば、筆跡や口調から「犬飼が書いた」と気づくだろう。だが、文字は震え、漢字も書けていない。あまりに不審だ。それに、また明日トラブルがあったら?
佐藤が「詳しく聞きたい」とまたアパートに来たら?その度に「妹」が追い返すのは限界がある。となれば、もっと効率的に、俺と現場を繋ぐパイプが必要だ。
俺はスマホを取り出し、タッチペンを使って、慣れない手つきで新しいフリーメールのアドレスを取得する。アカウント名は……『nekonote.genba』。―――猫の手。今の俺にふさわしい自虐的な名前だ。
俺は再び赤ペンを握り、図面の余白に、取得したばかりのアドレスを書き込んだ。だが、このアドレスを見た佐藤は、こう思うだろう。「犬飼先輩のアドレスだ」と。それはまずい。電話がかかってきたら詰む。あくまで「代理人」が管理しているという体にしなければ。
俺は少し考え、苦しいが、言い訳(設定)を書き添えた。
『アニキ ニ イワレテ ツクッタ』『カンリ ハ イモウト』『nekonote.genba@...』
「兄貴に言われて作った」「管理は妹」。
これでいい。『猫の手・現場』なんていう、いかにも俺(犬飼)が考えそうなID。そして、兄貴の指示だということにし、実際の操作(管理)は妹がやっている、という設定で通す。この図面の字が汚いのも、妹が聞き取って書いたから。
我ながら完璧な責任転嫁だ。明日以降はメールで質問が来るだろうから、ぽちぽちと返せばいい。
―――問題は、今日、これをどうやって届けるかだ。事務所であればスキャナーもあるから最悪メールで送れるが……ここにそんなものはない。郵送ではもちろん明日には間に合わない。
俺は窓の外を見た。夜の闇が広がっている。時刻は20時過ぎ。佐藤のアパートは、ここから徒歩15分。
「……行くか」
俺は、図面を丸めながら立ち上がった。パーカーを被り、フードを目深にする。靴は……スニーカーは入らない。俺はベランダ用の『クロックス(偽物)』に足を突っ込んだ。踵が浮いていて不安定だが、幅広のこれなら肉球があっても入る。走りにくいが、贅沢は言っていられない。
図面を丸め、腹のポケットにねじ込む。マスクをする。
「行くぞ。夜間巡回だ」
俺は自然と、ベランダから飛び出していた。
トンッ。
手すりを蹴り、闇夜に舞う。サンダルが脱げないように足の指を目一杯広げて踏ん張る。その動きは、獲物を狙う「狩人」であり、現場を守る「監督」そのものだった。不思議だ。体が自由に動く。塀を超え、細い横道をすり抜け、あっという間に世界を縮める。結局、佐藤のアパートまで、5分もかからなかった。
俺は影のように移動し、2階の佐藤の部屋の前へ。丸めた図面を取り出す。そこには、来る前に書き足しておいた一文があった。
『ダイジョウブ オマエナラ デキル』
これも、妹が兄の言葉をそのまま書き写した、ということにしておこう。俺は図面をポストに押し込んだ。カタリ、と音がして、部屋の中に落ちる。
部屋の中で佐藤が動く気配がした。俺は翻(ひるがえ)った。階段を飛び越え、パタパタとサンダルを鳴らしながら、闇夜に溶け込むように走り去った。
◆
帰り道。俺は公園のジャングルジムの上に登り、月を見上げた。呼吸は乱れていない。体は熱いが、頭は冷えている。
誰にも知られず、礼も言われない仕事。だが、ネットで動画を見るだけの時間より、ずっと生きている心地がした。なんだろうな。やっぱり俺は、現場監督なんだろう。これからは、あのメールアドレスが俺の武器になる。妹(という設定の俺)が打つメールで、現場を動かせる。
……ま、妹が居る、ってのが、我ながらかなり無茶な設定だがな。だか、まぁ、やりようはあるさ。
俺はニヤリと笑った。現場監督・犬飼剛の、「在宅(テレワーク)影の支配者」としての生活が、ここから始まる。