朝起きたら猫耳の美少女になっていたが、肉球が邪魔でスマホのロック解除すらできない 作:灯火011
佐藤が図面を持って帰った翌日の夜。時刻は19時を回ったところだ。俺は、六畳一間のアパートの床で、深刻な「飢え」と戦っていた。
「……腹が、減った」
ただの空腹ではない。体の芯からエネルギーが枯渇していくような、強烈な飢餓感だ。この猫耳の体になってから、燃費の悪さが尋常ではない。体温が高いせいか、あるいは常に全身の筋肉がバネのように張り詰めているせいか、とにかくカロリーを消費する。佐藤が置いていったゼリー飲料は、昨夜のうちに全て吸い尽くしてしまった。あれは美味かったが、今の俺が求めているのは、もっとこう、ガツンとくる「タンパク質」だ。
それに、もう一つ。人間としての尊厳に関わる、重大な物資不足が発生していた。トイレットペーパーだ。残り一巻きを切った。これはマズい。非常にマズい。
ただでさえ、この体で人間用の洋式トイレを使うのは、サーカスのような曲芸を強いられるのだ。便座の上でバランスを取り、肉球で滑らないように踏ん張り、終わった後は不自由な手でペーパーを巻き取る。もしペーパーが尽きれば、俺は名実ともに「野良猫」以下の存在に堕ちてしまう。それだけは、現場監督としてのプライドが許さなかった。
「……買い出しだにゃ。なんにしても、コンビニに行くしかねぇ」
俺はのっそりと立ち上がった。鏡を見る。そこには、シルバーグレーの髪に猫耳を生やした、あざといほどに可憐な美少女が映っている。だが、その瞳は、獲物を狙う獣のようにギラついていた。
……時々出てしまう『にゃ』は、もう気にしない事にしよう。
俺は「戦闘服」に身を包んだ。グレーのダボダボパーカー。フードを目深に被り、猫耳を隠す。顔には大きめのマスク。これで表情と美貌を隠蔽する。そして、足元。ここが相変わらずの最大の難関だ。
俺は玄関に転がっている、ベランダ用の『クロックス(偽物)』に足を突っ込んだ。踵(かかと)が浮き上がったこの「趾行性(しこうせい)」の足には、人間用のスニーカーも革靴も、構造的に履くことができない。唯一、幅広で甲が高いこのサンダルだけが、俺の肉球を受け入れてくれる。爪先でサンダルの縁を引っ掛けるようにして履く。走ればパタパタと情けない音がするし、脱げそうになるが、裸足でアスファルトを歩くよりはマシだ。
「よし……行くぞ」
時刻は19時30分。数日前、あのサラリーマンと遭遇し、小銭をばら撒かせてしまったのと同じ時間帯だ。ネットでは「コンビニの妖精」だの「神速の美少女」だのと騒がれているが、まさかまた同じ時間の同じ店に現れるとは思うまい。
俺はベランダの窓を開けた。夜風が、敏感になった頬の産毛を撫でる。
トンッ。
手すりを軽く蹴る。重力を忘れたかのような浮遊感と共に、俺は闇夜へと飛び出した。着地と同時に、脱げそうになるサンダルを足の指(肉球)を目一杯広げて踏ん張る。俺は街灯の影を縫うようにして、夜の住宅街を疾走した。
◆
コンビニの自動ドアが開く。冷房の効いた空気が、火照った体に心地よい。俺はフードをさらに深く被り直し、店内を素早く偵察した。
客はまばらだ。雑誌コーナーに立ち読みが二人。ATMに一人。レジには、前回と同じ若い男性バイトがいる。俺は誰とも目を合わせないようにして、一直線に食品コーナーへ向かった。
狙うはタンパク質。サラダチキンだ。プレーン、ハーブ、スモーク。手当たり次第にカゴに放り込む。計5個。次にカット野菜。ビタミンも必要だ。そして最重要ミッション、トイレットペーパー。12ロール入りは大きすぎて持てないため、4ロール入りの高いやつを選ぶ。
カゴがずっしりと重くなる。俺はレジへと向かった。バイト君が、俺のカゴを受け取ろうとして、顔を上げ――そして、固まった。
「あっ……」
声が漏れている。その視線が、俺のパーカーのフードの膨らみ(隠しきれない猫耳)と、足元の薄汚れたクロックス(偽)に釘付けになっている。バレている。完全に「あの時の猫耳の人」だと認識されている。
「い、いらっしゃいませ……!」
バイト君の声が裏返った。テンションが異常に高い。手元が震えている。俺は無言で威圧感を放ちながら(美少女なので効果は不明だが)、スマホを取り出した。今回は、秘密兵器がある。100円ショップで買ったタッチペンだ。前回のように、レジの前でスマホに鼻キスをするような醜態は晒さない。
ピッ。
画面にペン先を走らせ、スムーズに決済アプリを起動する。バーコードを提示。完璧だ。スマートな都会人の振る舞いだ。決済音が鳴ると同時に、俺はレジ袋をひったくった。バイト君が何か言いたそうに口パクしているが、構ってはいられない。
「ありがとうございます!」
という声を背中で受け止めながら、俺は逃げるように店を出た。とりあえず、ミッションコンプリートだ。
◆
自動ドアを抜け、夜風に当たった。ふぅ、と息を吐く。任務完了だ。あとはこの戦利品を持って、誰にも見つからずにアパートへ帰還するだけ――。
「あ、あのっ!」
不意に、背後から声をかけられた。店員ではない。もっと落ち着いた、深みのある大人の男の声。俺はビクリとして振り返った。
そこに立っていたのは、くたびれたスーツの中年男性だった。白髪交じりの髪、疲労が滲む目元、そして少し猫背気味の姿勢。見覚えがある。数日前、この場所で小銭を派手にばら撒き、俺がそれを拾ってやった、あのサラリーマンだ。
(……待ち伏せか!?)
俺は瞬時に警戒モードに入った。重心を低くし、レジ袋を盾(シールド)のように構える。サンダルのグリップを確かめる。いつでもダッシュで逃げられるように。
「やっぱり!そのパーカーとサンダル……先日助けていただいた者です!」
サラリーマンは、俺の顔を見るなりパァッと表情を明るくし、深々と頭を下げた。敵意はないようだ。むしろ、顔には安堵と、純粋な感謝の色が浮かんでいる。
「あの日、お礼も言えずに立ち去られてしまったので……ずっと気になっておりまして。もしかしたら、またこの時間にいらっしゃるかと思って、仕事帰りに少し待っていたんです」
俺は眉をひそめた(マスクの下で)。仕事帰りに待っていた?このおっさんが?ストーカー予備軍かと思ったが、その瞳はあまりにも善良で、必死だった。おそらく、本当に「礼を言わないと気が済まない」という、昭和気質の律儀な人間なのだろう。
「……別に。気にしてない」
俺はハスキーな声で短く答えた。極力、関わりたくない。俺は踵を返そうとした。だが、サラリーマンは慌てて俺を呼び止めた。
「待ってください!これ、よかったら受け取ってください!」
彼が差し出したのは、可愛らしいパステルカラーの手提げ袋だった。有名百貨店のロゴが入っている。コンビニで買ったものではない。わざわざ、どこかのデパ地下で買ってきたものだ。
「怪しいものじゃありません!お近づきの印に……いや、その、お礼です!」
必死に弁明するおっさん。俺は警戒しつつも、その手提げ袋の中身をチラリと見た。化粧箱に入った、カラフルな丸い焼き菓子。
――マカロンだ。しかも、一個数百円はするような、高級パティスリーのやつだ。
「娘に聞いたら、若いお嬢さんにはこういうのが喜ばれると……。お口に合うか分かりませんが、甘いもので疲れを取ってください」
おっさんは、はにかむように笑った。……ズレている。いや、一般的には正解なのだろう。だが、俺の中身は「ビールと焼き鳥」を愛する38歳の現場監督だ。こんな砂糖の塊みたいな洒落た菓子、自分で買ったこともなければ、食った記憶もおぼろげだ。
だが、その不器用な気遣いが、少しだけこそばゆかった。こいつ、仕事で疲れているだろうに、わざわざデパートに寄って、慣れないスイーツ売り場でこれを買ってきたのか。俺は溜息を一つついて、萌え袖の指先で手提げ袋を受け取った。
「……どうも」
それだけ言うのが精一杯だった。おっさんは、さらに内ポケットから何かを取り出した。
「あと、これ、私の名刺です。もし何か困ったことがあれば、いつでも連絡してください。微力ながら力になりますから」
名刺。俺はそれも指先でつまみ取った。こんな怪しいパーカー女に名刺を渡すなんて、危機管理能力がなさすぎる。
「じゃあ」
俺は短く告げると、脱兎のごとく走り出した。
パタパタパタ!
サンダルが安っぽい音を立てる。走りにくいことこの上ないが、今の俺の脚力なら、それでも原付バイクくらいの速度は出る。あっという間に闇夜に消える俺の背中に向かって、サラリーマンが「ありがとうございましたー!」と叫ぶのが聞こえた。
◆
帰宅後。俺は買ってきた戦利品をテーブルに広げた。サラダチキンに齧り付き、飢餓感を満たす。一息ついたところで、おっさんから貰った「マカロン」の箱を開けてみた。宝石のように並んだ、ピンクや緑の菓子。
「……甘そうだな」
一つ摘んで口に入れる。サクッとした食感と、濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。――美味い、のか?疲れた脳には染みるが、やはり俺には甘すぎる。これは後でブラックコーヒーで流し込むとしよう。
俺は、ポケットに入れたままだった「名刺」のことを思い出し、テーブルに出した。
「あんなおっさんが、何の仕事してんだかな」
何気なく名刺の文字を目で追う。そして、固まった。口の中のマカロンが、喉に詰まりかけた。
【〇〇建設株式会社】
北関東支店 営業部 部長
高田 誠
「……んぐっ、ぶふっ!!」
俺は盛大に咽(む)せた。慌てて水を飲む。このおっさん、俺、知ってるわ!
〇〇建設。誰もが知るスーパーゼネコン。そして何より、俺が勤めている建設会社の、一次下請けとしての元請け(親会社)じゃねぇか!
しかも、北関東支店の営業部長。これは「偉い人」なんてレベルではない。
俺たち下請けの現場監督にとって、元請けの営業部長というのは、もはや「神」に近い存在だ。彼の一声で現場が動き、彼の一声で次の仕事が決まり、彼の一声で俺たちのボーナスが消し飛ぶ。たまに現場視察に来る時は、所長以下の全員が直立不動で出迎える、雲の上の存在だ。
「嘘だろ……あのおっさんが高田部長?」
俺の手が震えた。現場視察で見かけた時は、白いヘルメットに作業服姿だったから、全く気づかなかった。スーツ姿で、しかもあんなに情けなくコンビニで小銭をばら撒いていれば、分かるはずがない。
俺は頭を抱えた。俺(猫耳美少女)は、建設業界の食物連鎖の頂点に立つ人間に、恩を売り、顔を覚えられ、あまつさえ「マカロン」まで貢がれてしまった。しかも、俺の中身は、その下請け会社の現場監督(現在病欠扱い)。
「世間、狭すぎだろ……!」
もし、この「高田部長」が、俺の現場に来て、「いやー、この前コンビニですごい美少女に会ってね」なんて雑談を始めたら?あるいは、俺がまた彼に会ってしまい、うっかり業界用語を口走ってボロを出したら?なんか、いやーな予感がするわ。
……いや、待てよ。俺は震える手で名刺を見つめた。
―――これは、爆弾であると同時に、「最強のコネ」になるんじゃないか?
元請けの部長が、俺(の変身した姿)に個人的な借りを返したがっている。『何か困ったことがあれば、いつでも連絡してください』と言っていた。この名刺、上手く使えば、現場レベルではどうにもならないトラブルを、上からの一声(天の声)で解決できるジョーカーになるかもしれない。
「……いや、危険すぎる。今は保留だにゃ」
俺は頭を振って、名刺をテーブルの奥、マカロンの箱の下に押し込んだ。おいおいだ。おいおい。焦っても碌なことはない。それに今はそれどころじゃない。俺には、確認しなければならないことがある。
俺はスマホを手に取った。昨日、佐藤への図面に書き残したフリーメールのアドレス。『nekonote.genba@...』。『管理は妹』という、責任転嫁の言い訳を添えたあれだ。
そろそろ何か来てんじゃないか、と思いながらメールアプリを開く。案の定、新着メールが1件。
差出人:佐藤 健太
件名:図面の件と、妹さんへ
来ていた。俺は緊張しながらメールを開封する。佐藤はどう反応してくる?「ふざけるな犬飼」と怒ってくるか?それとも「病院に連絡します」か?もしかすると、部長がそちらに行きます、とかか?いやもうそうなったら腹を括って真実を話すしか無いんだが。
『突然のメール失礼します。大都建設の下請けで現場担当をしている佐藤です。今朝、ポストに入っていた図面の修正指示、拝見しました。的確な指示のおかげで、設備業者とのトラブルは解決できそうです。本当にありがとうございます。
図面のメモも拝見しました。妹さんが管理されているとのこと、驚きました。犬飼先輩(お兄様)は、まだご自分でメールを打つのも辛い状況なのでしょうか……。慣れない専門用語ばかりで、聞き取って入力するのも大変でしたよね。震える文字を見て、一生懸命書いてくださったのが伝わってきて、胸が熱くなりました。
妹さんのおかげで、現場は救われました。犬飼先輩にも「今は無理せず、ゆっくり休んでください」とよろしくお伝えください』
……マジか。
文面から、混じりっけなしの感謝と労(ねぎら)いが溢れ出している。こいつ、本気で信じてやがる。「震える文字」は、俺が肉球で苦戦した結果だ。「専門用語」も、俺の脳内から直接出力されたものだ。だが佐藤は、それをすべて「健気な妹の献身」として受け取っている。
「……お前よお、いい奴すぎんにゃろ」
俺は少しだけ胸が痛んだ。こんな純朴な部下を騙している自分が情けない。「胸が熱くなりました」じゃないんだよ。騙されてるんだよお前は。……だが、今はこうするしかないんだ。すまん、佐藤。この借りは、必ず仕事で返す。
俺はタッチペンを構えた。ここからは『不機嫌だが仕事はする妹』に、なりきって返信するしかない。俺は短く打ち込んだ。
『メールどうも。妹です。兄貴は喉やってて喋るのもキツイから、私が全部やってる。現場のことで困ったら、ここに送って。兄貴に見せるから』
送信ボタンをタップする。ぶっきらぼうな口調。これでいい。
そして、数分後。佐藤から即レスが来た。
『ありがとうございます、妹さん!では、お言葉に甘えて。実は、別の工区でも問題が起きていまして……。犬飼先輩なら分かると思うのですが、例の配管ルートの件です。図面を送ってもよろしいでしょうか?』
俺はニヤリと笑った。成立した。俺と佐藤の、奇妙な共犯関係(テレワーク)が。俺はすぐに返信した。
『送って。すぐ兄貴に見せる』
俺はサラダチキンをかじりながら、送られてくるであろうPDFを待った。テーブルには、元請け部長の名刺と、高級マカロン。そしてスマホの中には、現場からのSOS。この六畳一間のアパートが、今や現場の影の司令塔だ。
さあ、仕事の時間だ。
次話投稿は26日(月曜日)予定です。
おじさんがTSFしながら真面目に自分の仕事をする。
これも良い味、しませんか?しませんか?しますよね?ね?